第3話 突人



第三章 『突人』



幻覚。

今の私はまさにそんな状態であった。

駅のホームで犯した過ちによって狂わされた私の精神。

それによって目の前の現実を、捻じ曲げて変換して映し出していた。

人の精神が極限状態になると、見えないものまで見えてしまったり、見ているものがおかしく見えたりするそうだ。

私の脳と目を繋ぐ神経が、狂って映し出した映像。

目の前にいる老人が、自分の一物をプランと垂らしてそれを自らしごいていた・・・

しかも、その老人は、私を若い女性の裸体でも見るかのように、紅潮した頬と潤う瞳で凝視していた。

「え?」

いくら混乱しているとはいえ、私の脳は、何故にこのような間違った変換を行ってしまったのか?

我ながら意味不明で理解不能あったが、これは間違った状況であるとすぐに気が付いた。

そして目をゴシゴシとこすり、もう一度目の前の現状を、よおく見定めてみた。

すると、当然のことながら、一物をプランと垂らしてそれをしごいている老人などいやしなかった。

目の前には誰もいない・・・


「よぉ!ここにいたのか!」


「うわっ!」

突然、後ろから声が聞こえたので、私は驚きのあまり声を出して驚いてしまった。

私の前に立つ老人。背丈は小さく、白髪で虎刈り。

白いスーツにピンクのポロシャツ。スーツの裾は両手を覆い隠すくらいに長かった。

「心配したぜぇ?てっきり自殺でもやらかしてると思ったよ。だってあんなことがあった後だもんな!」

(・・・・・・・・)

この老人は知っている。

数分前、私が駅で犯した罪を知っている。

何故?なぜこんな老人が、私の後を追ってきたのだろうか?

いや、たまたま偶然駅に居合わせ、たまたまここを通りかかって私を見つけて声をかけたのだろうか?

どちらにしろ、この老人は私と全く無関係ではないのだ。

まさか、こう見えても実は警官かなんかで、痴漢の現行犯で私を逮捕しに来たのではないか?

タラリ。

私の額から冷たい汗が流れる。

しばしの沈黙・・・

すると、その老人はニッコリと微笑んで近づいてきた。

「そう硬くなるなや、にいちゃん。ま、ちょっとついてきな。どうせ行くあてもないんだろ?」

(・・・・にいちゃん)

確かにこの老人は私のことを、『にいちゃん』と呼んだ。聞き間違いではない。

どこをどう見ても50過ぎの年齢に見える私のことを、にいちゃんと呼ぶには違和感があった。

この老人は見たところ60歳後半。

強引に考えてみれば、私のことを若造呼ばわりするのもうなずける。

それとも、この老人は、年下の者を全てにいちゃんと呼んでいるのかもしれない。

とにかく、私のことをにいちゃんと呼ぶ老人に、少しだけ興味が沸いたのは確かだった。


老人はスタスタと歩き出し、大通りをすぐ曲がり、細い路地裏に入った。

私は何かに引き寄せられるかのように、その老人の後を追った。

私が後ろからついて来るのがわかると、その老人は振り返りニッコリ笑った。

そしてまた路地裏を奥へと進んでいった。

その歩き方・・・というか、まるでここら辺一帯のボスネコのように、知り尽くした道を我が物顔で歩いてるような風格があった。


5分ほどその老人の後を歩く私。

その行動は自分でも理解できなかった。

何故、あんなことがあった後なのに、私はこの正体不明の老人の後をついていくのだろうか?

いや、逆にあんなことがあった後だからこそ、何かが吹っ切れた感覚があったのかもしれない。

とにかく、私は今、自分の臆病で警戒心の強い性格を全否定していた。

好奇心旺盛に何かを見届けたい気持ちと、どうにでもなれという、やけっぱちな性格になっていたのだ。


そして、その老人が立ち止まった場所。

そこは古びたバーのような入り口だった。

何故、そこがバーとわかったのかと言うと、古ぼけてくすんだ緑色の看板に、白い汚れた字で文字が書かれていたからだ。だが、建物の間から生えているツルが絡まって、その文字がはっきり見えなかった。

それでもそこは、バーの象徴でもある少し洒落た雰囲気のドアからも想像できた。

ガラン・・・

老人は私に、ここへの入店を確認するでもなく、自分の家に入るよう無造作にドアを開けた。

店内は薄暗かったが、なかなか雰囲気のある落ち着いた店だった。

「おう、どうだい景気は?!」

老人は馴染みの客であるように、店のマスターに声をかけた。

白髪を薄茶色に染めたような長髪をかきわけ、マスターは答えた。

「へへ・・毎度のことながら、この有様でさぁ・・・」

ほうきのようにモワッと膨らんだクチヒゲの隙間から、わずかに口が開き、頼りなさそうなか細い声が聞こえた。

「こんな怪しい場所じゃ客もよりつかねえか!ま、とりあえずイッパイ出してくれや!」

「へぇ、いつもので・・・・」

老人は、店の経営などお構いなしかのように、ドカリとカウンターに座った。


それにしても、こんな朝っぱらから店を開いて、客が来るのだろうか?

こんな朝だからこそ、客がいなくて当然ではないのだろうか?

私は、この時間にバーが開いていること自体に驚いたのだった。


「どうしたい、ここ来て座らねぇか、にいちゃん!」

老人は私に手招きし、隣に座るよう促した。私は恐る恐る、老人の横に座った。

私はバーという場所にあまり来たことがなかった。

ほとんどが駅前の赤提灯で、焼き鳥と焼酎でイッパイやっていたのだった。

だから、会社の接待の時以外、バーやクラブに入ったことがなかった。

マスターが、小柄で厚めのグラスに、ウイスキーをトクトクと注ぐ。

やはりそれはお酒だった。

もしかしたら、コーヒーでも出てくるのかと思ったが、このツンとくるアルコール臭は間違いなかった。

それに、よく見ると、かなり高級な部類に入るウイスキーだった。

私はそのウイスキーを、過去に一杯しか飲んだことがなかった。それほど高級な一品だった。

老人が親指で、私のほうにもクイと指差した。

店のマスターは、私のところにもグラスを置き、トクトクとウイスキーを注いだ。

グラスには水はおろか氷すら入っていない。

こんな強いお酒を、ストレートで、それも一杯目から飲むのか?

私の胃は、強いお酒を流し込む準備のため、少し身構えた。

ごくり、ごくり。

私が躊躇していると、何とその老人は、グラスに注がれたウイスキーを、一気に飲み干してしまった。

「ふぃ~、キクねぇ・・・おい、もう一杯!」

「へい・・・」

マスターは、先ほどより、少し多めにウイスキーを注いだ。

私はその様を見て驚いた。

まさか私も、このグラスの中の液体全てを一気に飲み干さないといけないのだろうか?

そうしなければ失礼にあたるのではないだろうか?私は一瞬、考えてしまった。

「はは!にいちゃんはムリしなくていいからよ」

「・・・はい、いただきます・・・」

この言葉で、私は少しホッとした。これが私と老人の始めての会話だった。

考えてみれば、おかしなものである。

今日初対面の相手と、こんな朝からバーでお酒を飲むなんて・・・

それも、駅であんな出来事があった後だというのに・・・

頭の中に先ほどの記憶が浮かび上がり、私は、そんなイヤなものを忘れるため、ウイスキーをごくりと飲んだ。途中で喉がカーッと熱くなってきたので全部は飲み干せなかったが、それでも半分は飲んだ。

「はは、けっこういけるクチだなぁ!」

老人は嬉しそうに、私の背中をバンと叩いた。

ウイスキーが喉から胃へ、そして肝臓へと流れる感覚がして、平衡感覚がグラリと傾いた。

そして頭が少しポヤンとしてきた。さすがにウイスキーのストレートはよく効く。いや、効き過ぎる。

体中の血管がドクンと膨張し、お尻の筋肉が少しゆるむ。どうやら私は少し酔ったようだ。


私は、しばらく無言で、そのウイスキーをちびりちびりと口に含んだ。

チラリと時計を見ると、まだ朝の10時・・・

本当だったら、今では会社で仕事をしている時間だ。

(わたしはこんなところで何をしているのだろうか・・・)

焦る気持ちと不安感を消し去るため、さらに酒を口に運ぶ結果になった。


「あの~・・・ひとつお尋ねしたいのですが・・・」

それが私から老人への、初めての質問だった。

「ん?何だい、にいちゃん」

「あなたは何者・・いえ、あなたのお名前をお聞かせ願えないでしょうか?」

私が知りたかったのは、この老人の名前などではなかった。

だが、この老人が何者なのかが聞きたかったのだった。

しかし物事には順序というものがある。私はとりあえず話のキッカケを作るため、名前を聞いた。

「そんなにかしこまらなくてもええよ、にいいちゃん」

「はぁ、恐れ入ります・・・」

老人は2杯目のウイスキーをぐいいと空けた。相変わらず見事な飲みっぷりである。

「にいちゃん、ワシはウソが嫌いなんや、わかる?」

老人は、突然眉間にシワを寄せ、私に顔を近づけてきた。

(ビクッ!・・・)

老人のニコニコとした顔しか知らなかった私は、怖い顔つきに変わった老人に驚いた。

「は、はい、すいません!」

私は思わず謝ってしまった。別にウソなどついた覚えもないのだが、私がとりあえず相手の名前を聞いたことが、この老人には気にいらなかったのかもしれない。

「ワシの名前をそんなに聞きたいのか?」

老人は怖い顔のまま、さらに私に顔を近づけてきた。

「いえ、あの、そ、そうです・・はい」

ニッカ~。

すると老人は、万遍の笑みで私に笑いかけてきた。大きく開いた口から、金歯がいくつも見えた。

「ワシの名前はのぅ・・・そうじゃな、アップルちゃんと呼んでもらおうかのォ。ふぇふぇ!」

老人の口から出た言葉。


・・・アップルちゃん?


聞き間違えだ、絶対聞き間違えに決まっている。

60歳後半かと思われる容姿をしたこの老人が、何が楽しくて自分をアップルちゃんなどと呼ばせるものか?私は自分が酔っていることを自覚し、もう一度老人に聞き直そうとした。

しかし老人は、子供のように無邪気な笑い顔で、私の顔を直視していた。

それは明らかに、自分の名前をアップルちゃんと呼ばせたがっている、イジワルじみたような顔だった。

アップルちゃんという言葉を、もう一度聞き返すのは何かマズイと直感し、私は言葉を選んで聞きなおした。

「あの~・・・本当にそう呼んでも良いのですか?」

私は、老人が言った言葉が普通よりズレていることを再認識させるべく、アップルちゃんという言葉をあえて伏せて聞きなおした。

「ええよ、アップルちゃんって呼んでくれや!」

間違いない。今度は確実に聞き取れた。

この老人は、自分のことを、『アップルちゃん』と呼んで欲しいようだ。

アップルちゃん・・・アップルちゃん・・・アップルちゃん?・・・どう考えても不自然だ。

だってこの老人をアップルちゃんと呼び、それを聞いたまわりの人間は絶対おかしいと思うだろう。

アップルという英語に他の意味があっただろうか?いや、ないはずだ。

それとも『りんご』という言葉に、何か特別な意味でも込められているのだろうか?

ひょっとしたら青森県生まれなのかもしれないし、それを老人特有のオヤジギャグのようにフザけて言っているのかもしれない。

しかし、笑いのセンスのない私でさえ、この呼び方にはいささか疑問が残る・・・

よし!私は決心した。この老人を『アップルちゃん』と呼ぶことに。それは少しばかり勇気がいるものだった。

「えと・・・では、アップルさん・・・」

私はそう言うと老人の顔をチラッと見た。明らかにこめかみがピクッと動いたので、私はあわてて言葉を続けた。

「・・・じゃなくて、アップルちゃん。よ、よろしくお願いします・・・!」

自分の口から出た言葉のおかしさに、我ながら情けないやら恥ずかしいやらという気分だった。

「おう、よろしくな!で、あんたの名前は?」

「はい、河合修治(かわいしゅうじ)と申します」

「河合さんか・・・じゃ、シュウちゃんだな。よし、これから『シュウちゃん』と呼ぼう!わはは!」

老人は豪快にカウンターをバンバン叩いて笑った。


シュウちゃん・・・


私はみんなにそう呼ばれていた。

40年ほど前のことだが・・・・・

子供のころは、みんな私のことをシュウちゃん、シュウちゃんと呼んでくれていた。

私はそんな昔を思い出し、懐かしくて少し嬉しくなった。

私が気分を良くしているのを、この老人・・・いや、アップルちゃんも嬉しそうにしてくれたので、私は機嫌が良くなって、ウイスキーをガブリと飲んだ。


それから何時間ほど経ったのだろうか?

アップルちゃんも、子供の頃は田舎に住んでいたそうなので、昔の虫取りや川遊びの懐かしい話題で話が盛り上がった。

ウイスキーのビンはすでに3本目が空いていた。あまりにも口当たりの良いお酒だったのと、楽しい会話がツマミになって酒がどんどん進んだ。

そして話題が変わり、私が妻の愚痴をこぼすと、アップルちゃんはなぜか不機嫌そうになってしまった。

ひょっとしたらアップルちゃんも、以前、奥さんのことでイヤなことがあったのだろうと思い、その話はやめて話題を変えることにした。


酒というものは不思議な液体である。

ただ、『酔う』という行為の中に、人と人とのコミュニケーションが存在する。

それは、普段打ち解けづらい間柄でも、その距離をも縮めてしまう効力を持つ。

そして、バーのカウンターという空間では、初対面の相手でも、仲の良い同僚ですら話さない事でも、気軽に話せてしまうのだった。

そして私はさらけ出した。変化と刺激のない気だるい毎日を。

その反動で、朝の駅で犯してしまった自分の過ちを。


私のしでかした罪。

それは、駅で毎朝見かける清楚で可憐な少女。

その少女を自分のものにしようとし、捕まえようとしたこと。


許されるはずもない。

鬱憤の溜まった男が、水商売や売春婦に手を出すのとは訳が違う。

けがれのない未来ある少女を、自分の汚れた欲望のためだけに、その手に染めようとすることなど。


私は泣いた。

罪を犯そうとした自分が情けなくなって。

そして、その少女に対する詫びを込めて。


アップルちゃんは、黙ってその話を聞いてくれた。

捨てられた子犬を拾おうとするような、やさしい目で。

私は、世の中というのは、まだまだ捨てたものではないと思った。

精神的におかしくなってしまった私の話を、こんなに暖かく包んでくれる人間がいるのだから。

男を慰めるのは女だけではない。

酒を交わした男同士の友情の深さは、女の比ではない。

私の目からは、ウイスキーグラス一杯分くらいの涙が溢れていたのかもしれない。


「心配するなや、シュウちゃん。ワシがなんとかしたるから」

アップルちゃんは、そう言って私を励ましてくれた。

しかし、いくらこの老人がなんとかすると言っても、どうなるものでもないことはわかっている。

それでも、私を助けようとして、そう言ってくれるアップルちゃんの優しさは本物だと私は思った。

「ずいぶん心が癒されたよ、アップルちゃん。ありがとう」

「なに言ってる、水くさいぞシュウちゃん。大丈夫、明日はいつもどおり会社に行けばええ」

「いや、たぶん、私の人生はおわりだよ。だって朝、駅であんなことをしたのだから・・・・・」

「とにかく大丈夫だから、ワシを信じてくれや!」

アップルちゃんが自信満々に言い放った。


そんなバカな。

この老人が何者か知らないが、公衆の面前で犯した私の罪が消えるハズがない。

たとえ犯罪ではなかったとしても、顔を見た人からウワサは広がり、それは確実に私の会社や家にも広まってくる。ひょっとしたら誰かに通報され、警察に事情徴収される可能性だって充分にある。

この社会では、犯罪を犯さなくても、人道から外れた行為をすれば、簡単に疎外されてしまうものだ。

私の社会復帰などもうありえない。

たとえかろうじて会社にしがみついたとしても、私を見る目は犯罪者のそれとなんら変わりはないだろう。

終わった・・・私の人生は終わったのだ・・・

しかし、それでもこうして私の味方になってくれる人物がいることで、私の心はずいぶん救われた。

明日、会社に辞表を出そう。その先を考えるのはそれからだ。

今は、自分の犯した過ちを認め、罪を償うべきなのだ。

その決心がついた。


「じゃ、シュウちゃん。ワシはこれから用事があるからな」

「ああ、ありがとう、アップルちゃん。だいぶ元気が出たよ・・・」

私が少し微笑むと、アップルちゃんは万遍の笑みでニカリと笑った。するとまた金歯が見えた。

「また会おうな!」

そう言うと、アップルちゃんは、私の手の甲を優しく包んで握手してくれた。

「うん、また」

手の平にアップルちゃんの暖かい体温が残る。私はまたアップルちゃんに会いたいと正直思った。


外に出ると、もう空は薄暗くなっていた。時間にして8時間ほど飲んでいたことになる。

帰り道、私は酔いが醒めぬまま、川原の堤防をヨタヨタと歩いた。

夕暮れになりかけ時で、人気は少なく静かな夕日だった。本来ならば、まだ仕事をしている時間である。

今日一日は本当にいろいろとあった。もう私の心に迷いはなかった。

心地よい風が、心の中でサラリと吹いていた。

辞表というものを生まれて初めて書くことになるのだが、まさかこんなワクワクした気持ちになるとは思っていなかった。私は、肩の荷が下りたような軽い気分だった。


私は心のどこかで、どこまでも続く満員電車を、途中下車したいと思っていたのかもしれない。


そして次の日の朝。

身元不明のある男の死体が、橋の高架下で発見されたのを私は知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る