第2話 突狂
第二章 『突狂』
今にして思えば。
あの時の私の感覚は、間違いなく蝕まれていたのかもしれない。
そう、あの不思議な体験をしてからの私は、間違いなく変わっていったのだから……
「おい! 俺、会社を辞めるからな!」
私は、居間でゴロ寝しながらテレビを見ている妻の背中を見て、そう怒鳴りつけた。
心の中で。
今日は残業が早く終わったので、家でひとり晩酌をしていた。
私こと、河合修治(かわい しゅうじ)は、冷蔵庫からツマミになりそうな食べ物をゴソゴソと物色していた。
(なんだ……何もないじゃないか……)
私は、冷蔵庫の奥から、ほうれん草のおひたしと、チーズを発見した。
ほうれん草はいつ茹でたか分からないが、変な色をしてないので、まぁ食べても大丈夫だろうと思った。
それに、醤油も何もかけないで口に運んだ。なんとも味気のない酒の肴である。
最近、会社の健康診断で、血圧と肝臓が悪いと言われたので、味の濃いものは控えるようにしていた。
(ま、酒を飲めば体に悪いのは結局一緒なんだがな・・・・)
そう思いつつもグラスにビールを並々と注ぎ、それをグイと喉に流し込んだ。
それにしても何とも味気ない。
いや酒の肴のほうれん草のことを言っているのではない。
何というか・・・この『空間と時間』なのだ。
味気のない『空間と時間』の原因とは何なのか?それは言うまでもなく私にはわかっていた。
私の住んでいる家は一戸建てではあるが、台所や居間、トイレに風呂などが、狭い空間にギチギチに詰め込まれていて、生活するのに最低限の坪数という環境であった。
庭などもなく、物置がやっと置ける程度のスペースしかなかった。
言い換えれば夢のない生活空間だった。
だが、残されたローンを考えると、それも無理だと思わざるを得ない。
本当は、居間には大きなテレビとシャンデリアが欲しい、玄関には背丈ほどの観葉植物が欲しい、掛け軸がバシッと掛けてある書斎が欲しい、台所に広々としたキッチンが欲しい。
・・・そして傍らには、キレイな奥さんが笑顔で微笑みながら晩酌して欲しい・・・
最後の願いだけは、とうてい叶うものでもないと思い、すぐに断念した。
今から20年ほど前。
結婚して子供もでき、勢いだけで購入してしまったマイホーム。
会社のみんなもローンで購入しているのを見て、「ああ、そういうものか」と、何も考えずにハンコを押してしまったあの時の自分にこう言いたい。
「身の程を知れ!」と。
月々の支払いはなんとか払えるものの、気の遠くなるような支払年数。
いったい、総額でいくら支払わないといけないのかと計算したことがあるが・・・
途中で電卓を床に叩きつけそうになった。それほど、ローン金利は膨大な金額に膨れ上がっていた。
こんな小さな家を買うのに、何故こんな大金を支払わないといけないのだ?
うさぎ小屋とはよくいったもの。
それにしても、もう少しなんとかしたいものだが、私の稼ぎでは、これ以上の良い物件で生活することなど望むだけ無駄であった。
これ以上の生活を望むだけ無駄なのだ。夢を見るだけ損なのだ。
それは居間でテレビを見ながら、大口開けて笑っている妻も充分理解していることだ。
しかし、文句は言われない反面、愚痴は毎日洪水のようにドバドバと聞かされるのが苦痛だ。
願わくば、ずっとテレビを見て大笑いし続けてもらいたいものである。
テレビがつまらなくなったら、大口であくびをしながら、また私に愚痴を吐き捨てに来るのだろう。
そんなことは、超能力者でもない私にでも容易に予想できる。
(まずい酒がますますまずくなってしまうな・・・・)
私はそう考えて、さっさとビールを飲み終えて風呂にでも入ろうと思った。
風呂場という空間は、自分の中では安らぎの空間だ。
外界との情報を一切シャットアウトし、その空間にいるのは自分ひとりだけ。
何者にも束縛されない空間が存在するのだ。
そして、暖かな湯が体をホンワカとほぐし、湯気が桃源郷のような不思議な雰囲気を演出してくれる。
おまけに鼻歌を口ずさめば、演歌歌手になったような気分を味わうことができる。
私は一刻も早く、その桃源郷に旅立ちたい心境に刈られ、ビールを早々と飲み干した。
なんだか苦くて口当たりの悪い酒であった。
ところが、その矢先。
私の浮き足立った気持ちは、地獄へとまっさかさまに突き落とされたのだった。
「ねぇ、アンタ、離婚しない?」
この一言の意味を理解するのに、私は数十秒かかった。
私の語彙にはあまり馴染みのない言葉だった。
それからは妻が何を喋ったのか覚えていない。
私は呆然としたまま風呂につかり、どこをどう洗ったのかも覚えていないまま布団に入った。
そして次の朝。
妻は昨日の件をまた話し始めた。
「アンタ、昨日のことだけどさぁ・・・」
そう言われて私は、途端に嫌悪感を感じた。
「その話はまた今度な。今日も残業で遅くなりそうだし・・・」
私はお茶を濁すようにして、ネクタイを結ぶのもままならないまま逃げるように家を出た。
いつものように電車の中でガタゴト揺られながら、私はボーッと考えていた。
(最近テレビか何かで見たことがあるぞ・・・定年を迎えると同時に離婚を切り出す妻が増えていると・・・そして、夫は決まってこう言うらしいな・・・)
「まさか、アイツがそんなことを考えていたなんて・・・」
その時、突如体感したこともないような、例えようもない虚しさが体中に込み上げてきた。
喉がぎゅうぎゅうと締め付けるように苦しく、心臓をどんどんと叩かれるような痛み。
そして、こめかみから脳味噌までドリルで穴を空けられたような不快感。
この『例えようのない感覚』は、私が人生の中で始めて体験する不快な感覚であった。
これをあえて『虚しさ』と表現したが、これ以上的確な言葉が思い浮かんでこなかった。
「なんだ・・これは!」
私は思わず声を上げてしまった。
私の周りには、キャラメルの色のように濁った渦が取り巻いていた。
それはタバコのヤニのような汚らしい色と、鼻を覆いたくなるような臭みを持っていた。
その『ヤニ』は、手で掃っても掃っても私の周りから消えなかった。
まわりから私の仕草を見ている人は、間違いなく私を頭がおかしい人間だと思っているだろう。
しかし、私の周りに濁ったヤニが見えているのは、私にとって事実以外の何事でもない。
これを一刻も早く取り払わねば!
だが、どんなに必死に掃ってもそのヤニは消えず、私の手はただ空を切るだけであった。
私はこの目に見えている『ヤニ』は、自分の心の奥底から具現化したものだと直感した。
だから私はその解決策として、まず、心の中に水面を作った。
そして、その水面に起きた波紋を必死に抑えようと強く念じた。
(冷静に・・冷静に・・)
これは私が長い人生の中で編み出した、『精神安定法』であった。これが以外と良く効くのだ。
その精神安定法をしばらく続けると、なんとか目の前のヤニは消え去ったようだ。
(一体あれは何だったのだろうか・・・?)
まわりの乗客は、まだ私の方を白い目で見ている。
あたりまえだ。
何もない空間を、必死で手で振り払っているサラリーマンの姿は、異常としか例えようがない。
気が違っていると思われても仕方ないのだ。
私はまわりの冷たい視線に耐えられなくなり、電車の外の景色に視線を向けた。
すると今度は、電車の外を流れる景色が、深い海底のように一瞬にして暗くなった。
例えるなら、窓を見ている時に急にトンネルに入ったような、驚くような視野の変化。
(今度は何だ?!)
私は電車の窓に顔をへばりつけて外を見回した。
深い海底は油のような不純物が混ざってひどく汚れていた。
そしてその油のようなまだら模様は、グニャグニャと湾曲しながら現れては消えていった。
(私の精神はどうかしてしまったのだろうか?)
ひょっとしてこれが、いわゆる精神病の患者が見るという、幻覚というものだろうか?
それともSF現象なのだろうか?バカな!漫画じゃあるまいし!
『精神異常』
それ以外、理由が見つからない。
それとも何か?私はまだ昨日の夜から覚めない夢を見続けているのだろうか?
ひょっとしたら昨晩の離婚話も、風呂でうたた寝した際に見た夢が続いているのだろうか?
今の私の精神状態は、泣いたらいいのか笑ったらいいのか、それとも大声で叫んだらいいのか判断のつかない状況になっていた。
まわりの乗客は、またしても私の不振な行動に冷ややかな視線を送っている。
そればかりか、ボソボソと内緒話で私を変人扱いしている声まで聞こえてくる。
とにかく出よう。
この空間から脱出すればなんとかなるかもしれない。
そんな陳腐な思考が私の頭の中で芽生え、それを実行せよという命令が脳から伝達されてきた。
私は次の駅で、一目散に逃げるように、その『異様な空間』から逃れた。
「ふぅ・・・なんだったのだ?今の現象は・・・」
会社に着くまでには、あと3つも駅を越さないといけなかったが、今はそれどころじゃない。
こんな精神状態で会社へ行けば、またおかしくなって私は会社をクビになってしまうだろう。
それを大袈裟とも言えないぐらい、今の私は異常なのだ。
冗談ではない!まだ家のローンが残っているのに!
(とにかく落ち着くんだ・・・そして冷静になるんだ・・・)
しばらくの間、私は自分で自分に言い聞かせた。
「・・・・・・・・・・・・・普通だ・・・」
私の周りに見えた『ヤニ』はすでに消えていた。海底のような景色も今は見えない。
どうやら私の精神は正常に戻ったようらしい。
いや、異常になったから、あのような現象が見えたとは認めたくはない。
私の心はスッキリとせず釈然としない気持ちだった。
私はまわりが気になって仕方なくなり、不審者のようにキョロキョロと辺りを見回した。
もしも、また『ヤニ』が見えてしまわないかと警戒してみた。
大丈夫・・・私の精神は正常だ・・・やっとそう確信できた。
すると、さっき見えた現象は何だったのだろうか?まさか、本当にSF体験をしてしまったのか?
そんなことを考えるほどの柔軟な思考を、私が持ち合わせているハズがない。
だがあれは、確実に、現実に、切実に起こった事実なのだ。
今の私は非常によろしくない精神状態なのだ・・・・
(何か・・・何か、これが現実だと突きつけてくれる確定要素が欲しい!)
今の私が、確実に現実にこの世界で生きているといる証明をたまらなく欲した。
どこかにそんなものがないものか・・・・・私はあたりをキョロキョロと見回した。
あった・・・・!
そこには、狂った精神状態をまともな感覚にしてくれる素材が存在した。
でもそれは、逆に自分自身を更なる危険な世界へと、誘うマイナスな存在だったのかもしれない。
しかし。
私の精神は、良いか悪いか、善か悪か、そんな言葉で見分けられる余裕のある状態ではなかった。
私は何者かに憑依され体を乗っ取られたかの如く、フラフラとその『心の清涼剤』に向かって近づいた。
何故?なぜ私はそれを欲してそれに向かっていったのかはわからない。
ただ自然に体がそれを当然のように求めていたのだ。
例えば、普段はそれを手に取って舐めてみようともしない『塩』という存在があったとすると、ある無人島で水だけ飲んでいてはやがて死んでしまう。そこには塩分というものが自然と賄われていなければダメなのだ。人間はそんな普段見向きもしない物を、知らず知らずのうちに摂取していなければならないのだ。
そんな当たり前のように欲する存在を、私は純粋に生粋に求めた。
かくして私は、『それ』に歩み寄った訳だが、『それ』もただジッと私を受け入れてくれるほど、この世の中は甘くはない。『それ』は私が近づくにつれて警戒し、私から少し離れて距離をとった。
当然だ。
朝っぱらから 駅のホームで、 50過ぎのオジサンが 何をしていたか?
それは異常な光景であったに違いない。
ひとつ間違えれば・・・いや、間違いないだろう。
この日本という統治国家では、犯罪者というレッテルを貼られても仕方のない行為だった。
だが私には、『それ』を手にしなければならない正当な理由がある!
それがどうしても必要なのだ!私にはもう余裕なんてないし、一刻の猶予もない!
私はいよいよ強行手段を選ぶしか選択の余地はなくなった。
私は『それ』をギンと睨みつけると、獲物を狙う黒ヒョウのように、静かに、そして的確にジリジリと距離を詰めていった。
もし相手が私の範囲から逃げようものなら、飛び掛ってでも獲物を仕留めなければならない。
その時の私の遺伝子は、太古の昔の狩猟民族のレベルにまで遡っていたのかもしれない。
武器は持っていないが、いざという時は、右手の鞄の角でその獲物を強打すれば、『それ』はきっと私の手中に納まるだろう。
いける!
いや必ずやらねばならない。そして失敗は許されない。私の命がけの戦いは至烈を極めていた。
するとどうだろう?私の精神力が相手を圧倒したのか、『それ』は怯えた表情で身を強張らせ、その潤んだ瞳で、助けて!助けて!と哀願しているようだった。
私はその瞬間、勃起した。
ドクンッと命の鼓動が大きく膨らんだような感じを受けた。
少年の頃、外人女性のブロマイドで裸体を見た興奮とはまた違う、汚れない崇高な感覚。
アドレナリンが全身の毛穴から噴水のようにプシャーっと噴出す感覚。
もう止まらない止まれない!
回路がショートしたロボットが、敵の洗脳を受けて勝手に動き出してしまうように、私は『それ』の一歩手前まで近づいた。
目の前には、私の欲する物が確実に存在するという現実的な事実を、私はうっとりと噛み締めた。
さらに股間が熱くなるのを実感した。
いざゆかん!
私は右腕を上げ、『それ』に手を指し伸ばすと、『それ』はますます怯えた表情で口をフルフルとパクつかせていた。大声で助けを呼びたくても声も出ない可哀相な『それ』。
よしよし。いま私が楽にしてあげるよ?ほうら、もう怖くないのだよ・・・?
「あうっ・・」
その瞬間、私は射精した。
ビクビクと震える下腹部を両手で押さえると、口元からは唾液がこぼれてきそうなほどの快楽に包まれた。
朝の駅のホームで、スーツ姿のまま、まわりに人がいるという現実の中で起こった異常な行為。
そのありえない行為により、私の興奮度はますますグングンと上昇していった。
そしてまた勃起し、なんと、すぐに二度目の射精をしてしまった。
二度の射精を受け止めた下着では、それを吸収できなくなり、スーツのズボンにまで染み出てしまった。私はその異常なまでの快感に時と場所と我を忘れ、ただ日の光に満ちたこの世界に生きている悦びに浸っていた。
「変態ッ!」
その瞬間、私はハッとして、はじめて我に返った。
まわりをみると、サラリーマンやらOLやら学生やらが、私のことを腐った生ゴミのような目で見ていた。
そして驚きのあまり声を出したOLに続き、若いサラリーマンが大声を上げた。
「誰か!警察を呼べ!」
私はその言葉を聞いて、自分の犯した過ちの重さを実感した。
「その男をつかまえるんだ!」
次に聞こえた言葉で、私は運動会のスタートの合図のように、一目散に走りだした。
駅のホームから階段を駆け下り、改札口に定期を投げ入れ、無我夢中で駅から飛び出していった。
何故、50代の衰えた脚力で、あの場から逃げ延び、そして捕まらなかったのか?
それはこの後に出会う人物から、その理由を聞かされることになるのだった。
ハァハァ!・・・ハァハァ!・・・ゼハァ!ゼハァ!
自分でもどこをどう走ったのか覚えていない。
足の疲れが極限にまで達し、崩れるように倒れ込んだ。
気が付けば私は、繁華街の路地裏の奥で、頭を抱えた団子虫のようにうずくまって震えていた。
(もうおしまいだ!もうおしまいだッ!)
私は心の中で何度も何度も、そう大声で叫んだ。
張り裂けそうなほどに膨張した心臓の鼓動を押さえ、焼けるような喉元からは、灼熱のように渇いた息がヒューヒューと噴出されていた。
自分の犯してしまった行為に対しての罪悪感で、頭がギンギンと鳴り響く。
小学生の頃、野球のボールが校舎のガラスを割ってしまった時のように、どうしようもない罪悪感が、私の全身をザクザクと貫いた。
今の私には、冷静な判断力も常識的な行動力もない。
闇の中で、いつ体に突き刺さるのかわからない槍を、ただ怯えて待っている心境であった。
こんな感覚は一秒も持続して欲しくない。
誰でもいいから、この体の中で芋虫がうごめく様な胸糞悪い感覚から助け出して欲しい!
それを一秒間に百万回唱えるようなスピードで頭の中で唱えるが、それを絶対無理だと否定するもうひとりの自分がいた。どこか冷静で、無駄なことだと諦め悟ったような自分。
今まで生きてきた人間としての誇りが、たった一瞬の出来事によって破壊されてしまった現実。
自分の身は、二度と這い上がる事の出来ない深い谷底に、真っ逆さまに落下していく。
ちっぽけな人間風情が逆らう事の出来ない絶対的重力。
もし死ねるならば、死んでしまった方がラクだと、掛算の九九を答えるかのように簡単に頭に浮かぶ。
この歳まで大切に守ってきた尊厳が、一瞬にしてその価値を皆無な存在へと変えてしまったのだ。
自然と目頭が熱くなり、涙がこぼれた。これは悲しみを超えた惨めな涙なのだ。
ふと私は、そのうずくまった体制から、体を起こして路地の方を向いた。
それは私の本能のようなもので、意思とは反対に体が自然とそのような行動を起こしたのだ。
そのあまりにも突発的で異常な光景に、私はそれに反応するように体を動かしてしまったのだと思う。
だって、そこで私の見たものは、形容しようのない光景であったのだから・・・
そこで見た光景とは、これからの私の人生を狂わす出来事であったに違いないだろう。
路地裏のゴミ捨て場には、一匹のカラスがゴミを漁っていた。
そのカラスの黒い目玉には、漆黒の闇が映し出されていた。
深く、深く、深い闇。
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