突欲
しょもぺ
第1話 突夢
人は、欲望に支配された動物である。
使い切れないだけの金を欲し、無駄に広い家を欲し、幾人もの愛人を欲し……
その無限とも言える欲の中で、もっとも感情的な欲があるとしたら。
それは、『突欲』かもしれない。
突き動かされるような衝動で生きてみたい……誰もがそう思っていた。
だが、大人になるにつれ、それは少しずつ失われていく。
今の自分は何をしているのか?
今の自分は何をしたいのか?
そんな、生きる根本すら忘れてしまうほど、
現代の大人たちは、無味乾燥化してしまっていた。
ある夏の日。少年は朝早く目覚めた。
朝日がのぼるより前の、まだ薄暗い時間。
目覚まし時計をかけた訳でもないのに、自然と目が覚めるとフトンを跳ね除け、顔も洗わずに網と虫かごを持って自転車にまたがった。
自転車を走らせ、友人との待ち合わせ時間より10分も早く到着したのに、すでに、そこには友人が待っていた。
「おそーい!」
「ごめんよぉ!」
少しも遅れた訳でもないのに、少年は友人を待たせてしまったことを詫びた。
それは、友人がどんな心境で、自分が来るのを待っていたかを理解していたからだ。
もし自分だったら、1分でも待たされていたら、体がウズいておかしくなってしまうだろう。
それほど、心ウキウキと待ち望んだ時間なのだ。
空は薄暗く、林道に沿った砂利道を、ひたすらに自転車を漕ぐ少年たち。
額からは汗が垂れ、息遣いも荒くなっていた。
だが2人の少年は、それをこれっぽっちも苦ともせず、ただひたすらにペダルを漕いだ。
途中のきつい坂道では、先を走る友人が、自分のことを遅れないように心配して時々振り返って見てくれた。
それを安心させるように無言のまま笑顔で答える。
すると友人も、真っ白い歯をむき出しにして、笑顔を返してくれた。
待ち合わせ場所から自転車で走って30分ほどの場所に到着する。
そこからは、自転車を降り、森の奥へズンズンと徒歩で進む。
木の幹や枝が視界を阻むほどの獣道だが、少年たちはそれを起用にさばいて進んでいく。
木の葉の隙間から、東の空の明かりがうっすらと漏れてきた。
少年たちは焦り、無言のままそそくさと歩を早める。
そして。
遂に目的の場所へとたどり着いたのだった。
そこの木の幹の部分には、先日にたっぷりと蜜を塗っておいたのだった。
予想どおりその幹には、カブト虫やクワガタ虫がわらわらと群がっていた。
少年たちは立ち尽くしたまま、まん丸と目を見開き、その光景に釘付けになっていた。
そして、お互いに顔を見合わせうなずくと、そこに集まった昆虫を一目散につかまえ、
とりつかれたように夢中になって虫カゴへと詰め込んだ。
少年たちにとってそれは、無人島で発見した宝の山だった。
虫かごの中の黒い虫たちは、キラキラと宝石のように輝いて見えたのだった。
東の空が明るくなり、セミたちもミンミンと騒音を発しだす。
だが少年たちには、鬱陶しいセミの鳴き声も、自分たちの冒険の成功を賛美しているかのように心地よく聞こえた。帰り道では自転車を両手離しで運転しながら、捕まえたカブト虫やクワガタ虫の大きさを、両手いっぱいに表現し、興奮しながら大声を上げた。
家に到着した頃には、すっかり朝日がのぼり明るくなっていた。
捕まえた昆虫の籠を大事にそっと机の上に置くと、急いで朝ごはんをかき込み、バットとボールを持ってまた家を飛び出すのだった。
それをあわてて追いかけ、野球帽をかぶらせてくれる母。
日差しがギンギンと強ければ強いほど、体中のエネルギーが満ち溢れてくるような一日の始まり。
今日はどんな冒険が待っているのだろうか?
未知なる興奮と発見を求め、少年は、今日も遊び疲れてクタクタになるまで外を飛び回るだろう。
そんな少年時代を、誰もが当たり前のように過ごしてきたはずだ。
いつまでも、こんな毎日が続くことを信じて止まない少年の目は、ギラギラと輝いていた。
胸の鼓動は、つねにドクドク、ドクドクと燃え盛っていたのだった。
あれから40年。
日本は大きく変わっていった。
戦後の傷跡は、高度成長期によって癒され、まわりの生活水準はみるみると上昇していき、カラーテレビや冷蔵庫に車と、贅沢品で埋め尽くされていった。
20代は学生運動に燃えた。
30代は仕事に燃えた。
40代は家族の平和に尽くした。
そしていま50代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・するべきことがなくなってしまった。
この物語の主人公、『河合 修治』 (かわい しゅうじ) は、そんな人生を送ってきたのだった。
そして彼は今、自分の人生を振り返り、隣に座っている少女の横顔を、黙ってみつめているのだった。
第一章 『突夢』
ある朝、修治は懐かしい夢を見た。
それは少年時代に、友達と山へ虫とりに行った夢であった。
修治の田舎は、自然に囲まれた土地だったので、近所の空き地で野球をし、山に登って探検をし、川で魚をとったり泳いだりと、遊ぶ場所は無限大に提供されていた。
そんな夢をここ数日、毎日見るようになった。
夢から覚めて起きると、懐かしさのあまり目から涙がこぼれていたこともあった。
それを妻に話すと、「なに言ってんのよ、いい年して!」と一笑にふせられてしまう。
修治は、そんな妻の態度に少しムッとしながら、手抜きの朝食をそそくさ食べ、ネクタイを締める。
「今日も暑くなりそうだ……」
修治は、ギラギラと照りつける太陽を見上げてウンザリとした。
朝の通勤ラッシュ。
私は電車が嫌いだ。
朝の通勤ラッシュは地獄だと形容してもいいだろう。
狭い電車内に、まるで豚殺場へと送られる豚のようにギチギチと詰め込まれてゆく。
自分の生活を維持するためだけに、それぞれの職場へとガタゴトと無造作に運搬されて行くのだ。
電車とは便利な交通機関だと思う。
しかし、こと通勤ラッシュ時に関しては、選択肢のない強制労働への監獄車のようなものだ。
途中下車、という個人の選択肢もない訳ではないが、それを選んでしまった先の不安を考えたら、このまま黙って乗車していた方がよほど安全だと、誰もが思っているはずだ。
降りる事は簡単だが、次の列車のキップを手に入れるのが困難な時代なのである。
いやな時代である……
でも、そんなことを考えてもどうにかなる訳でもないし、こうなったのも全て自分の責任である。
多少は、そんな社会に腹も立つが、自分自身に対しての憤慨はない。
今更、自分の人生が劇的に変化していく希望もあるわけではない。
だがそれでいいのだ。
現状を維持することの難しさはわかっているつもりだから、仕事があるだけマシだと思わなければ。
駅にくる途中、線路の高架下に、ダンボールと新聞で体を包んだホームレス達が眠っていた。
「ひょっとして、死んでいるのでは?」
とも思ったけど、それをいちいち確認するほど、わざわざ首をつっこむ人間もいない。
それが当たり前の光景のように、知らん顔で通り過ぎるしかないのだ。
ホームレスの横たわる傍らには、ビールや日本酒の空き瓶が散乱していた。
それは、自分達の惨めな生活を、酔って強引に忘れようとした様が一目瞭然であった。
良い夢を見ているのか? それとも悪い夢なのか?
どちらなのかは私にはわからないが。
そんな人達もいるのだから、私はまだまだ幸福な方だ。
そう自分に言い聞かせれば、少しは今の現状も楽に感じてくる。
そんな事を、電車の外を流れる殺風景な景色をタレ流しに見て、ぼんやりと考えていた。
これが今の自分なのだ、もうどうにもならない自分なのだ。これ以上どうしようもない。
気になる……
それにしても、隣の男が新聞をめくる度に、ガサガサと私の腕に当たるのが鬱陶しい。
この男は自分の行為を、誰かに迷惑がかかっているなどと微塵も思っていないのだろう。
それとも、それを承知の上でワザと行っているのだろうか?
私のようないかにも小心者が、何も文句を言ってこないと安心しているのだろうか?
どちらにしても、私の精神衛生上宜しくないのは確かだ。
私はワザとらしく、その男に聞こえるようにゴホンと咳払いをした。
だが、それでもその男は依然として、新聞をガサガサと平気でめくっている。
私は大人気ないが、もういちどワザと咳払いをした。
するとその男は、私が迷惑している事に気付いたのか、私の方に目線を合わせた。
その間、0.5秒ほどだった。それでその男に、私の意思が充分伝わったと思い、私は目線を反らした。
ずうっと相手の目を見ているのは気持ちの良いものではない。何か不快だ。
しかし、その男には私の誠意は通じず、相変わらずガサゴソと新聞をめくっていた。
さすがの私も、この男に愛想が尽き、社会の常識のカケラもない子供のような大人には、何を言っても無駄だと思った。
期待するだけ損なのだ。無駄なのだ。
意味のないことに意味はない。
そう自分に言い聞かせ、この男が誰か他の乗客……例えば強面のヤクザに注意され、さらに脅されれば少しは反省するだろう。そうなることを切望して止まなかった。それがこの男への当然の罰であると私は思った。
私は、ふとこんな話を思い出した。
とあるガソリンスタンドの店長から聞いた話なのだが、バイトと客がケンカして、バイトが客の顔を殴ってしまったそうだ。サービス業ではあってはならない行為だが、そのバイトが若くて不良っぽいと聞いてなんだか納得した。それでなんと、その殴られた客が実はヤクザで、示談金として20本で手を打つと言ってきたそうだ。
20本……それは20万ではなく、もうひとつゼロが多かったそうだ。
結局、200万という大金をそのバイトが払えるはずもなく、親が肩代わりして払ったという。
私はこんな話が、漫画の世界だけではなく、実社会で平然と行われていることに恐怖を感じた。
蛇足だが、その殴られたヤクザは、ワザとバイトを怒らせて殴らせている常習犯と聞いて、私は更に恐怖したものだ。
……話が反れてしまったが、そういったヤクザの餌食になるのは、私たち一般市民ではなく、この新聞ガサゴソ男のようなヤツにこそ、その災難が降りかかればいいと思う。
善良な市民は安全に暮らす権利がある。だがこの男には然るべき報復が下って当然なのだ。
私はそんなことを考えているうちに、その男がいずれ罰を受けるのかと思うと嬉しくなってきた。
だから、その男を横目でチラチラと見てほくそ笑んでやると、私の笑いに気付き、気分が悪そうな表情になった。
ざまあみろ。戦わずして勝つ。これが私流の戦いなのだから。
ひと勝負終えた頃、電車は3つ目の駅まで到着していた。
これがあと2つの駅を経て、そこから10分ほど歩けば会社へと到着する。
しかし、3つ目の駅を通り越し、4つ目の駅へと向かう電車の中、またしても私を不快にさせる出来事が立て続けに起こった。
まず不快なことのひとつめ。それは若い茶色の髪の学生であった。
こいつの耳元のヘッドホンからは、ガシャガシャと不快な音が垂れ流されていた。
それにしても、その機械は一体どこに携帯しているのだろうか?
電子機器の小型化は、日本人の得意分野ではあるが、あまりにも小さく携帯に便利にした結果、こうした公衆迷惑に繋がっているのも考え物だ。そもそも音楽なんて外で聴くものではない。家でのんびりとソファーに腰掛け、ドーナツ盤で音楽鑑賞するのが正しい楽しみ方なのだ。
それにしても鬱陶しい。
まわりの乗客も迷惑しているのだろうが、それを億尾にも顔に出していなかった。いや、出せなかったのだろう。私達サラリーマンである大人は、そんなガキどもにいちいち注意していられるほどヒマではないのだ。これから始まる一日の重労働をこなす体力と気力を、そんな下らない事で消費していられないのである。だから私も当然、そんな若者を無視することにした。
不快なことのふたつめ。
私は女性のつけるキツイ香水の匂いが苦手だった。
だから、電車で近くに自分好みの女性がいても、香水が臭いと嫌悪感すら覚えてしまうのだった。
だが、それらをウンザリと感じたところで、私の力でどうにかなるものではないこともわかっていたので、あまり深く考えないことにした。それが一番賢い方法だと思った。
そして、気持ちを別の物に更新するべく、窓の外の雲をボンヤリと眺めだした。
すると私の頭に、こんな考えが浮かんできた。
味気のない毎日を送っていても、それは当たり前のように、日常へと溶け込んでいく……
そう自分を、なだめるのか、けなしているのかもわからないような曖昧な言葉が、私には酷く重要に思えた。自分でも、何故このような突飛な言葉が浮かんできたのかよくわからなかった。
それにしても。
この通勤ラッシュというものは、すでに何年も経験して慣れたものだが、相変わらずの人の多さにはウンザリしてしまう。だから、こんな不快なことが起きてしまう。
しかし、そんな朝の通勤ラッシュだが、私にはひとつだけ楽しみがあった。
私は会社の近くの駅で降りると、今度は反対側の車線のホームへと向かう。
本来なら、その駅から会社へ向かって歩かないといけないのだが、あえて、そこで寄り道をする。
それはなぜか?
私は、駅のホームの売店で新聞を買い、新聞を読みながら時計をチラリと見て、電車を待っているようなしぐさをする。
私がこのような行動をとったのには訳がある。
新聞を見るフリをしながら視線を向けている方向には、ひとりの少女が立っていた。
青いラインの入った白いワンピースに長い黒髪。強い日差しから色白の肌を守るかのように、今時珍しく麦藁帽子をかぶっていた。
その少女は、少し不安げな表情で電車を待ちながら、ハンカチで汗を拭いていた。
そして時々、こちらの方向を振り返ったりするので、私はばれないように目線をそらし、全然興味のない株価情報に目を通す。
(私は、少女趣味にでもなってしまったのだろうか?)
最初はそう思ったが、その少女の清潔感ある不思議な魅力に興味を持ってしまっていたのだ。
少女を見ているだけで、心が落ち着き洗われるようだ。
こんな世知辛い世の中で、唯一、現実を忘れさせてくれるのだ。
だがその楽しみも、10分ほどで夢から現実へと引き戻されてしまう。
会社へ出勤しないといけない時間なのだ。
その少女を見るためにもっと早く家を出ても、妻にいらぬ疑いをかけられてしまう。
そんなくだらない危険を犯すのは、非常に無駄なことだと私は考える。
余計なトラブルは作らない。
相手が悪くても自分が謝る。
私はそういう性格の持ち主であった。
私は、その少女の姿を目に焼き付けると、少し元気が出たように思えた。
「しまった! 今日は朝のミーティングがあったんだ!」
私は、駅の階段を急いで降りると、会社へ向かって走り出した。
少年の頃は、無我夢中になって楽しく笑いながら走っていた。
現在は、命令された仕事をいやいやこなすために走っていた。
そんな毎朝を送っている、河合修治、52歳。
彼は、重い体をゼイゼイと息切れさせながら会社へと走った。
通勤途中のサラリーマンたちの、死んだ魚のような無気力な顔を横目で見ると、
鉛色の背中から、紫に淀んだ空間がモンヤリと見えるようだった。
当たり前の、変わることのない平凡な一日が、今日もまた始まるのだった。
だが、しかし。
この日を境に、私の日常が非日常へと変わっていった事には、まだ気付かなかった。
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