第6話 突女



第六章 『突女』



それにしても不思議なことだが、私は今までどおり会社で働いている。

駅で少女を襲おうとした一件以来、どこからかも通報される事はなかった。

事件を揉み消した・・・いや、揉み消してくれた・・・

確信はないが、そうとしか思えない。


私はアップルちゃんに連絡をしてみたが、忙しいらしく、今度会えるのはあと10日後との事だった。

バーで泣き崩れた日から数えて、一ヶ月も後になる。

松下にも連絡してみたが、同じく忙しいので都合がつかないという。

アップルちゃんにも、松下にも、あの日の集まった面子がどういう繋がりなのか聞けぬままだった。

それと、あの女性には連絡をしていなかった。

当然だ。

一度会っただけで、個人的に話もしていないし、どんな人物なのかもわからない。

いくら連絡先を教えてくれても、何を話したらいいのかわからないし、第一、女性のような字で書かれたメモが、本当にあの女性の連絡先かどうかは確信がなかったからだ。

とりあえずは10日の我慢だ。

この煮え切らない感覚も、あと10日もすれば全てスッキリとするはずだ。

それには今までどおり、この退屈な日常をただ繰り返せばよいだけなのだ。

今まで何十年と行ってきた生活なのだから、マンネリを通り越して当然となっていた。

しかし、とくに苦痛はなかったが、どこか物足りない気持ちが心のどこかにあった。

この一週間は、今までの私の人生の中で、想像もできないようなハプニングの連続であった。

思い返すのも苦痛なくらい、私は罪の意識に悩まされた。

それなのに・・・今ではもう一度、あの危ない感覚を味わいたい気分になりつつあった。


(いけない・・・私は何を考えているんだ。

これ以上、バカなことをしたら、私の人生はおかしくなってしまうぞ・・・)


『人生』・・・私がこの頃、激しく考える言葉。

この世に生まれ落ちた全ての人間に与えられる権利。それが人生。

だがそれがなんなのだ?これはいったい何の為に存在し、何の為に与えられたのだ?

もし、これを放棄してしまったらどうなるのだ?

それは悪いことなのか?許されないことなのか?

私の心の中には、死ぬまで人生観に変化がないと思っていた。

だがしかし、穏やかな川の流れのような人生が、激しい流れへと急変していたのだった。

サラサラと流れる小川ではなく、ゴゥゴゥとうねるような濁流なのだ。

流木とゴミが渦巻き、コーヒー牛乳の色をした、濁って汚い濁流なのだ。

しかし、これは不思議にもトキメキに似た感覚だった。

子供の頃以来、こんな感覚は味わったことがない。

例えるなら、暑い夏の日にカブトムシを捕まえに行った時のような、ドキドキして心臓が張り裂けそうな感情に似ている。

50歳前半にして、いい年をしたオジサンが、そんな感情を抱いてしまっているのだ。

誰もが既に枯れてしまった高揚とした感情が、水を得た魚のように活き活きと泳ぎまわるような感覚・・・

いけない・・・本当に私は何を考えているのだ・・・

普段の私だったら、アップルちゃんや、あのバーに集まった面々を、煙たがるようにして接することはなかっただろう。それなのに、あの駅の少女と出会って以来、私はおかしくなってしまったようだ。

あれから平凡な感覚のネジが外れてしまったのだろうか?

それによって私の精神は、麻薬中毒者の禁断症状のように、全身が激しく震えるほど、それを欲するところまで来てしまったのかもしれない。

とにかく。とにかく今は我慢しなければいけないのだ。

私は会社のデスクの上で、頭を両手で抱えて塞ぎこみ、この背徳な感情を抑えようと必死だった。


「あの・・河合さん・・・」

するとどこからか女性の声が聞こえてきた。それは駅の少女のような清楚な声だった。

一度も、あの少女の声を聞いた訳ではないが、私の頭の中に、あの少女の顔が思い浮かんだ。

ますますもって、私の頭はおかしくなってしまったのだろうか?こともあろうに幻聴が聞こえてくるとは。

私は首をブンブンと振った。

「河合さん、大丈夫ですか?」

しかし、その声は幻聴ではなかった。

私が顔を上げると、目の前に、ひとりの女性社員が立っていた。

「え?・・・あ・・」

私は突然の出来事にうろたえてしまった。

それも仕方ない。だって今まで、若い女性社員が私に声をかけてくる事など皆無だったからだ。

私は若い女の人と、気の利いた会話が出来るほどお喋りは上手くないし、悩みや相談にのってあげるほど信頼もなかったからだ。

それがどうだ。今、目の前にいるのは、入社して一年あまりの女性社員だ。

名前は・・・ええと、確か・・・そうだ、『羽鳥美園 (はどり みその)』・・・そんな名前だった。

だが、そのみそのクンが何故私の前にいるのだ?課は同じだが、仕事上関係はないはずだ。

ああそうか、どうせ下らない雑用を私に押し付けようとしているだけなのだろう。

私は何も期待せずに、下から覗き上げるようにして、みそのクンの顔をチラリと見た。

するとみそのクンは、心配そうな顔つきでこう言った。

「河合さんがどこか体の具合が悪いのかと思って、ちょっと心配したんです」

「あ・・いや、大丈夫だよ。私は何ともないから・・」

私は、みそのクンの顔を直視できないまま、視線を外してぶっきらぼうに言った。

「そうですか、良かった」

するとみそのクンは、首を斜めに傾げてニコリと笑った。ショートカットの髪が少し揺れる。

私はその瞬間、自分の中で時が止まったような衝撃を受けた。

たかが女子社員に笑いかけられたというだけで、何故、私はこうも感慨を受けなければならないのか?

相手はまだ20歳そこそこの、いわばまだ子供なのに・・・・


そう思って私は、駅の少女を思い出した。

そういえば、あの少女の年齢はいくつなのだろうか・・・?

パッと見、中学生のように見える・・・すると13歳か14歳か?

そうだな、その位の年齢だな・・・でも、もし中学生だったら学校はどうしたのだ?

毎日、平日の朝に、私服で駅のホームにいるなんて、どう考えてもおかしい・・・

もしかして小学生とか?いや、小学生でも学校に行く時間だ。

そうか、私服の小学生が、学校に行くために電車を待っている。これでつじつまが合う。

今まであの少女が、どんな生い立ちや環境で暮らしているのかを考えた事もなかった。

ただあの少女を見詰めてさえいれば、それで満足だった。

それで心が洗われる気持ちになれたのだから。


「河合さん、どうしたんですか?」

ハッ!いけない。

私はみそのクンの目の前だというのに、あの少女の事を考えて、ひとり妄想してしまっていた。

これは恥ずかしい。私は照れ屋ではないので、人前で顔が赤くなる事は滅多にないが、さすがに顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。

「あ・・す、すまない、みそのクン・・ちょっと考え事をしていたもので・・・ゴホ、ゴホ」

私は咳払いをして誤魔化そうとした。しかし、目の前のみそのクンは、私の顔を見てクスクスと笑っていた。

私もその笑顔につられるようにしてハハハと笑ってしまった。

その笑い声を聞いてか、課長がゴホンと咳払いした。どうやら注意を促されてしまったようだ。

それにしても、穢れのない女性の笑顔とは良いものだ。理屈抜きに男性の心を和ませてくれる。

もしこれが、家の女房の笑い顔だったら・・・きっと目を背けるに違いない。

私はこの笑いで緊張が解け、和やかに話せる気分になったので、みそのクンに耳打ちするように話した。

「心配してくれてありがとう。どうやら今の笑顔で具合が良くなったよ」

「あら、河合さんったら、お上手ね」

別にお世辞を言うつもりではなかったのだが、結果的にはそう聞こえてしまったらしい。

「実は、河合さんに相談に乗ってもらいたい話があるんですけど・・・」

彼女は突然そう切り出してきた。私はその時、何も考えずに、了解の返事をしてしまった。

「ああ、かまわないよ」

「わぁ、本当ですか?嬉しいな。じゃぁ会社が終わったら門のところで待ってますから。じゃ」

そう言うと、みそのクンは私の視界から見える遠くの席へと向かった。

しかし、若い女性との会話というのは本当に楽しい。

さっきまでの暗い気分もどこかへ吹き飛んでしまっていた。


「フフン、フ~ン♪」

私は思わず鼻歌をしてしまったが、あることに気がついた。

・・まてよ・・・相談って一体なんだろう?

私はてっきり仕事の相談だと思っていたのだが、それならば、今、この場で話をすれば良いではないか?

職場ではなく、会社が終わってから門で待っているだと?

みそのクンのような若い女性が、私のような中年のオジサンに何を相談したいのだろうか?

もし悩みがあるのなら、私ではなく他の人に聞いてもらったほうが良いのではないだろうか?

よりによって、何の取柄もない退屈なオジサンに相談しなくても良いのではないか?

私はそんな事を考えているうちに気が重くなってきた。

みそのクンは私なんぞに相談して大丈夫なのだろうか?

はたして、みそのクンの悩みを解決できるような助言をしてあげられるのだろうか?

もし、気の利いた事を言ってあげられなかったら、彼女は私の事をどう思うのだろうか?

頼りなくて情けない上司だと思って、次の日の朝に、女性社員の笑い話になったりしないだろうか?


やばい。

どうしよう、どう答えよう・・・その前に、一体どこの場所で相談を聞いてあげれば良いのだ?

まさか会社の門の前で、相談事を聞いてあげるわけにはいかない。

そんなことしたら、彼女だって恥ずかしくて恥をかいてしまうだろう。

ここは、どこか雰囲気のよい喫茶店にでも連れてってあげなければ。

・・・いや、まてよ、それとも夕方ならお腹も空くだろうし、美味しいご飯を食べられる場所の方が良いかもしれない。となると、やはり洋食か?最近の若い女性はグルメだと聞くから、普段からお洒落で美味しい物を食べ慣れているのかもしれない。

若い女性の好きな食べ物とは・・・いったい何だ?

私の悩みは完全に脱線していた。

カレー・・・は子供すぎるし、ハンバーグ・・・も子供っぽいし・・・・

そうだ、スパゲッティなんかいいかもしれない。

よく昼休みに女性社員が、会社の近場で美味しいパスタの店がどうとか言っていた。

・・・まてよ、パスタとスパゲッティの違いって一体何だ?両方一緒じゃないのか?

それとも似てはいるが、決定的に違う部分でもあるというのか?

もし、みそのクンがパスタを食べたいと言って、スパゲッティ屋に連れていってしまったら、私は大恥をかくことになるかもしれない。

「聞いてー、河合さんったら、パスタとスパゲッティを間違えているのよ。信じられないわよねー!」

・・・なんて事言われてしまったらいけない。そうならないように、まずはパスタとスパゲッティの違いを調べなければ。そして近場で美味しくてお洒落な店を探さなくては!

「よしっ!やるぞぉ!」

私は思わず大声を出してしまったので、職場の皆に注目されてしまった。

「河合、ばかに張り切っているじゃないか、ん?」

いつも私にイヤミを言う課長が、私に話しかけてきた。

またイヤミを言われるのもイヤなので、ここは差し障りない言葉を返した。

「ちょっと今の仕事が正念場なので・・それでちょっと気合を入れようと・・・」

「ふん、河合がそんなこと言うとは珍しいな。ま、いつもそうならいいんだけどな」

毎度のことながら、この課長のイヤミは私に対して陰湿で大嫌いだった。

でも、逆らうことも出来ないので適当に愛想笑いをしてやり過ごした。

この課長が、私を目の敵にしているのには理由があるからなのだが・・・

そんなことよりもパスタだ。いや、みそのクンとのデートだ・・・いや、相談事だ!

いかん・・・なんだか私は、必要以上に浮かれ過ぎてしまっているな。もうちょっと冷静にならねば。


私は昼休みに、慣れないパソコンのインターネットを使って、どこか良いお店がないものか検索した。

それにしても、このネットというのは便利なものだ。

言葉を入れるだけで、それに該当した文章や意味を見つける事ができる。

なんでもこれは、世界中に繋がっていて、誰とでもメールをやり取りできるものらしい。

私はどうも、パソコンがあまりにも便利すぎて、仕事以外で使うのは気が引けていた。

なんでもかんでも楽をしてしまったら、いざという時、自分の身につかないのではないかと思っていたからだ。

だから、私が私用でパソコンを使うことなど稀だった。でも今回のパスタ屋探しのように、自分の知識以外の事を調べる時には、大変重宝するものだと考えが少し変わった。


そうだ。ついでに、アップルちゃんと飲んだ、あのバーを探してみることにしよう。

あそこのだいたいの住所を調べれば載っているはずだろう。

私は軽い好奇心で、あのバーを調べてみることにした。

しかし、どう調べても、その住所近辺には店などなかった。

(おかしいな、確かにここら辺のはずなんだが・・・)

とにかくネットに載っていないものは諦めるより仕方がない。

そうこうしているうちに、昼休みが終わってしまった。皆が自席につき、午後の業務が始まった。

私は、みそのクンの方をチラリと見ると、机の上の書類に、何やらメモをとっているようだった。

その姿を見ていると、今までは気付かなかったが、なかなかの美人だという事に気がついた。

(美人というか・・・どちらかというと可愛らしい娘だな・・・)

私はそう思い直した。すると、みそのクンが私の視線に気付き、目線が合ってしまった。

びっくりして私は視線をすぐさま外したが、そうっともう一度みそのクンの顔を見ると、彼女は軽くはにかんで笑ってくれた。

この瞬間、私の胸が硬直し、おしりの穴から何かが抜けていくような脱力感を感じた。

ズキリとしてフニャリとして、スーッっとするような不思議な感覚だった。

(何だったのだ、今のは?)

それからの午後の業務は、どこか落ち着かなかった。

トイレに立つ時。タバコを吸いに行く時。私はみそのクンの方を何度もチラリと見てしまっていた。

まじまじと見ていては不審がられてしまうので、みそのクンの姿を目に焼き付けようと、その一瞬に集中した。


ツヤのある黒い髪がキレイだ。

ペンを持つ細い指がキレイだ。

薄いピンクの口紅がキレイだ。


私はいつのまにか、みそのクンの美しさに見とれてしまっていた。

今まで気付かなかったが、あの娘はあんなにキレイだったのか。

スンナリとしてふくよかな体型に、育ちの良さそうな顔立ち。

気品ある喋り方に、髪をかき上げる爽やかな仕草。

キョロリと丸い目が、おっとりとしているかと思うと、時に真剣な眼差しへと豹変する。

私は、この娘を見ていて飽きる事がなかった。

全ての動作が洗練された日本舞踊のように、私の眼に飛び込んできたのだ。

これはもう仕事どころではない。私は書類に目を通すフリをしながら、みそのクンを終始目で追っていた。


「河合っ!」


ビクリ!課長の大声で私は驚き、毛穴から汗が吹き出した。

「は、はい!何でしょうか?」

「さっきから妙にソワソワしているがどうしたんだ?」

「い、いえ、何でもありません・・そ、そのトイレが近いものですから・・」

職場にどっと笑いが起こった。

笑われたのは恥ずかしかったが、みそのクンを凝視していたことを何とか誤魔化せて私はホッとした。

「ところで、今夜の接待をキミに任せたいのだが、もちろんいいよね?」

「えっ?!・・・あ、その~、今日は用事がありますので誰か他の人に頼んで下さい・・・」

課内にざわめきが起こった。

それもそのハズ。普段なら、即答で課長の命令に従う私が、まさか拒むとは思っていなかったのだろう。

「しかし、これは河合君に適任なんだよ、行ってくれ!」

「だめです!今日は用事があるんですっ!」

「むむむ・・!」

私のズバリとした返答に、課長は目を丸くして驚き、それ以上何も言えなくなった。

それにしても、よく課長の命令を断ったものだと、私自身が驚いた。


それから少しして、私はタバコを吸うために休憩所にいた。

私は気分が良かった。それはもちろん、みそのクンと会う約束の事もそうだが、あの憎たらしいイヤミな課長に、一矢報いてやったことに対しての満足感だった。

それにしても不思議だ。いつもは頼まれると、何だか申し訳なくて断れないのに。

これもみそのクンが、幸運の女神になったからかもしれない。それで自信がついたのだと思う。

「なんだかご機嫌ですね?河合さん、何か良い事でもあったんですか?」

私の隣の席の後藤クンが、タバコに火をつけながら、私に話しかけてきた。

「あ、うん。まぁ・・ちょっと、な」

私の顔が、思わずにやけてしまうのが自分でもわかる。

「へぇ~、いいっすねぇ。ボクなんて、最近全然イイことありませんよ」

「どうかしたのかい?」

「それが、昨晩も嫁とケンカしちゃいましてね・・・」

それから後藤クンは、私の顔を見ずに、ひとりブチブチと女房の悪口や、生活の不満を吐いていた。

私はその様を見てこう思った。

まだいい。まだ愚痴が出るだけいい。私なんて女房に対して諦めがつき、愚痴すら出てこないのだから。

「はぁ~・・・家なんて買わなきゃよかったですよ、まったく・・・」

口から灰色の息でも見えそうなくらい、後藤クンは陰気に溜息を吐き捨てた。

彼は最近まで会社の寮に入っていた。ちょっと前までは、会社も大目に見てくれていたが、会社の景気が傾きだした頃からそうもいかなくなった。もともと独身寮だったので、既婚者が住むわけにいかないのだ。

「何時間だっけ?通勤時間」

「・・・片道1時間半っす・・・もうキツくてキツくて・・・」


往復で3時間か。一日3時間も、仕事をするためだけに運ばれているのか。

そんな虚しくて心苦しい思いを毎日しているのか。

一日3時間だと、月に20日と単純計算して、60時間・・・年間720時間も、強制収容所に送られる心苦しい思いをしているのか。


「聞いて下さいよ!家のローンが2500万で、それが35年ローンですよ!もう大変っすよ!」

「返済は月々いくら?」

「え?あ、う~ん、いくらだったかな。そこは嫁に任せてあるんで・・・とにかく小遣いなんて2万ぽっちですよ?やってられねぇっすよ!」

私の小遣いは1万なのだが・・・あえてそれは言わなかった。

「もう何のために生きているのかわからなくて・・・」

後藤クンはよっぽど思い詰めている様子で、なんだか気の毒に見えた。

「そうだ、宝クジでも買ってみようかな。あ、パチンコっていう手もあるな・・・ひょっとしたら今日はバカヅキの日かもしれない!」

「はは、ギャンブルじゃそうそう儲からないよ」

私は自分の経験を彼に諭すように言ってみた。

「いや、今まで負け続きだったから、そろそろ勝ちが来る頃ですよ!よーし、ひと勝負してみようかな!」


まったく呆れた話だ。

ずっと負け続けていたから、そろそろ勝ちが来るだと?

どこにそんな根拠があるのだろうか?

そんな確率など確立しない。人生ずっと負けっぱなしの人もいるのだから・・・

私はまたしても、自分の人生の経験をなぞってしまっていた。

でもまてよ。私のような負け犬でも、今夜、若い女性と食事することが出来るのだ。

まんざら『運』というのも捨てたものじゃないかもしれない。

現に、今日の私はツイているということになる。

運勢が良いか悪いかといえば、間違いなく良いのである。


「でも今日は勝つかもしれないね。運っていうのはきまぐれだから・・・」

私は、自分の運が偶然じゃないことを否定しようとし、後藤クンにそう言った。

「そうですよね!やっぱ、人間の運は平等ですもんね!悪い事が続けば、次は良い事が起きますよね!」

はたして、私が言った言葉は、後藤クンに対して適切だったのだろうか?

所詮、人事だと思って、いい加減な事を言ってしまったのではないだろうか?

まぁ、私のアドバイスがどうであれ、それを実行するのは本人次第だ。私に責任がある訳でもない。

そうだ、私はみそのクンの相談には乗るが、必ずしも聖人君子のような回答をしなくても良いのだ。

あくまで相手の悩みを聞いてあげるだけでも、相手は気持ちが軽くなるのだ。

そう思うと、人の相談を真剣に聞く事が、それほど重大なことではないように思えてきた。

みそのクンの相談に乗ってあげる代わりに、私だって若い女性との食事を楽しむべきなのだ。

私はほくそ笑むと、タバコの火を嬉しそうに消した。

「あ~、また河合さんうれしそうにしてる。いいなぁ!」

後藤クンは、終始わたしのことを羨ましがっていた。



そして終業の時がきた。

私はそわそわと帰り支度を始めると、隣の席の後藤クンが、私に話しかけてきた。

「じゃあ勝負に行ってきます!」

「ああ、頑張ってくれよ」

私は後藤クンの肩を軽く叩き、笑顔で見送った。

「あ、それと・・・」

後藤クンが私の耳元でささやいてきた。

「女ですか?どこかイイ店みつけたみたいですね。今度教えて下さい」

後藤クンは、私にウインクを投げながら勝負へと出掛けていった。

女・・・確かに、今宵の用事は『女』である。

だが、特別に良い店を見つけた訳でもないし、恋愛関係でもない。

ただの相談役に、たまたま私が選ばれただけなのだ。

ひょっとしたら、すでに私以外にも相談に乗ってもらっているかもしれない。

それで最後に私にも、オマケで順番がまわって来ただけかもしれないのだ・・・・

私は自分でそこまえ考えると、虚しくなってきた。

いや、いくら何でもそれはないだろう。私はみそのクンにその役を抜擢され、権利を得たのだから。

誰もがその役を任せられる訳でもない。だから卑屈にならずに、もっと自信を持たなければいけない!


「よし!行くぞ!」

私は気合を入れて会社の門の前へと向かった。

みそのクンはすでに課内にはいなかったので、先に待っていると思い、少し小走りで向かった。

心臓の鼓動が、いつもよりも早く活動しているのがわかる。

そして胸のまわりがキュウと圧迫してくる感覚を味わう。なんというか、苦しいけれど、辛くはない感覚だ。

門の前に着くとみそのクンの姿が見えた。

知り合いの社員達が通り過ぎる度に、挨拶をして頭を下げていた。

私は物怖じしてしまった。

こんな人目につく場所で、はたして、みそのクンに声をかけることが出来るのだろうか?

これでは確実に、誰かに目撃されてしまうではないか?

私とみそのクンが、これから相談事の為に、パスタ屋へ一緒に行くことがバレてしまうではないか!

しかし、ここで彼女をずっと待たす訳にはいかない。

いずれにしても、何とか声をかけて場所を移さなければならないのだ。


今までの私ではダメだ。

もっと・・別の・・違う人格の自分を持ってこなければいけないのだ。

私は、自分の中にもうひとりの自分を作り上げ、それを強引に引っ張り出した。

もうひとりの自分に、他人事のように勇気を振り絞らせ、みそのクンに声をかけさせようとした。

自分なのに自分ではない、どこか無責任な感覚を作ることで、自分への失敗をもうひとりの自分の責任にする事が出来ると思ったからだ。

生唾をごくりと飲み込み、もうひとりの私はみそのクンに声をかけようとした、その瞬間。

みそのクンはこちらに気付いたのか、ニコリと笑いながらこちらに走ってきた。

「あ、河合さーん!」

「!!」

私は驚いてしまった、そんなにあからさまにこちらに手を振ってきたら、周りのみんなに気付かれてしまうではないか!いや、それもすでに遅かった。みそのクンと同期の女性社員が、それに気付いて私とみそのクンの前にやってきたのだった。

「みその、何してんの?」

「うん、今から河合さんとデートなんだよー」

「へがッ?!」

私は驚きのあまり声にならない声を出してしまった。

みそのクンと同期の女性社員は、私の顔をマジマジと見詰めてきた。

「へぇ~、そうなんだ。じゃ楽しんできてね~」

そう言うと、その女性社員は、何事もなかったように去っていった。

「河合さん、来てくれて嬉しいです」

「あ、うん、その・・約束だからね・・・それにしても、その、いいのかね?」

「え、何がですか?」

「何がって、その・・・」

私とみそのクンがこうして待ち合わせしている事が、他の人にバレてしまった事を説明しようとした。

「ふふ、いいんですよ、そんなこと」

しかしみそのクンは、何事もなかったようにあっけらかんとした顔で笑った。


いいのか?そんなあからさまでいいのか?

たぶんこれがあれだ・・・難しい言葉で例えるなら、ジェネレーションギャップというヤツなのだ。

私の年代では、若い女性と待ち合わせする事などが異常な行為なのだ。

だが、今の若い世代の子は、それを何とも思わないのだろう。

私と同じくらいの中年が、若い女性にお金を払って体の付き合いをしているのを聞いたことがある。

たしか援助交際とかなんとか言っていた。私にはその感覚がどうにも理解できなかった。

中年男性が、若い女性を欲する事は理解できる。

だが、普通だったらその感情をなんとか抑えようするのが普通であり当然だ。

しかし、それをお金の力で実行してしまうのは、虚しい行為ではないのか?

だって、そこには愛や信頼関係など存在しないのに、体を許してしまうのはどう考えてもおかしい。

私が若い頃には、そんな愚かな行為をする女性はいなかった。

それをしていたのは、本当にお金に困って仕方なくしていた女性だけなのだから。


「河合さん?どうしたんですか」

はっ!しまった!またしても考え事をしてしまった。今はみそのクンと会っている最中だった。

「あ、いや・・そ、それよりどこか場所を移さないか」

「はい、そうしましょう。ええっと、どこにしようかな・・・」

私は今だ!と思い、パスタ屋に誘おうとした。

「あ、あの、パ、パスタ屋があって、その、そこが良いかもしれなくて・・え、その・・」

ダメだ。言葉がよじれてうまく喋れない。こんな簡単な事も出来ないなんて、私はなんてダメなんだ!

「?・・・パスタ屋がどうかしたんですか?」

しかし、みそのクンは、しどろもどろする私の話を普通に聞いてくれた。

「だから、その・・パスタを食べたいから!そっ、そこへ行こう!」

シーン・・・しばしの沈黙。

しまった!ダメだ。こんなぶっきらぼうな誘い方では、みそのクンがOKしてくれるハズがない。

私はみそのクンの顔を見ることもできずにうつむいてしまった。

「みそのもパスタ食べたいです。じゃあパスタ食べにいきましょうか?」

「・・う、うん」

やった!なんとかみそのクンをパスタ屋へ誘う事が出来た。第一関門突破だ!

「ええと、どこのパスタ屋にしましょうか?」

「そ、それなら、私がよく行くパスタ屋へ行こう」

「河合さんのいきつけの店ですか、わぁ楽しみ!」

全く行った事もないはじめての店であったが、私はさも、いきつけのような言い方をしてしまった。

実は私も行くのがはじめてなのだ、とは言い直せないまま、その店に向かって歩き出した。

歩いて向かう最中、みそのクンは、最近あった出来事や、会社の話題などを楽しげに話してきた。

それを私はただ、「うん、うん」と返事するのが精一杯だった。

気の利いた返事など、とても緊張していて出てこなかった。

それにしても、みそのクンとは同じ課内でもほとんど話す機会はなかったのに、言い方は悪いが、こうして屈託もなく馴れ馴れしく話が出来るのはすごいと思った。

完全に私は浮いてしまっているのを自分自身感じた。


ああ、もしかしたら、みそのクンはこうして私に話しかけている最中に、心の中で私の事をひとつひとつ採点しているのかもしれない。つまらない人間だわ、とか、ジョークのひとつも言えない真面目すぎる人間だわ、とかそう思っているに違いない。だから私も一生懸命に会話を盛り上げようとした。

しかしダメなのだ。頭の中が真っ白になって、どうにも言葉が浮かばないのだ。

もしこれが、パスタ屋に行ったらどうなるのかと思うと、ますます頭の中がパニックになってしまった。

みそのクンの笑顔を見る度に、私の心配はどんどんと募るのだ。


歩いて数分。

そろそろ、そのパスタ屋に近づいて来ている。

いまの私にとって、そこがパスタ屋だろうが質屋だろうがどうでも良い話だった。

私は今から、若い女性とパスタを食べ、相談を聞き、納得のいく答えを諭してあげないといけないのだ。

しかも、暗くならないように明るく楽しく、だ。

これは私にとっての難問奇問である。はたしてどうなってしまうのだろうか?

そのことばかりが頭に浮かび、気がつけばパスタ屋の店の前に着いていた。

「わぁ、ここ美味しいって評判の店ですよね!一度来たいなって思ってたんです。でも入れるかな?」

やはり週末の夕時だ。店の中は若い男女で賑わっていて満席に近かった。

ここにいる客の中で、私のような中年はひとりもいない。かなり場違いな場所だと私は思った。

だが、そうも言ってはおられずに、私は店の中へと一歩あゆんだ。

「あの、予約した河合ですが・・・」

私がボソリとレジの店員に言うと、最初は、こんなオジさんがこの場所には不適切だというような顔をしていたが、急にニッコリとスマイルな笑顔になると、店内へと案内してくれた。

「すごーい、河合さん。予約してあったんですね!」

みそのクンの、私を見る目が尊敬の眼差しに変わる。いつも接待をしている私には、店を予約する事など当然であった。だからそれを褒められるのは、かなり気分が良かった。

「いやいや、まぁ、常識だよ」

私もそこで、少し有頂天になってしまったようだ。ちょっぴりキザなセリフを吐いて席に座る。

そしてメニューを見て驚いた。なんとパスタというのは値段の高い食べ物なのだろうか?

どれもが千円以上の値段であった。小麦粉をこね、麺にソースをかけただけの代物が、何故に千円以上もするのだろうか?普通、スパゲッティーならば、100円か200円の麺に、ケチャップと挽肉と玉ねぎのソースをかけた物だろうから、せいぜい高くても500円か600円だと思っていた。

それが倍以上もするなんて・・・私の常識を遥かに上まっていた。

だが、パスタ屋に来てしまった以上、それを注文しないわけにはいかない。

ここで、ざる蕎麦を頼む訳にはいかないのだ!

私は無難なメニューを探した。あさりとキノコの和風パスタが一番安かったので、それを注文した。

みそのクンは、鮭と温野菜のクリームパスタを注文した。なんというか、その人の食のセンスが一目瞭然に出てしまった感じだった。私からすると、パスタとクリームがどうしても一致しないのだ。

所詮はスパゲッティー。つまり貧乏人の食べ物なのだ。ケチャップと安いハムのナポリタンが、私の若い頃の定番だったのだから仕方がない。若者は、この食べ物の原価を知っているのだろうか?

それにしてもスパゲッティーというのは、いつのまにかお洒落に進化したものだと、しみじみと感じた。


料理がくる間、私は緊張して何を話したのか覚えていない。

とにかく喉が渇いて、水のおかわりを3杯も飲んだ事だけが記憶に残っている。

それを見たみそのクンは、何故か笑っていたようだが、何がおかしいのか私には理解できなかった。

それでも、料理が目の前に来て、それを口に入れた瞬間、あまりにも美味しい事に驚いてしまった。

もうこれは、私の知っているスパゲッティーとは別の食べ物だと思った。

私があまりにも、それを驚いた顔で食べるものだから、それを見たみそのクンは、クスクスと終始笑いっぱなしだった。理由はどうあれ、みそのクンが笑ってくれたので、私はホッとした。


なんとかパスタを平らげ、デザートとコーヒーが出る頃、みそのクンの相談事が始まった。

最初は言い辛そうにしていたが、私の顔をチラリチラリと何度も見る度に、次第に口を開いていったのだった。そして彼女の口から出てきたのは、私自身、耳を疑うような言葉の羅列であった。

「私・・・禁断の恋をしてしまったんです・・その・・だから・・河合さんに・・・」

いきなりの突然。

あまりにも予期せぬ出来事に、私の頭の中が真っ白に塗り替えられていったのだった。


あさりとキノコの和風パスタ・・・1260円

鮭と温野菜のクリームパスタ・・・1400円(共にデザートつき)

合計2660円。


あまりにも安い買い物・・・私は一瞬そう思ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る