第9話 APPと現実の乖離

 謀った一手を語るには、インターネットが普及してブログ作成が一般的になる少し前の話だから、HTML言語がホームページ作成に必須だった時代とだけ付け加えておく。私は例の図書館から借りたHTML言語の専門書と格闘しながら、ホームページ作成に取り掛かっていた。受験勉強の合間を縫って、学校のパソコンを使用して行う作業は苦行と云えた。だが、完成した暁には教師たちの鼻を明かしてやれると云う、生徒としては下衆の極めではあったが、どこか面白がっている自分がいたことも自覚していた。

 ホームページの内容は、至って詰まらないものだった。それでも良かったのだ。私の中学生時代を遡って一年生の時分から公開すると云うものであり、日を追うごとに閲覧者がのめり込んでいくような物語性を含んだ構成で描写して、父の死と私自身の持病を語りつつ感情移入をさせながら、ここで目的だった教師たちから受けた朱鷺高等学校への進学阻止に行われた尋問や体罰の数々を列挙していった。不特定多数の閲覧者がいる中で、多少誇張した節もなかったわけではないが、目論見は大方達成された。ホームページ上に設置された掲示板の中に、私が通学していた小金中学校への批判が殺到し始め、やがてそれはお節介を通り越した大人たちの抗議の電話で埋め尽くされた。教師の一人が作成したホームページを見つける頃には対処の仕様がなくなっており、小金中学校の校長先生が非難の矢面に曝されて、気が付くと私はなんら咎めを受けることなく、この後を無事乗り切れたのである。

 裏では坂本が暗躍していたことも挙げておく。教師たちの動向が自分たちへ向かわないよう便宜を図るため、進学希望先である朱鷺高等学校の学校長である田丸学校長に連絡を入れていたと云う事実だ。抜け目のない坂本の行動が、更に小金中学校の教師たちに追い打ちをかけることとなった。田丸学校長が自ら乗り込んできたのである。一介の受験生のために、田丸学校長は事実確認と今後の処置を取決めさせ、生徒の自主性を無碍にする行為を戒めることまでしてくれた。

 「君のしたことは行き過ぎた感があるけれど、悪いことをしたのは彼らの方だから、今回は不問としておこうかね」

 そう云った田丸学校長の顔は、悪戯好きな少年そのものだった。私はその時から、この男のことを嫌いになれなかったのかもしれない。いや、一度だって嫌いになれなかった。田丸博はいつだって子供たちの味方であり、朱鷺高等学校に入学してから勉強会で親しくなった我々七人の良き理解者なのである。

 「まさか、ここまでしてくれるとは思っていなかったですよ」

 坂本の白々しい言葉すら、田丸学校長は意に介していなかった。未来に対して結果が良好であれば、この男は満足できるのだろう。田丸学校長は、校舎屋上から日が暮れかかった煤嶽村の空を仰ぎ見てから、皺が刻まれた知性的な顔を私たちに向けた。

 「当日は遅刻しないように睡眠は充分取ることだ。一夜漬けなど、漬物業者に一任したまえ」

 「僕は一夜漬けより、糠漬けが好みです」

 田丸学校長は声を出して笑った。よくまあ、容易く切り返しができるものだと私は感心しながら、今後なにか交渉事があったら坂本に全て一任する腹を決めた。それが、大人になったいまでも継続するなんて考えもしなかったが。

 「君の文章校正能力は中々のものだったよ。将来は作家志望なのかね?」

 田丸学校長は私に向き直って云った。

 「まさか、私のような卑小の者が作家志望なんて烏滸がましいですよ。普通に食べていける職につければ本望です」

 「ちぇっ、どうしたら君の口から卑小の者なんて言葉が出てくるんだ」

 坂本は欄干に凭れ掛かり、悪態を吐いた。

 「謙遜こそゆかしいものさ。品のない戯言は鼠にでも食わせておくんだな。俺はこの村にきてから、そのことを身に染みて実感したよ」

 「君はこの村の生まれではないのかね?」

 田丸学校長は意外そうな表情をした。見事なまでの白髪と上髭が紳士然としており、上背の高さも相俟って男の理想の歳の取り方だった。温厚な顔つきは人徳に溢れており、人柄の良さが滲み出ていた。

 「父は千葉で開業医をしていたのですが、煤嶽村の前村長だった友人の河野氏に乞われて、此処、煤嶽村に越してきたのです。私が七歳の時分に」

 私の返答に田丸学校長は頷いた。

 「そう云えば、高坂医師が引退してから、この村に医師不在が続いていた筈だ。そうか……あの後にこられた先生が、君の……」

 そこまで云うと、田丸学校長は欄干に両手をつき溜息を吐いた。

坂本も顔を顰めて、俯き加減に肩を落とした。私同様、外様であるはずの坂本ですら、父を死に追いやった事故のことを知っているのだ。果たしてこの村に、そのことを知らない人物がいるかどうか。車のブレーキに細工して、父を事故死に追いやった人間が村にいると云う事実にを――。

 未だ事件は未解決のままだった。私が気が付いていないだけで、村のどこかで挨拶を交わしているかもしれないのだ。そう考えると、虫唾が走った。

 坂本は重苦しい空気を一蹴しようと口を開いた。

 「君の親父さんは、確か流行り病を駆逐した英雄だったか?」

 田丸学校長も続いた。

 「結核だったかな? ストレプトマイシンを大量に持参してくれたとか」

 「はい、薬の知識は疎いですが、大量の荷物を抱えていたのは記憶しています」

 私は当時の記憶を思い起こしてみた。大概があやふやなものだったが、河野氏に案内された診療所で、父が大勢の患者に次々注射を打っている光景が浮かんできた。安堵に包まれた表情の患者に、父がなにごとか声をかけて、滋養強壮作用のある、大蒜、玄米、えんどう豆、大豆、人参、松の実、山芋、韮、海老、鰻などを渡している。礼を云って受け取る老人たちの背中を、優しく擦っている母の満足気な笑顔がおぼろげながら見えてきた。そんな中、診療所の隅にいた一人の中年男性が口を開いた。

 「どうして、村がこんな状況だってのに、南櫛灘村の連中は俺たちを見捨てたんだ……」

 あゝ、脳裏に浮かぶイメージが段々と鮮明になっていく。

 中年男性の顔は怒りに満ちており、私の視界に紅紫の玉が飛び込んできた。診療所の者は誰一人気づいていない。その後、大勢の患者から一斉に紅紫の玉が飛散していったっけ。父が慌てて河野氏に問うた。

 「一体、どう云うことなんだ?」

 河野氏は両目を固く閉じた。

 「一方的に交流を絶たれたよ。幹線道路から果ては一般道路まで、強行に封鎖を宣言するものだった」

 母は口元を手で覆い、著しく動揺している。父が傍まで行き、母を抱き寄せることまでした。

 「それはあまりに横暴と云うものだろう。あちらには医師がいるのだし、少し足を延ばせば多くの命を助けることができたはずなのに」

 そこまで口にしてから、父の表情が険しいものに変わった。

 「そうか、だから……この村に……」

 「私は嘘はついていない。流行り病の対処は、君の専売特許だからね。問題はこの後のことなんだ」

 父は苦虫を噛み潰した顔で、怒声交じりに吐き捨てた。

 「私に煤嶽村専属の村医者になれと云うのだろう?」

 そうだ、父は初めからこの村に越してくるつもりはなかった。河野氏から村で結核が流行しているので、助力を乞う連絡を貰っただけなのだ。流行り病の対処が済んだら、礼がしたいからと私と母まで連れてくるよう仕向けてまで。正義感の強い父は、薬と大量の食糧を車に詰め、私たちを連れて取り急ぎ村に向かった。考えてもみれば結核が蔓延る村に、私や母まで呼んだのには違和感を拭えない。感染するリスクを考慮すれば、仕事がひと段落したら家族ぐるみで村の観光などいかがですか? などと湾曲な云い回しで誘い出すはずもないのだ。取る物も取り敢えず、村に駆け付けたい一心の父が、ありとあらゆる条件を呑むだろうことは、河野氏はとっくに見抜いていたはずである。

 「そう云うことだ。だから、君の妻子にもご足労願った」

 「このまま、帰すつもりもないのだろう?」

 父の目の奥には、はっきりと動揺が見て取れた。河野氏はそれに答えず、沈黙と云う形で肯定して見せた。卑怯なやり口だが、そうでもしなければこの村に医師がきてくれる可能性は低いのだろう。母は父の横顔を不安そうに見つめている。なにか云って安心させてやりたいのだろうが、父は考えが纏まらないみたいだった。

 「それでも、帰ると云ったら?」

 父の問いに、河野氏は鎮痛の面持ちで返答した。

 「お前たちをこの診療所に軟禁しなければいけなくなる。私にそんな酷い真似をさせないでくれ」

 「随分、身勝手な言い草だな」

 父は河野氏の左肩を掴んだ。

 河野氏の顔が苦痛に歪む。

 「お前は、俺たちの生活を壊そうとしているんだぞ。息子だって、千葉の学校に通学している。私も細々だが開業医をしている身だ。あちらに私の多くの患者がいる。見捨てろと云うのか? 南櫛灘村の連中みたいに!」

 診療所にいる多くの患者が息を呑んだ。漸く、自分たちの行いが、忌み嫌っている南櫛灘村と同様のものであると理解したみたいだった。父は激しい勢いで頭を掻き、考えを纏める形で精神の安定を図っているように思われた。その時、齢八十は過ぎているだろう老婆が、床にへたり込むと父に頭を下げた。

 「先生、どうかご慈悲を下さいませ。おらはもう、そんなに若くはありません。この先、いついかなる病が襲うかもと考えますと、夜も眠れねえ心地です。先生が村に居て下されば、おらあら年寄連中は安穏とへら日々が送れるのです。それに村のぼこの未来を慮れば、いつまでもお医者様不在と云う訳には参りません。河野村長のやり口は、えーかん褒められたものではございませんが、どうかおず持ちだけは察してやってさーくんない。ご慈悲を……どうか寛大なご慈悲を……」

 額を床に押し付けて、平身低頭に乞う老婆の姿は痛々しいものだった。母は急いで老婆の傍に行き、体を起こしてやった。一斉に診療所にいた村の者達が頭を下げる。助力を乞う弱者の嘆きが、父にどれだけの衝撃を与えたことだろう。紡ぐ言の葉を忘却し、茫然自失する父の姿は、幼かった私の目に滑稽に変装させられた案山子の姿に映った。やがて、父は歯噛みした後、右拳を白色の壁に打ち付けた。複雑な心境だったことは、想像に難くない。家族の幸せと、村に住まう力を持たぬ老人子供を見捨てられない倫理観を、天秤にかけられない父のもどかしさは、母が敏感に察した様子だった。老婆を助け起こし壁際の席に座らせると、父の傍まで行って腕を取り優しく寄り添う。父の表情が幾分和らいだのを確認すると、母は気丈に自身の考えを語り始めるのだった。

 「私、この村のことがとても気に入っているの。木々も多くて空気も綺麗で、なにより村の方々の子供たちに対する思いが伝わってくる。私たちも人の親ですもの、頭で納得できなくても、感情に訴えかけてくるものがあるわ。どう? 考慮してみることはできないかしら」

 「この子のことはどうするんだ。私たちはどうにでもなるが、真向が成人を迎えるまでは責任があるんだぞ?」

 母は父から離れて私の傍まで来ると、頭を数回撫でてくれた。

 「真っ向は大丈夫よ。男の子だもの。それに子供は色々な経験をさせてあげた方がいいわ。今すぐ考えれないなら、数日時間を貰ってもいいのではなくて? 村長は監禁とは云わず、軟禁すると答えたわ。意味することは自ずから図れると思う」

 父は河野氏に一瞥をくれると、再び母に視線を戻した。

 「時間はいくらでもあるから、よく考えろと云うことだろう。くそっ! まるで北朝鮮に拉致された気分だ」

 母は苦笑した。

 「不謹慎よ。そう云うことは、思っていても口にしてはいけないわ。責任を云うなら、結核は空気感染するのよ。診療所に子供を入れている時点で問題だわ」

 「君も共犯だ」

 「ええ、そうね。感情的になっても、それこそ埒が明かないわ。もっと、合理的に検討してみましょう? これだけのことをしているのだから、きっと河野村長も私たちを特別待遇で迎え入れて下さるわよ」

 母のこれ見よがしの皮肉に、今度は河野氏が苦笑する番だった。やり込められた村長を見て、村の者たちから自然と笑みがこぼれた。空気が一変したのが、私のような子供でも理解できた。どうやら、父の面子を潰さず立場を有利にする術は、母の方が一枚上手のようだ。

 こうした空気の澄明は、人の思考の汚濁を取り除く。環境の悪化は、固執する悪癖を高邁な思考の堅城として死守せんとするが、捉え方次第では縛めは解かれて、悉皆剥き出しになった情報から篩にかけられた醇正だけを抽出できる。趨勢はただ導かれるままに一方通行となり、道順に沿って行けば迷いはなくなって、時を待たず大通りを抜けることになる。行き着く先は凡庸な帰着と呆れられるかもしれないが、心の重石はそれだけで行動を抽象的に駆り立てるので、早期に手を打つべき明確な可視の部分と云えた。

 父の翳りはこうした重石効果だったのだろうが、うそ寒くほの暗い井戸から水をくみ上げる釣瓶の役割こそ伴侶としての見せ場であり、良女を定義する際の条件に該当する。母はただ、嘗試して河野氏の反応を窺っただけなのかもしれないが、意外なところから突破口が切り開かれるものだ。まさに重石が思兼神によって除去されて、父は視野を奪われていた不条理から一定の距離を置くことができた。不条理を経験すればカミュの講義の十時間分に匹敵する。彼の死が交通事故であったのは、不条理を定義付ける意味ではうまかった。突発的はところは形式ぶらないぞんざいな態度であり、死を押し付けられた意味では彼の文学人生を半ば肯定したようにも映った。

 笹川守も亦、不条理を押し付けられたことによって、強制的に人生を肯定された一人だ。岩盤みたく構成された基盤であるところの正義感とやらは一筋縄ではいかず、一時の回避は気休め程度に終始し、利己を貫く気概に欠ける気質は、煮詰めて利他と云う名の藍蝋となった。夜のしじまは診療所との間に境界線を引き、ここだけが世界から放逐された残欠の象徴だ。流行り病に蹂躙された医師のいない寂れた村で、両親は夜通し治療に専念し、捨て置かれたはずの命に希望を咲かせた。日の出と共に、父の心が別世界へ干渉を始めると、現実に帰参する頃には腹が決まったようだった。

 「分かったよ……。ただ、転居の準備がいる。院もそのままと云う訳にはいかない。一度、千葉まで戻るが、それだけは信用してもらわないといけない」

 診療所は一斉に歓喜に包まれた。誰某ともなく父に握手を求め、私たちの注意を惹かない者はいなかった。

 河野氏は腕を組んで渋面であったが、口は重く云い淀んでいる。我儘を押し通すなら譲歩は損だとばかりの体だ。彼の厄災を孕む口が開かれる折、母は重ねるように快活な口調を投げた。

 「私が人質になればいいわ。いざと云う時は、真向が守ってくれるもの。振る舞われるであろう豪勢な食事に感けてしまう前に、どうかお早いご帰還をお願いします」

 父は額に手を当て、苦笑いした。

 「見目麗しく聡明な君のことだ。高校時代の制服に寸法を合わせることが馬鹿げでいることは分かっているのだろう? 行ってくるよ、真向を頼む」

 母の顔にも安堵の笑みが浮かんだ。気が緩んだのか、母は私に身を寄せて深く深く溜息を漏らして呟くのだった。

 「いってらっしゃいませ。そして、有難う……兄さん」

 私は母の大きな乳房に埋めた顔を父に向けると、その表情は幾分複雑だった

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