第8話 セッションは慎重に

 雨はすっかりやみ、晴れ間が顔を覗かせた。電車を乗り継いで家に帰りつくと、戸口の前で母と沙羅が立ち話をしていた。近く、煤嶽村と南櫛灘村共同で行われる五月祭について、なにごとか打ち合わせをしているのだろう。ヨーロッパにおける民族的な春の祭りが、両村に形を変えて伝承されている。古来の樹木信仰に由来し、五月一日に豊穣の女神マイアを祭り供物が捧げられた。夏の豊穣を予祝する祭りと考えられている。嘗て、ヨーロッパ各地では、精霊によって農作物が育つと思われており、精霊のことを女王や乙女の形で表現されていたらしい。英、仏、独などで最近まで残っており、所によっては今日まで続いている。

 「あら? 今帰ったの。おっかの様態、どうだった?」

 母が私に気づいて声をかけてきた。

 「もう、手がつけられねえみたいだ。面会謝絶だってさ」

 沙羅が私の傍まで来ると、細い指を絡めてきて云った。

 「真っ向、大丈夫? 辛そうだよ」

 「人が死ぬと云うことを理解するのに、少なくとも首を捻る歳でもないさ」

 「無理しなくてもいいのよ。おらあはえーかん辛いわ」

 母はそう云うと、背後から私の肩を抱いて額を押し付けてきた。昔から行われている愛情表現だった。肉体的接触が多いのを特に訝しんだことはなかったが、当時を回想するにあたって、村の悪癖が間接的だが表現されており、こう云った繊細な話を他人にする時は、玻璃に触れずに金槌を振り下ろすようなものだ。

 「今、五月祭の話をしてもいいかしら?」

 私は母の言葉に頷いた。遅かれ早かれ聞かされるの出し、毎年の恒例行事だから不参加は認められていなかった。概ね村に伝承されたのは、独の南西部、バーデン=ヴュルテンベルグ州ツンツィンゲンで催されている祭りだ。十二歳くらいの少女が、五月の女王的存在の、天の花嫁(ウッツフェルト ブリュトリ)に扮して、案内役の女の子二人と、七、八人の少女を従える。お伴の最後尾の少女は籠を下げ、天の花嫁の訪れを村の家々に告げ、籠に乳製品や、卵、果物、などを受け取る。天の花嫁は、感謝を表すと同時に、その家を祝福する。一方で「冬」を表す少年たちが、黒い服を着て、体中に縄を巻き、別の地区を歩いて、少女たちと同様の口上を述べて、贈り物を受け取る。しかるのち、示し合せておいた場所で、天の花嫁(夏)と少年(冬)との決着が始まる。冬の持つブナの木の枝を、花嫁が三本折り取ると、天の花嫁の勝ちとなる。子供たちは、昼食に一旦家に戻った後、午後はまた家々を回ることになっていた。村の祭りはそれを忠実に再現している訳ではなかった。が、天の花嫁と冬を表す少年を毎年選び出し、家々を回り祝福を与えて、受け取った献上品を宇迦之御霊の神に捧げるため、伏見稲荷大社と伊勢神宮に奉納することになっている。選出は村長に一任されており、煤嶽村の村長が稲荷神社に、南櫛灘村の村長が伊勢神宮に、毎年恒例の奉納品を手土産に参拝に訪れる手筈となっていた。

 「今年は南櫛灘村の新見村長の口利きで、煤嶽村の者は南櫛灘村の家々を回ることになったの。それで、今年天の花嫁に選ばれたのが左ちゃんなのだけど、冬の少年は貴方、真向が担うことになったわ」

 私は辟易した。母の言葉に訛りがなくなる時は、事後承諾だと相場が決まっていた。冬の少年にと、後押ししたのは母であることは明白だった。なんだってこう面倒なことが重なるのだろうか。試験も近いと云うのに、慣わしもなにもあったものではない。だが、断れば村八分にされるのは明白であり、まして我々親子は村民に借りがあるのだ。母は借りを返す意味合いもあったのだろう。だとしたら、礼を逸する訳にはいかない。母の美佐子に仕事を斡旋してくれたのは、なにを隠そう、私の眼前にいる沙羅左の父親である沙羅悟なのだ。娘の晴れ舞台に泥を塗るような真似をすれば、私の立ち場がどうなるか以前に死活問題である。

 云い変えれば沙羅左を通して、村の者から監視されているともとれた。一挙手一投足は彼女の監視下にあり、父親を亡くして傷心している私の慰め役を仰せつかり、世話役、親友役、恋人役、果ては初体験の役まで無難にこなしてみせた。もちろん、沙羅も処女であったから行く道は難路ばかりだったが、初めから近道を模索する方が芸がない。そうした行為も含め、二人で思索することが成長とも云える。幸い、惣掟に於いて未成年者の鳳友鸞交を咎めるとは言及していなった。むしろ奨励している風でもあったのは、煤嶽村に迫る過疎化の波を食い止める防波堤の一助になって欲しいとする村民たちの打算もあったようだ。

 「私、とても嬉しいの。こうして、真向と村のためになにかしら寄与できることが」        

 沙羅は添い臥しを希求された生娘みたく、面映ゆいのか両手で顔を覆いながら云った。その姿がどこかしら発条仕掛けの玩具に見えた。いつだって沙羅の動作は、ある種のわざとらしさに満ちていた。喜怒哀楽は選択を誤った解答で埋め尽くされており、通夜や葬式の席で満面の笑みを浮かべることも間々あった。それでも狼狽することがない分、誤りは機転の早さで修復されるため、傷口を広げてしまう愚は犯さなかった。私は動物実験のつもりで、沙羅のこうした不首尾の感情流動性を観察している。殊、感情選択の誤りである綻びが取り繕われる様は、沙羅が人間の本質を知悉しているのではないかと思われるほどだ。突貫工事の正確性を考慮すれば、初期の段階で感情選択を見誤るボトルネックがどこにあるのか、不可解この上なかった。

 「左ちゃん、可愛いわ。真向に夢中なのね」

 母は私の傍を離れ、沙羅を抱き寄せてから云った。

 「私は、そんな……」

 沙羅の瞳はどこか虚ろなものに変化した。

 「俺はお前みたいにはなれないな」

 私は続けた。

 「細部に目が行きがちな分、大局観をもってことに当たれないのが難点だ。確かに村全体の収益を考慮した方が、教育に費やせる予算も増す。必然、教育水準が上がり、触発されるように底上げもなされてくる。常に視野を広く持つことの重要性が問われるな。五月祭と教育水準の因果関係は無視してでも」

 私は隣家の村瀬宅の物干し竿にかかっているYシャツが、強風に煽られている様を見て、飛ばされない内に知らせに云った方が良いか思索した。次いで頭に浮かんだのは、ついこの間朱鷺高等学校の図書室で読了した、ハドレー循環について説明している本の中に出てきたコリオリについてだった。どうして、コリオリなんてものが念頭に浮かんだのか定かではないが、髪が乱されるくらいの強い風だ。直ぐに収まるだろうとは云っても、それが懇篤だと誤想してもらえる要因にはなる。いつだって、村で生きる者は僅かな試みから、自身に有益とされるラベリングを調達していかなければならない煩わしさがあった。

 「今は、そんな話をしているのではねえのよね?」

 母は沙羅の顔を覗き込みながら云った。表情は慈愛が滲み出ていると云うよりも、大人の余裕が感じられる。息子と恩人の一人娘の恋愛事情が、永続的に行われない飯事だとしても、いまの自分達の生活を、強いて云うなれば息子である私が一人で生き抜く力を身に着けられるその時まで、確かな保険を生活保障として囲い込む必要が母にはあったのだろう。私的な感情で、村の微妙な人間関係を壊してしまっては本末転倒である。壁に耳あり障子に目あり、時が経てば私の力で村を出て行くことも可能なのだ。親権義務を遂行するためには、時間の経過がなにより肝心な事柄なのだろう。

 「チョコレートの話だったか?」

 私は村瀬宅から視線を戻して云った。

 「甘いとこく点ではね」

 母は私の言葉を受け流した。母の手が優しく沙羅の頭を愛撫しているのだが、沙羅自身は放心した状態でなすがままにされており、一体なにを思っているのか判断が付かなかった。母は続けた。

 「それでさぁ、五月祭のめーでは斎戒沐浴をする仕来りがあるのは、覚えているわよね?」

 「いつも思うことなのですが……」

 沙羅は母の愛撫する右手を両手で包み込んでから云った。鬱陶しい愛撫を、相手の気分を害することなく対処したのだろう。そう受け取った私の性格に問題があったのだろうか。

 沙羅は続ける。

 「私たちはイスラーム教徒ではないのですから、五月をラマダーン月にする必要はないと思われます」

 母は思案顔で頷く。

 「そうね、一度香月村長に相談してみるわ。精々、沐浴程度にへら方が、時代時代に適応できているとも考えられるし」

 「断食と云っても、日の出から日没までの半日だけ、一切の食事を取らないと云うだけだろう?」

 沙羅は私に視線を投じた。

 「うん、天台宗の千日回峰行に比べたら、寛大な処置だとは思う」

 「千日回峰行なんて、よく知っていたわね」

 母の言葉に沙羅は頷いた。

 「授業で弘法大使空海を調べる機会があって、唐まで随伴した天台宗の開祖である最澄まで触手を伸ばした結果です。空海の人物像から真言宗の仔細まで、全七巻が図書館に置かれていました。なに書いているか、理解できませんでしたが」

 「学校ではなくて?」

 「図書室にも何冊かありましたが、揃えが良かったのは神無月公立図書館の方でした」

 沙羅の云う神無月公立図書館は、神無月川河口付近にある図書館だ。Mアウトレットパーク煤嶽村と並んで村の誇る建造物であり、本の揃えは六百万冊以上を数えている。県外からも蔵書の貸し出しを希う声は複数あった。それに応える形で貸し出しを行っており、日本でも有数の大図書館だ。田丸学校長が水力発電所を誘致する際、香月村長に取り決めさせた最も大きな誓約だったらしい。莫大な固定資産税の見返りとしては微々たるものだが、田丸学校長が念押しさせたほどだから、図書館の建造が煤嶽村に重大な意味を持つのだろう。朱鷺高等学校の図書室だって、学校図書館法により設置が義務付けられているとは云え、充実度は神無月公立図書館に引けを取っているとは考え難い。司書教諭もきちんと配属されていることから、教育に関する田丸学校長の理念に、全くブレがないことに着目したい。

 「でも、あの図書館、村に建てられているどの建造物より浮いている感じがするわね」

 母は空いている左手で、沙羅の包み込んでいる両手に触れて続けた。

 「新たな企業の誘致に資金を投入するのは分かるけど、利益回収が見込めない図書館に、自治体が資金を投入するメリットってあるのかしら?」

 当時、私は母の言葉にそれほど意味を考えなかったが、いまにして思えば確かにインフラ整備に資金を回した方が、村の発展に繋がるだろうことは明白だった。誓約を反故にしろとはあんまりだが、資金の投入が常人の考える以上のものであったし、やはり他に狙いがあったのだろうと訝しみ、実際、私が事実を知った時は子供と云うのはいつだって身勝手であり、なにも知らない内から物事を批判するべきではないと云う自戒を胸に刻み込む良い切っ掛けとなった。田丸学校長が煤嶽村の子供たちに向ける愛は、己の身勝手さを悔いるため懺悔するためなされたものであると云うことは、この際問題にならない筈だ。そのことは後々述懐するからいまのところは目を瞑ってもらいたいのだが、やはり声を大にして云わねばなにごとも伝わり難いと云うのが現実である。

 母は触れた沙羅の両手を念入りに愛撫した。その行動が私にとって後ろめたいものを目にしている感覚に陥れた。目にしていてもいいのかどうなのか、私はできるだけ物思いに耽っている姿を演じた。母の視線に沙羅は吸い込まれるように顔を近付けた。ここまでくれば違和感の正体は分かりようものだった。寸前で押し止まった沙羅の瞳を見つめながら、母が囁くように云った言葉を私は聞き逃さなかった。

 「大丈夫……? きちんと生理はきているかしら?」

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