第6話 信用、説得、いいくるめ

 五月の連休を前にして、私はこの上ない愁嘆に苛まれていた。祖母の宿痾が危殆の域にあることに、減退する活力の維持すら侭ならず、憔悴した面持ちで飽かず涕泣していたのである。私は祖母を愛していた。誰よりも愛していた。耳学を頼りに人生を綱渡りする豪胆な気性の裏には、戦争を体験した者が持つ独特の色濃い影を落としていた。死体の流れる川で洗濯したと云う逸話は豪気の最たるものであり、血と肉の爆ぜる様は晩夏の夜空に浮かぶ淡い花火と似寄りだったらしい。

 祖母の病が発覚したのは四年前に遡る。右肺上葉腺に腫瘍が見つかるのだが、一時は肺気腫が疑われた。症状として動悸息切れに始まり、咳や痰が頻繁に生じるようになったからだ。医師は癌と肺気腫の両面から検診を行った。喀痰細胞診やヘリカルCT検査を通して肺の組織をデジタル画像化すると、凝望の末、細胞が一部固着しているのを目に止めた。癌腫だった。

 高齢が功を奏して、リンパ節への転移は遅く、速やかに処置がとられた。治療は抗癌剤投与と併用して行われる定位放射線治療が選択された。肺の静と動に合わせて放射線を照射する画像誘導放射線治療が一応の成功を収めたものの、今年に入って遠隔転移が認められた。医師の敷衍だと、癌の部位が剥がれ落ちて血液やリンパ液から全身を廻り、他臓器やリンパ節に付着して増殖するのだと云う。医師の御託など意に染まない。遠隔転移など到底認められるものではなかった。反して現実はより克明に真実を告知し、寸刻の猶予もなく須臾の余命を浮き彫りにした。私は一縷の望みを絶たれ、不覚にも脱力感だけが全身を覆った。

 私は現実逃避に躍起となった。中間試験の対策に没頭したのである。校内では交友関係の喧しさもなく、ただ只管に打ち込んだ。坂本から重ねて二度目の同盟話が持ち上がった。今度は背後に複数人いることが精査せずとも知れた。学問に刻苦精励することを知らない、難題を他力で解決することを良しとする半可通の集団だ。そう云った者とも懇意にできる坂本の度量には感服した。私と云えば、毒を飲むつもりでこれを承諾したが、それと云うのも経験が人生の命綱とする祖母の教えがあったからに他ならない。今年のゴールデンウィークは土日を含めると五日ある。短期合宿のつもりで蝟集してくる有象無象の者たちに、私が鞭撻を執る役割を押しつけられるのは否めない。どうやって坂本に負担を分散させるか打開策を探りながら、私は大型連休を前に臍を固めて、一度祖母の見舞いに行く決意をした。

 四月最後の日曜日は生憎と雨だった。催花雨の役割は終焉を告げ、梅雨に入る前の一時期、三笠山の麓にある幾本もの霞桜が見頃を迎える。高さ一五メートルから二十メートルにもなり、葉や花に毛がついているのが特徴的だ。葉は倒卵上楕円形、長さは八から十二センチメートル、両面や葉柄に毛が疎らについており、表面は新緑色で裏面は淡緑色で光沢がある。これを目当てに三笠山に登山しにくる者がおり、煤嶽村の村興しの材料にも利用されていた。

 私は驟雨の中、祖母の入院している国立がん中央センターがある築地を目指していた。東京駅に着き、百千の群集を縫って駅構内を小走りに進んだ。東京メトロ丸ノ内線で銀座駅に行き、東京メトロ日比谷線で築地駅まで向かう。新宿駅同様迷路のような東京駅を進みながら行程を脳内で反芻していると、背後から私を呼びかける高音質の声音がした。振り返り相手に視線を投じる。見慣れない顔に逢着した。と、思った矢先、声の主が真壁蜜柑だと想起された。私のような日陰者でも、真壁蜜柑の容姿を讃嘆する声はよく耳にした。真壁の存在を知り得ているのは、何回にも亘りインプリンティングされた結果であろう。繰り返された情報の必要性は、この際問わないこととする。真壁は奇遇とは別の、そう、諧謔を認めた様相で私のパーソナルスペースを存分に侵犯した。同学年ではあったが、さほど親しくもない間柄故、彼女の心意が図りかねた。

 「実なき学問は先ず次にし、専ら勤しむべきは、人間普通日用に近き実学なり、ね。東京駅は国内の玄関だもの。よくよく検分することだわ」

 私の懐疑を孕む視線と対峙しても、真壁は表情一つ変えなかった。

 「お礼が云いたかったの」

 「礼だって?」

 真壁は莞爾した。

 「ゴールデンウィークに行われる勉強会に、私も参加させてもらう手筈になっているの。坂本君から聞いてないのね」

 あゝ、合点がいった。真壁の言動は予め私の存在を知覚していたために起こった誤認識による諧和からきているのだ。誤り処か短兵急に過ぎる。真壁は外見に非ず、ざっくばらんな性分なのだろう。反して瓜実顔に切れ長の瞳は、真壁蜜柑の聡明さを面伏せに語ってもいた。第一印象など当てにはならないが、成程、坂本が招集したのは一定の上昇志向が強い面々なのかもしれない。真壁からして積極的に勉強会に参加してきたのだ。意志は瞳に集約されている。加功は相互に行われるべきものであり、若しかしたら同盟は放資の価値があるのかもしれない。

 「俺と坂本が和合しているのだと、勘違いしているみたいだな」

 「善意の過程に於いて、調和と多少の縁があるわ。貴方たちの関係がどうであれ、人との関係ってそう云うものよ」

 私は溜息をついた。

 「せめて、ポツダム宣言が快諾されたものだったらな」

 「ポツダム宣言の原文は恫喝そのものだったらしいけど、笹川君が弱みを握られたり強要されたりしていないのだとすれば、気乗りしないと云ったところかしら?」

 「勉強会が嫌なわけじゃないさ。ただ……人が多いと酔ってしまう質なんだ」

 今度は声を出して真壁は笑った。

 「なに、それ? 馬鹿みたい」

 言葉とは裏腹に、真壁の声質は優しいものだった。肩まで伸びた褐色の髪は遺伝の発露か怠惰か、手櫛で前髪を梳いてから、私の告白など凡そ京都晩秋の紅葉ほどに赤々と滾らせる心象すら覚えないと云った風情だった。おそらくご両親の陶冶と慈悲の心が、彼女の放資闊達な性格に感化しえたのだろう。性格形成に影響を与えたほどだから、行使された愛は予想を超えた効力を発揮したようだ。後々になってからも、真壁蜜柑の人格識見共に有徳の人であったのは、三つ子の魂百までではないが、幼少の教育の賜物と云えよう。そうした得難い資質を持つ者は、総じて常人には理解し難い艱難辛苦を胸に秘めているものらしい。世の不条理の一端である。

 真壁は私から少しだけ距離を取ると、真顔に戻って言葉を続けた。

 「改めて確認するけど、私が勉強会に参加することを知らなかったと云うことは、他のメンバー一切も、把握していないというわけね?」

 有体に述べれば、興味がなかったのだ。まさか、本心を口にするわけにもいかず逡巡していると、彼女は私の態度を肯定と受け止めたらしい。呆れた表情を浮かべて、それでも根気強く私に参加するメンバーを指折り数えながら紹介してくれた。勉強会に参加する者は、主催者である坂本正一、私こと笹川真向、真壁蜜柑、沙羅左、新見翔太、川端真紀、倉越真理恵の総勢七名だった。沙羅左の名前には驚かされたが、それ以上に倉越真理恵が参加してくるとは想像外だ。

 「随分と風変わりな名前が入っているな」

 「誰を指して云っているのかな」

 真壁は恋愛話でもするかのような調子だ。私たちの脇を子供たちが元気に走り抜けて行く。殷賑な構内は平日のサラリーマンに代わってカップルや家族連れが多かった。グランスタやノースコートで食事や買い物を終えた手持無沙汰の子供たちが、阿諛と対立する頑是ない狂乱者のように、強固で熱望的な躍動でもって籠太鼓を打ち鳴らし、保護者の憐れみを誘っている。見兼ねた一人の母親が慌てて子供を追って手を引くと、宥め賺しながら早足でその場を去って行った。

 「左ちゃんのことなら気にしないでね。あの子とは親しいから、なんでも話してくれるの。勿論、貴方のこともね」

 私が舌打ちすると、真壁は舌を出して応戦した。

 「同じ組なのか?」

 「それも聞いていないの?」

 目を丸くして、真壁は首を傾げた。

 「友達だったとは初耳だ」

 「熱いベーゼを交し合う仲よ。毎日おっぱいだって揉んでるわ。で? 聞きたいのは三人の内、誰なのかしら?」

 私、坂本、沙羅の煤嶽村出身者を除外した四人の中から、真壁自身を除く三人に絞り込んだ単純な演繹法だったが、それだけで良かった。彼女が慧敏な証明にはなった。賢しい者と会話をしていると、言葉は節約されて余剰がない。時間が短縮される様は快感だった。冗長な話は読むのも聞くのも退屈だ。情報は乾いた雑巾を絞り込むほどに取捨選択されたものが好ましい。

 「倉越だ」

 どうやら、真壁は二の句が継げないらしい。云いたいことは明日云え、と顔に書いてあった。絞り込んだ三人の内、私と倉越が同じ組であると云う情報を掴んでいれば、真っ先に除外してもいい選択肢であるからだ。彼女の脳裏では新見と川端の両名に選択肢が絞られており、新見に限っては南櫛灘村の村長である新見義輝の息子として煤嶽村では有名なのだから、必然的に川端真紀が候補としてピックアップされていたのだろう。無論、それに対しての答えも用意していたはずだ。ここまでは良しとした。云いたいことは理解した。が、風変わりな名前が入っていると云っただけで、何某に興味があるから情報を共有してくれとは持ち掛けていないのだ。私は倉越とは答えたが、誘導尋問に引っ掛かったようなものであり、取り返しのつかない事態に陥っているのではない。一か月を三十日として休日を省く二十二日を拘束時間に換算すると、午前八時半から午後十五時半の七時間の二十二日を積とする百五十四時間である。一日六限として一限四十五分の内訳とすると、四時間半は授業で消費しているのだから残りは二時間半だ。そこから昼食の一時間を差とすれば、倉越真理恵の人となりを調査できる時間は一日一時間半となり、二十二日に九十分の積を導き出せば一月千九百八十分が限度であって、更に過程や興味などと云う未知数nを持ち込まれたら猶のことお手上げだった。

 「そうね。相手の人柄を知るにあたって、三十時間は短すぎるわ」

 「お前の思考については言及しないが、三時間の誤差については訂正を要求したいね」

 「左ちゃんと深い関係になるのに時間はかからなかったな。相性の問題なのね」

 「性格の問題だろうな」

 「声を掛けたの」

 性格については先ほど指摘しているので追及するつもりはなかった。積極性は物事の進展に著しく寄与して、中途のプロセスを簡略化する力がある。ある種の鷹揚さは馴れ馴れしさとは同義に扱われないのだろう。坂本に通ずるものがあった。

 「主語をつけてくれ。どちらのことを云われているのか分からない」

 「勉強会への参加、了承してくれるとは思っていなかったわ」

 倉越真理恵のことで相違ないだろう。話が戻ったわけだ。だが、真壁はいかな心持で倉越に声を掛けたのか。頃合を見計らって、級友との昵懇に至る機会を設けんとする真壁なりの配慮だったのか、いまは先の言葉を待つことにした。

 「倉越さんとは三笠中学校で同級生だったの。少しばかり奇天烈だけど、ええと……奇天烈って彼女自身の言葉なのだけど、聡明で理知的な人よ。兎に角と偏見がないの。私は彼女のことが、あの……とてもとても好きなの」

 好き撓むという言葉が浮かんでは消えた。私は赤面する真壁の態度から違和感を覚えたのは、好色一代女の堂上家の姫と同様に、図なしな色情魔の臭いを感じ取ったからに他ならない。此れについては後で作家の友人に斧正を希う破目になるだろう。数十年経ったとは云え、事実との差異は当人の名誉に反するからだ。色情魔やら違和感やらは誤認であったし、要するに懸想する対象が白ではなく黒であったと云うことだ。

 「学校では浮いていることは否定しないけど、私たちはもっともっと理解するべきだと思うの。月旦評は程々にして、科学的見解が欲しいわ。ラベリング理論は簡潔に逸脱者を創造、増産してしまう。悪意に満ちた視線は、今後も世界を取り巻いて恒久に廃れることはない。人が地球上に牛耳る限りは、個々の生来の気質から互いを誹り罵り、誰よりも自分の方が賢いのだと信じる。それこそ狂信者のように、経典に書かれた訓示に注視する。個々人が持つクオリアは見る意思を持たぬ者には心の姿見にすら映らず、思想は捻じ曲げられて信念は脆く崩れ落ちてしまう。ある考えはシナプスとシナプスを繋ぐニューロンに電気信号が走るが実態はない。あるのはあくまで電気信号であり、世界に点在する一物質ではないの」

 そこで言葉を区切ると、真壁は東京駅構内に貼られた自殺防止キャンペーンのポスターを叩いた。赤々と注意を喚起するゴシック体は、自殺は貴方だけの問題ではないと明記されている。愛する人を傷つけてはいけないと、再三にわたり自殺防止を呼び掛けていた。そう、赤々と、まるで赤い墨汁が半紙に染みをつくるように、幾度も幾度も……。

 「笹川君はこの文字が何色に見える?」

 「色覚異常でもなければ、赤だと誰でも分かるだろう」

 「先天赤緑異常……」

 真壁は勢いよく頭を振るう。

 「祖父がそうだったと云うだけよ」

 私は苦笑した。

 「聞いていないのだが」

 「閑話休題、見たままに赤色ね。六三〇~七六〇ナノメートルの光の波長が、網膜を通じて脳に伝達された時に感じるあの赤々とした質感は、いまだ科学者の口から説明されていない。前述したようにあくまで電気信号であり、赤の質感そのものではないわ。では、此の質感はどこからくるのか」

 「まあ、この謎を解き明かしたものは、間違いなくニトログリセリンの恩恵に与れるだろうな」

 「ストックホルムまでは、飛行機で十時間以上かかるわ。電車ではないから、いまみたいに脱線事故に遭わずに済みそうだけど」

 「悪かった、続けろよ」

 真壁は腕を組み、小さく溜息を吐いてから続けた。

 「このクオリアこそが、私たちが云うところの個性だと思うの。同じ系統の色を見ても、果たして同色の認識を共有しているかどうか疑問だわ。異性に焦がれる者もいれば、同性に魅かれる者だっている」

 「ベルリンの壁と結婚した女もいたな」

 「ええ、この世界には無性愛者すらいるわ。否定しない。いいえ、否定してはいけないの。何故なら、各々持つべきクオリアが違うから」

 成程、クオリアが違うなら倉越や私のような風変わりな者にも、単純なラベリングを設けるものではないと主張しているのだ。そもそも、人は違って当たり前、その認識に至らないことが問題なのだと云うところだろう。

 「それでは、サイコパスも個性と受け止めておくことにするさ。消されるようなことがあっても、クオリアの違いから受容することにした」

 私の皮肉に、今度こそ真壁の口元が引き攣った。私は臆したわけではないが、失敗したとは感じた。こうした微妙な感情の揺れに直面するに当たって、どうしたって尻込みする理由があった。倉越への思慕が下手なクオリアを引っ張り出し、揚句が盲点を突かれたら腹も立てるだろう。だが、なんでもかんでも個性で片づけられたら堪らない。世の中にはラベルを張られてもいい人間は存在するし、レイプ犯の男が被害者女性に暴行した理由が、健常者以上の強い性欲はクオリアだから仕方ありませんは論外だ。恥辱と怒りの二重螺旋に憑かれているであろう真壁の感情が、私の目に紅紫玉として映った。これも彼女の云うクオリアなのか。私にだけ見える人間の強い怒りの感情が、体内を鋭く深く抉ってくる。浸食されるのではないかと身構え、両目を固く閉ざして意識を逸らす。どうやら、私と真壁の間に共感性における仮初の齟齬を生み出すことに成功した。

 「偏見とは所詮、公理に過ぎない。クルト・ゲーデルによって正当性を失ったように、証明不能な暗黙のルールは、レッテル貼の専売特許だろう?」

 「では、笹川君がゲーデルになってくれるの?」

 不図、真壁は艶然と口唇に指を這わせてから、私の腕に触れてきた。肉の質感は艶めかしく、衣服を透かして内側に切り込み潮のように満ちてから欠けた。掌に多量の汗を覚え口中が乾くにつれて、水面に打ち鳴らされた波紋が数多の円を作り出し、心中に馴染みのある妄念が拡散していくのが実感された。急速な接近が齎す効用はいままでの努力を悉く否定して、真壁の悠揚たる動きに反比例するように、寛大であったらと悔いるほど私の無辜を肯定した。口角が上がってしまったが、男の性と受け流された。心の闇は本能で片付けられ、真壁の目算が私の破倫と合致して憚らぬ渇望と相克した。姦計は悟られて後に隠匿され、真壁の指が空で二度三度と弧を描く。私は情欲よりも強い衝動が沸々と盛り、断続的な解放感が体を弛緩させた。吉兆であるのか凶兆であるのかは問題ではなかった。野放しになった私の爛れた精神世界は、唯一無二の明晰な硝子細工のように煌めいた。世界にある数多の感情が私の深層意識に集約しているかのような錯覚に陥り、澄明な空気を肺一杯に吸い込んだように清々しい心持がした。真壁は先ほどの行動が意図的なものではなく、交通事故に類似した偶発的なものであるかのように主張した。とは云いつつ、はにかんだ様子を見せながらも、眼光は鋭く私の挙動を具に観察していたのを見逃さなかった。

 「寧ろレッテルを貼られているのは俺の方だ。倉越ばかり危惧している場合ではない。ただ、石を金に変える錬金術は持ち合わせていないぞ。なんらかの胸算用をしているようだが、内股膏薬も良いところだ。いつだって相手に合う錠前を用意しているように見受けられる」

 「お互い、背伸びは感心しないわね。十年もしない内に大人になるのだから、子供は子供らしく徹しないといけなかった。これでは胡乱だわ」

 「花柳界に属する者は似た者風情だな」

 「私を遊女だと云いたいのね? それで、錠前……!」

 「穿った見方をしたつもりだが?」

 既に真壁の紅紫玉では私を感化し得ないことは明白だったので遠慮はいらなかった。すっかり柳眉を逆立てると踏んでいたが、とまれかくまれ真壁は辛抱強いことこの上なかった。

 「笹川君を喜ばせて上げられたようだわ。有卦に入るのではないかしら?」

 闊達な気分だった。昂進とは相手の言葉などで促進されるのではなく、自身の思考に密接な繋がりがあるのだと再考させられた。滔々と述べる私は腹話術師さながら、内奥は狂奔した駿馬の息吹を感じ、突き抜ける烈風が眼界を遮り、灼熱の太陽が肌身を焼くほどに、滾る大海の荒波迫る神秘の形式美に打ち震えた。秋波を送る真壁の予兆と嬌声の示す意味が、総じて私の言葉とは無縁の確信に至った。外連味のない素朴な私の正義そのものだった。激情とは痛痒に統治されていない。仮令伝播されたところで欺瞞であり、夥しい邪念と作為の具象が人間の本質であったとしても、私は私の身の上に起こった感情を否定しまいと誓った。然し、つらつら思索したところで蛙鳴蝉噪であるとする声が聞こえてくると、今度はマーラの誘惑が幻聴として私に頸木を科した。途端、直叙するならば空虚であるとする解が公式そのものを覆してしまった。次第に感情が希薄となり、最後に迷走して飛散した。感情の遁走は、私を無明に晒した。昂揚が冷却されていくに従い、幼子のように覚束ない無垢で無知な思考に囚われ、やがて酷い倦怠感が全身を纏った。思考力の欠如著しく、富や宗教以上に私が世界を禍乱に招く因果性を主張する何者かなのではないかと云う結論に達した。

 真壁は私の変化に不安を覗かせた。無理もない、こうも短時間で感情の起伏に落差が生じる人間を目の当たりにしているのだから。祖母のことが少なからず私の情緒に影響を与えているのだろうか。顔を見て声を聞くまでは、私を安らかにさせないのだ。私は真壁に改悛の意思があることを示唆した。此処での和解は心を見透かされないための補填に過ぎなかった。他人に内心を悟られるのは辱めであり、張り詰めた糸を断ち切られる行為に等しいのだ。まして、友人とは云えない同学年の者に、私の思考や心理に手を差し入れられ探られるなどと考えると悪寒が走る。

 精緻に創られた人工的な深層意識が、私と云う媒介を通して活動することに納得していた。自身は大きく肥大した自我そのものであり、私もその一部でありながらそれが全てではないとする考え方だ。そこに時間の概念や欲求もない。いまの私は短い人生で培われた観念によって生成された、まさにエゴが肥大した汚物だった。世界は我々の創造物であり、野山に生える草木の一本一本も、電子機器や建造物や所有する富の総量までもが、現存するありとあらゆる物は私たちの中にある想像が現象化したものに過ぎないと云う思考の飛躍を垣間見た。このような思考はお伽噺なのだが、私は偏屈で夢見がちな子供だったのかもしれない。

 「言葉が過ぎたな。どうしたって女性と話をするのは緊張していけない。会話の構成力そのものの質に問題があるんだ、きっと」

 「いざ、コミュニケーションを取ろうと云う段階で、会話の構成力を気にするのはデートで失敗する布石ね」

 真壁は右腕に装着した腕時計に目をやった。

 「私、もう行かないといけないわ。引き止めておいてなんなのだけど」

 「気にするな。俺も時間がない」

 真壁は歩きだしてから、思い返したように私に振り返った。邪気のない笑みを浮かべて数回に亘って両手を振って見せた。

 「話ができて嬉しかったわ。亦、学校で会いましょう」

 私も人の子である以上、円滑な人間関係を望んでいる。私は無難に手を振り返して真壁蜜柑の見送りを済ますと、雨が降り止んでくれたらいいなと考えながら、国内の玄関を先に向かって急いだ。

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