第5話 タイトルと小説の親和性の無さについて
一例が畜産農家の家畜群を一夜にして皆殺しにした生徒の存在と、未成年であったため名前は世間に公表されていないが、殺人を犯して少年院送致になった生徒の存在である。後者の事件は通り魔的犯罪だ。事の起こりは年の瀬も押し詰まった午後八時、外灯もない村の夜道は危険であるとする認識は、村民の誰一人持ち合わせていなかった。施錠の重要性も蔑ろにされており、それも此れも煤嶽村の村民たちは皆家族だとする共通意識の弊害によるものだ。流石にその後は危機意識も多少は高まり、施錠の義務と外灯設置を新たな村の取り組みに設けて対処にあたった。殺害されたのは当時齢九十を数える大村家の尊翁である。足腰強くいまだに現役を貫く樵であり、煤嶽村の中にあって有数の名家であった。資料である二〇一〇年の世界農林業センサスによると、林業経営体の数は約十四万経営体あり、その内の約六割は保有山林面積が十ヘクタール未満となっている。林業経営体の九十四パーセントは法人以外の経営体であり、その大半は個人経営体とあった。大村家は十ヘクタール以上の山林面積を有しており、亭々と伸びる杉や栂等を択伐していくことで生計を立てていた。課題は杉の木の立木価格にあり、一九八〇年から一九九〇年にかけて、一立方メートル八〇〇〇円近く下落した。煤嶽村は大村家同様、林業主動で生計を立てている家庭が多く、年々木材価格が下落していくことは死活問題だった。林業から足を洗って、他の稼業に鞍替えする者も多くいた。そう云った者たちは煤嶽村の経済基盤を揺るがす可能性があるとして、どこにでもいる保守的なうつけ共から、確固とした理由もなく疎んじられることが屡だった。大村家の尊翁は、自ら此のうつけ共を指揮して、第一次産業から遠ざかろうとする者たちを糾弾した。大村久雄は強硬派の人間だった。村の経済は第一産業を主体とした、地道な人間の汗と労働で発展してきたのだと信じていた。彼は目前の労苦に弱音を吐く者たちを仮借できなかったのである。
一方、迫害された者たちは、村の一か所に纏まって集落を形成した。人によっては此処を部落と呼ぶ者もいたが、明確な区分はなされていなかったと記憶している。私が朱鷺高等学校に通学している時分には、此の集落は香月村長の手腕によって著しい発展を遂げる。私と母も恩恵に与った口だが、大村家が関与した区域は田丸博学校長が云うところの、村民の意思が如実に反映される結果となった。村八分と云う概念は、ほとほと聞こえが悪い。マスメディアは村八分と云う言葉自体を自粛対象としているほどだ。村八分とは地域の生活における十の共同行為の中から、二分を除く一切の関係を断絶することである。二分とは葬式の世話と火事の消火活動だ。先ず葬式の世話についてだが、死体を放置しておけば無論のこと腐臭の発生源となり、夏場はそれだけで周囲の者が迷惑をするからだ。火事の消火活動についても同様であり、延焼を防ぐ意味でも放置することができない。残りの八分については該当するところなく、よって堂々と制裁行為に及ぶことができるのだ。成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行がそれにあたる。日本には村八分の風習が今でも色濃く残っており、集団ともなれば垣間見える人の目が観念に根差している以上、早々は改善されない遺伝子に組み込まれた澱のようなものなのかもしれない。
久雄の遺体が発見された場所は、大村家の保有森林の中だった。第一発見者は久雄の長男である大村光方である。猜疑心が強い久雄のことだ、部落に逃れた賤民共が復讐から保有森林に火を放つのではないかと思慮しているだろうことは、光方の想像の内だった。光方自身、代替わりして家長の座に就いていたが、久雄が保有する森林の名義変更までは許されていなかった。故にたとえ森林に火が投じられたところで光方が痛手を蒙ることはないのだが、彼は久雄以上に事態が起こ得る可能性に恐怖を感じていたようだ。有体に述べれば、父親の保有している森林を失ってしまうと、光方は他に従事できる仕事がなくなってしまうのである。煤嶽村でも有数の名家に生まれて、何不自由ない暮らしを送ってきたつけが、此処にきて彼の人間性を堕落させるだけでは飽き足らず、久雄の圧制とも云える陶冶の果てにアイデンティティの欠損まで招いているとするならば、自活することは苦痛の一言なのだ。既に齢は六十を超えており、云われるままにこれまた一大農家である里中家の長女晴美と、姻戚関係から生ずる強い結びつきを得る政略結婚の出汁にまで使われた。それでも光方は生涯に亘ってモラトリアムにあったので、反骨精神が芽生えるなど期待するべくもなかった。
光方と晴美の間に儲けられた息子の晃弘はと云うと、学生時代に柔道で培った武道の精神は、強きを挫き弱気を助くを地で行くような人柄だった。百九十五センチ九十キロを超える偉丈夫で、村の力仕事は彼が全般引き受けている。鬼瓦のように強面なのだが愛嬌があり、台風時の水害対策に用意した土嚢を軽々抱え上げる姿は、熊のように畏敬の念を想起させた。実際、山から下りてきた熊が煤嶽村に迷い込んできた時分、晃弘は一戦交えたことがある。村に複数人いる第一種猟銃免許者が揃いも揃って不在と云う戯けた偶然が引き起こした不祥事に、晃弘は寸分も躊躇うことなく熊と対峙して、これを追い払い華々しい戦果を上げた。代償に隣町の病院に運ばれて額に八針、腹部に六針縫う大怪我を負ったが、大村家の家名は煤嶽村で益々と盛んになった。私もよく覚えているのだが、包帯で巻かれてミイラのような晃弘に、中央の報道局員が群がりインタビューをしている姿が、地元報道局の手によって放送された。その時、彼が口にした言葉はいまでも私の胸に残っている。
「昭文さんとこのお孫さんがいたんだ。ずくづいたら熊のめーでに立っていたよ。命に代えても守らなくてはと思ったんだ。ぼこは村の宝だもんでね」
光方は武勇伝数知れない自慢の息子を護衛につけ、自身の保身を最優先事項に、大村家保有の森林を毎夜見張り続けた。久雄が物故すれば、自ずと森林は自分の物になると、そればかりを考えていたようだ。立木価格の大幅な下落など、光方のような暗愚な者に及びもつかないことだった。大村家の尊翁は、とっくに見透かしていたのかもしれない。息子には大村家を維持していく力がないと云うことに。代わりに孫の晃弘はどうなのか。これも一応は検討していたのだろうが、久雄が外部の者に語った言葉を私が風聞と云う形で耳にしたことによれば、確かに人徳があり真面目な性分ではあるものの、いかんせん知恵が回る人間ではなかったようだ。中央の大学に進学して経済学を専攻したものの、レポートは常に及第点に届くか届かないかのところで、単位の取得も担当教授のお情けに縋っていたと云うのが現状らしい。卒業論文に到っては、友人の助力でなんとか形にすることができたと聞く。後継者問題は大村家の一大事であったが、やがては久雄の危惧も立ち消えとなる。遺体は頭部を鈍器のような物で殴りつけられかち割られていたと云う。
一学生が調査できることと云えば、村での聞き込みから神無月公立図書館で過去の新聞を漁るくらいが関の山だ。事件の仔細は物見遊山で聚合しない。第一発見者の光方に話が聞ければ私たちの好奇心も満たされるはずだったが、高齢の上に凄惨な現場を目撃したことによってすっかり塞ぎ込んでしまい、無遠慮に彼の薄氷な心に罅隙を入れる蛮勇は振るう気になれなかった。そうでなくても、村の有力者に安易に接触できるわけもなく、代わって晃弘に話を聞くことも憚れるほどだった。村は久雄の暴挙から東西に分かつ冷戦状態であったため、東の旧民派に踏み込んだ聞き込み調査は避けなければならず、必然、情報は不足し流言飛語が飛散して西の新民派に迷妄を促した。事件が起きてからかなりの時間が経過していたため、事件の真相は煤嶽村を管轄している隣町の飯田警察署で調査書を読むことでしか叶わなかった。飯田警察署の刑事が私たちの疑問の空白を埋める手伝いなどしてくれるはずもなく、事件の顛末は新聞記事から抜粋した既存の情報に合わせて、逞しい想像力で補填していくより他になかった。
私たちが取った行動は、潔いほどの匙投げだ。図書室での会合は、村の笧を再確認するにとどまった。人間の変容など、時が刻むのと同様に当たり前のことなのだ。まして大人になっていく過程で、確固とした自己が形成されていない段階では、心の機微に触れるなにかしらが外部から到来したとき、一にも二にも魅力的に映ってしまうだろう。人は変化を好む生き物であり、それを許容できるものを内側に隠し持っているのだ。いままで知らなかった世界が眼前に広がると、手持ちのカードがどうしても貧窮しているような錯覚を覚えてしまう。新しいカードがジョーカーであっても、いや、破綻した論理であればあるほど常識を折り畳んで照応し、そこに明晰な真理が浮き彫りにされて人を包括するのだ。悪への誘惑は抗い難いほどに促進して、無事乗り越えられたら若気の至りで片づけれるほどの些末なことだった。誘惑の潮騒は人を選別する。選ばれた人間は運命の大波に飲み込まれ、法律や道徳に縛られない純粋な個体として生まれ変わるのだ。人は愛を教えられなければ愛を知らない。他人の干渉を一切受けなかった子供は、無機質な愛を知らない人間へと成長するのだと云う。鬱陶しいと思えるほどの両親からの庇護は、お節介と過干渉の狭間で揺れる起き上がり小法師だ。
外灯もない寂れた村の夜道は危険であるとする認識は、村民の誰一人持ち合わせていなかった。施錠の重要性も蔑ろにされており、それもこれも煤嶽村の村民は皆家族なのだとする共通意識の弊害によるものだ。事件の後はさすがに危機意識も多少は高まり、施錠の義務と外灯設置を取り組みに設けて対処に当たった。教育委員会は朱鷺高等学の相次ぐ不祥事の責任追及として、霧島浩平学校長を辞職に追い込んだ。後任に田丸博学校長が就任すると、亦別の問題が勃発した。前例のような刑事事件に発展することはなかったのだが、過度の情操教育の弊害なのか生徒の一部が市民運動に走り出したのである。学生運動のような過激な暴力に訴えるまでには至らなかったが、原子力発電所の撤廃を求めて態々東京くんだりまで足を延ばし、自前の看板に生徒一人一人の血で書き殴った、反対! 認めない! 即時撤廃を! などの文言を躍らせてデモ行進したのだ。かと思えば朝鮮学校の閉校を主張するレイシストな生徒も現れて、朱鷺高等学校は一時世間の注目を浴びることになった。
彼の生徒が複数人の生徒と結託し、校内を占拠して行ったヘイトスピーチは、村の問題に留まらず国内外にセンセーショナルな話題を提供した。毎日新聞が此れを大きく取り上げたことから、日本人学生の間で差別主義が横行しているなどとして、日本の外交に微少ながら影響があったと当時の外交官が口にしたほどだ。二〇一四年九月二十六日、香港の高校生と大学生を中心とした、授業のボイコット及び「真の普通選挙」を求めるデモが、香港中文大学内で繰り広げられていたことは記憶に新しい。雨傘革命は、二〇一七年に行われる香港政府首長(行政長官)の選挙制度に関する中国政府の取り組みが、香港市民の強烈な反発を招いたためとされる。これまでは中国政府が香港行政長官を指名していていた。二〇一七年の選挙ではいわゆる普通選挙の方式がとられることになっていた。しかし中国政府は、二〇一四年八月の議会において、二〇一七年の選挙では中国政府が支持する者のみ行政長官の候補者として認める方針を固めた。すなわち候補者はあらかじめ中国政府により選定されることとなり、政府に対立する候補者は選挙前に排除されることとなる。香港行政長官の選挙制度に関する方針は二〇一四年八月末に決定した。これを受け、普通選挙を求める抗議活動が学生を中心に行われはじめた。彼らは平等な権利を主張してデモ活動を行ったわけだが、朱鷺高等学校を占拠した生徒たちは、どこか見当違いな方向に熱が発散された嫌いがあった。朝鮮学校の有無は問題視しておらず、汚濁した眼で口角泡を飛ばして、内々に込み上げてくる怒りを発散しているかのような様子だったと云う。
私は二人が云うところの生徒たちの思想云々ではなく、舞台の配役が入れ替わったかのように人格が変化していった様に着目した。霧島前学校長の時分から朱鷺高等学校の生徒たちは奇行が続いており、更に時代を遡って同様の問題が頻発していたのか、そうであったならばいかにして報道関係者の網目を掻い潜ってきたのか、疑問は尽きることなく私を悩ませた。前述の問題は置いておくとして、学生たちの変貌には明確な説明が欲しかった。田丸学校長の情操教育による生徒たちの暴走と片づけられているが、それでは腑に落ちないところがある。煤嶽村で起こった殺人事件の犯人は、田丸学校長と一切の面識がないのだ。此れでは思想の変化に整合性が保たれていない。それ以上に不可解だったのは、私たち子供が情報一切を秘匿されていたと云う事実であり、記憶を掘り起こしてみれば神無月公立図書館で過去十年毎に新聞が保管されているものの、個人宅では終ぞ購読している様子は見受けられなかった。情報源は強いて云うなればテレビくらいなものだろうか。私は情報の裏付けが欲しかったので、学校に一台しかないパソコンから、当時ISDN回線で重々しかったインターネットを閲覧することから洗い出した。パソコンを使用するには許可を貰う必要があったものの、学科試験で基準を満たしている者は特別な承認を必要としなかった。調査結果を目の当たりにして、亦、担任教師から噂を耳にするまでは、朱鷺高等学校についてなんの疑念も抱いていなかったのだが、どうやらこれでは入学に妨害があったとしても理解しなければならないだろう。
加えて坂本が開示した情報は興味深かった。朱鷺高等学校の学生たちの中退率が他校に比べて軒並み高く、殊に女子生徒が九割近くを占めていた。学年が上がるほどに中退率も上がる傾向にあり、こうした結果は閉鎖された村の因襲に沿っているとも云えた。煤嶽村だけの風俗と見れば簡単だが、夜這いの風習は一九七〇年代まで各村に残っていたとされる。各地方に色々と耳を疑うようなハレの慣習があったようだが、煤嶽村は一九八十年代一九九十年代と時間の潮流にあっていまでも現存していた。初潮を迎えた娘の初性交に、村で有力な人望厚い年配者に手解きしてもらうなどと云った、現代では考えられない仕来りがあった。大村久雄に手解きを受けた生娘も多くいただろうし、彼の死は複雑な心境を生み出したに相違ない。
私はこの後、教師たちから坂本と沙羅を誑かして、朱鷺高等学校への進学を奨励したとされる嫌疑がかけられた。職員室に呼び出されて何時間も尋問された。生徒指導担当の大森教諭から胸倉を掴み上げられることまでされたのは、将来を見据えての愛の鞭であったのか定かではない。私は歯牙にもかけなかったが、坂本は内申書の査定を気に病んでいた。私に黙して坂本は先手を打った。校長先生を捉まえると、窮状を訴えて教師たちの指導改善を要求した。折衝自体、難航める主題ではなかったものの、予想外に校長先生の態度は硬化していたと云う。詰まる所が、それだけ朱鷺高等学校は危険視されていたのだ。折衷案を手探りしている過程に於いて、坂本に相談されて初めてそれが知れた。厄介な事態に、私は知恵を絞りださねばならなかった。坂本が先走ったとは云っても、煽りを喰ったのは否定しようのない事実だからだ。教師たちに内申書を細工させない代わりに、此方側が提示できるものはなにかないだろうか。思案していく内に、妙案とは云い難いが一手を謀ってみることにした
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