第2話 KPの本意とは?

 県立朱鷺高等学校は、深閑とした山を背にして建てられている。粗末な間道を行き、校門までの短い急勾配の坂を上りきることが日課だった。毎日が簡素で瞠目とは無縁の暮らしであり、煤嶽村がいかにして都会との誤謬を孕む素因となっているか了得できる。規律は寛容に、競争は相互愛に、資本主義は共生に取って代わった。瀟洒と利便性に目を瞑れば、普段の生活は安いものだ。流行に頓着しない様は、暗に時間の経過を鈍重にしていた。日が昇れば目を覚まし、日が沈めば床につく。規則正しく波止場に船の碇が下ろされて、子供たちは衆人環視の掣肘を享受しながら、難路な人間関係に薄明を見出していった。私は子供と大人の境目にあって、未だ黎明の兆しすら適わなかった。迎合できない仔細を詮索しては癇癪を起し、令名は頑健な鎖で括り付けられた木箱にしまわれた。素行は崩さず礼儀は行き届いていたものの、内にある形容し難い感情のしこりが、私の気紛れに拍車を掛けた。例えば託けの類を耳にすると感情の行き場を無くしてしまい、新たな空語を拵えるよりは距離を縮めたくなり、苛立ち紛れから過言してしまうのだ。情操に落ち度があるのかもしれない。祖母に相談を持ち掛けたことがあるのだが、大なり小なり性格の歪みは個性の範疇と、一笑に付された経緯がある。そんな私のことを、真理恵は癇癪玉と呼称した。

 校風は往々にして寛大である。生徒の自立を促す意味で個性を尊重し、慧となるを主眼として尽瘁も厭わない心胆を育むとあった。健全な人格を構築するにあたって智は懸隔ではなく、寧ろ尺度として用いるに足る干戈となる。教師たちの口癖は決まって此の言葉に集約された。進学校ではない、地方の県立高校にしては稀有なことだが、文教に注力しており、意識の高い数十名に及ぶ秀抜な者が著しい成果を上げた。東京大学、京都大学、国際基督教大学、一橋大学、大阪大学など、各大学に卒業生を送り出した田丸博学校長は、他校から羨望の的だった。異例の事態に都の教職員が足を運ぶほどに――。

 入学から二ヶ月後に行われる中間試験は、そう云った意味でも試金石だった。私は学問を習熟する勢いで、一日の大半を自己研鑽に費やした。喫緊の問題はなく、科目挙げて平均点を凌駕することは自明の理だ。後はなにほど、評点を伸ばせるかに懸かっていた。

 「笹川」

 私は呼ばれて顔を上げた。伽藍の教室は夕映えが射し入り、落日は目下、東雲の前座に足らんとしていた。いい加減に並べられた机は極右の行進であり、掛け時計の秒針は喧しい極左の糾合だ。下校時刻を告げる放送が校内に響いたので、私は此れを契機に帰宅するつもりだった。学生鞄に教科書を詰め込み席を立った刹那、入室してきた坂本正一に呼び止められたのである。坂本とは同じ中学校で学んだ。外語学に通暁しており、中学校時代の成績は彼と主席次席を分けることが間々あった。闊達な性格に裏打ちされた不壊で根太い精神は、他者の信頼を勝ち得るには充分過ぎるほどだ。仄聞したところでは、空気の綺麗な此処煤嶽村に引っ越してから後、才知をいかんなく発揮して、同期の者を悉く退けていった。水際立った東京弁を話、些少の方言も解さない達者な言詞は、時代の先端に達しているかのような心証を与えた。私のような神経過敏な者と話ができたのも、こうした純朴な安閑さからきたものなのかもしれない。

 「なんだ」

 私の音吐に若干怒気が含まれていたのは仇視のせいだろう。

 「いや、勉強が捗っているのか気になったものだからね。敵情視察と云う奴だ」

 坂本は莞爾すると、手にしていた日誌を教壇の上においた。

 「進学校ではない田舎の高校だからと云って、事前準備が肝要なのは承知しているはずだ」

 「そう気張るなよ。それより、こんな遅くまで残っていると云うことは、雑務かなにか押し付けられたってところかい?」

 私は学生鞄を肩に下げ、坂本を睥睨した。遅くまで校舎に残っていたのは、偏に閑静な環境を希求したからであって、坂本の云うような諸事は微塵もなかった。暗識は精根が必需であり、何者からも障りを負う羽目になるのだけは避けなければならない。今もこうして、坂本と対話を続ける気は毛頭ないのだ。よもや、私と懇話できるなどと、不毛な思慮に囚われているのでもあるまい。

 「俺はもう行くぞ。無駄な戯言をつらつらと述懐するつもりはない。時間は万人に共通の認識だからな」

 「共通の認識だって!?」

 坂本は大仰に慨然としてから続けた。

 「君が浦島効果について、知らないわけではないだろう? まぁ、待てよ。一人の人間に数分の時間も割くことができないほど、切羽詰っているのではあるまい。よし、いみじくも君が時間の概念を陳述してくれた礼に、今度は僕が人と人との繋がりについて、見識豊かな講釈をたれてやろう」

 「講釈は日がな一日聞いて飽いている。それも、耳朶が腐れ落ちるほどにな。つまらない東京の言葉でもって、忌々しい人生訓を一言でも口にしたら、お前の面をかち割ってから東京湾に沈めてやる」

 坂本は愁眉の面持ちで、窘める様に私に一瞥をくれた。こうした咎めは、終始、私の失われた調律の標榜であり、暁闇に灯る赫怒の焔でもあった。耐え難い激昂が騒擾せよと駆り立てる。幼い頃から例外なく私の桎梏であり指針であったそれは、今でもこうして深淵に確固として根を張って、必要とあらばいつでも残虐な暴君さながら、荒天の思念と化した。眼前の男を嬲り殺しにしているところを想像した。頤に対する私の報復は、陰惨な仮想の暴力に帰結された。現実に投影されない侭になった朽ちて摩耗しつつある命が、生殺与奪の掌握者に遁辞を述べ、敵わぬとみるや大童に遁走している痴態は、食物連鎖の極地だった。捕縛され蹂躙された肢体の華美は尾籠を誘致して、気付けば此れこそが痴だと知った。私は恥辱に視線を逸らして、坂本の紡がれる言葉を待った。

 「それにしても解せないな。笹川は友人が欲しくはないのかい? 中学時代もそうだったけど、孤独でいることが誉だと云わんばかりだ。いいかい、生の帰趨は改革と対極に位置する。保持精神は、況や相互の人間関係から発生すると結論付けられ、そこから生じた該当する感情の発露が物事の成否を判断する。此れなくして、社会生活を営む上でなにが緊要になってくるのか、是非ご教示賜りたいね」

 「主観的だな。大方、眼鏡が曇っているのだろう」

 「いやいや、譲歩したつもりだよ。抑々、社会はマイノリティで構成されていない。賛成多数の民主主義で決する以上、異質な奇癖は問題にしないものだ。混和しなければならない。そうしなければ、個の持つ性質そのものが無機質になりかねないからね。但し、個性を潰せと云っているのでもない。個と個の融合は最低限の節度だと云いたいのだ」

 「隣の芝生が青いと云っては相互干渉する癖に、賛成多数で決議された議題には口を差し挟まない。まったく面妖な国民性だよ。まだ、リチャルド・クーデンホーフの友愛政治論の方が、耳に耐えられると云うものさ。個性の有無をあやふやにしておきながら融合を説くのは、拝金主義で胡乱な宗教家共の専売特許だ。そうだ、いっそのこと共産民主主義の旗を掲げてみると云うのはどうだ? どっちに転げ回ったところで、それ相応の弁疏が可能だぞ」

 「共産民主主義とは、独裁政治の持って回った湾曲な云い回しなのかい?」

 私は坂本の皮肉も構わず続けた。

 「生の帰趨が保持にあるとは思いたくない」

 「うん?」

 坂本の顔に怪訝の色が窺えた。

 「徹底的な効率に基づく善行こそが、人間が人間の助力を為し底上げを図る。人間以上ならしめるものだ。生は道徳の観念に沿って、改革に直結するある種の能動的要素が不可欠だ。それが無ければ詭弁であり、行動は虚無と云う名の廃棄物に過ぎなくなる」

 「やれやれ……」

 坂本は憮然とした表情を浮かべ、教壇の上の日誌を拡げて制服の胸ポケットに挿してあった万年筆を取り出した。一日の行動を簡約して記された一語一語の文辞は、人生の切り絵然としており、立ち返ること容認されない籠の中の鳥である。不得要領な方寸を解き明かす算段が立たない以上、仮象の姿が映る鏡の裏側がどうしても気になるものだ。腕を差し伸べたところで決して届く筈がないと知りつつも、鏡を引っ繰り返して内側まで覗き込んでやろうと云う好奇心は拭えそうもない。潜在意識は兎に角厄介な代物であり、未開の地に足を踏み込むことは容易でなかった。真相の究明は此澱みなく進む坂本の手の動きは精練された舞の方のようであり、躍動と確執した諦念の息吹が見事なまでに私と対比をなしていたのである。一日のあらましは、枠を食み出さんばかりの野太い字体で記述されていた。日付、授業詳細、所感の欄に記載された色彩豊かな潤色は、消光の装飾であり息の緒でもある。室内は夕日が韓紅に熱情の渦をなし、空隙を跋扈しながら無音韻の結晶でもあった。

 私は窓を開け放った。乾いた風が髪を梳いた。校舎向こうの山は、近々麓から山間にかけて、雛罌粟、菖蒲、金鶏菊などが観賞できる。小高木である白雲木に連なる五列の花冠が、純然な美の連想として峻烈な光彩を放つだろう。唐種招霊の甘い芳香が蘇ってきて、私は軽く酩酊を覚えた。

 「五月の連休は、なにか予定を立てているのかい?」

 坂本は日誌から顔を上げて訊ねてきた。

 「紫外線の強くなる時期に、どうして戸外を探索しなくてはいけない道理がある? 勉学に決まっているだろう」

 「君をそこまでさせるインセンティブってなんなのだ?」

 私は返答に窮してしまった。此れ、と明晰に断言できるものがないことに愕然とした。今迄そのような隘路とは無縁だったので、坂本の発した何気ない疑問は謎語であり、殊更私は清新な感懐を受けた。学生が自身の滋養のために学業に専心することは本務なのだが、対人より卓抜せんと遮二無二に邁進しているのかと問われたら、否と云わないまでも、とても首肯できるものではなかった。不得要領な方寸を解き明かす算段が立たない以上、仮象の姿が映る鏡の裏側がどうしても気になるものだ。腕を伸ばしたところで決して届く筈がない知りつつ、鏡を引っ繰り返して裏側まで覗き込んでやろうと云う好奇心は拭えそうもない。潜在意識は兎に角厄介な代物であり、未開の地に足を踏み込むことは容易でなかった。真相の究明は、此処に到ると考えた。不可視の領域は魅惑の宝庫なので、困難でありながらも確と検分しておきたかった。その中に扇情を焚き付ける火種が燻っているかもしれない。常時、私を傲慢な苦役に扇動する、あの忌まわしい狂乱の桃源郷が――。

 私は黙殺した。敢えて話題を転ずる必要がなかったので沈黙を守っていると、坂本は日誌を小脇に抱えて私を凝視した。その双眸には一欠けらの野心すら宿っていなかった。詰問するほどの値打ちもないので、坂本も危険を冒そうとしない。それはそれで寂寥の感があったが、適切な距離感を維持する彼の配慮に、私は匠の技巧を垣間見た思いだ。教室を出て行っても差し支えなかった。それをしなかったのは戯れであり、興趣が起こったからに他ならない。人好きのしない気質なので、こうして声を掛けられたことが欣快だったのだろうか。心奥にあるエスの求めに何某かの救恤があって然るべしだ。それが偶さか、坂本の人間関係における留意に直結していたのかもしれない。

 「自分でも理解に乏しい」

 私は抒情的になるのを避けるために道化を演じた。

 「命題論理、いや、演繹法で導き出せる質疑だけにしてくれ。真理表を書く手間が省ける」

 「前提となるものがないだろう?」

 坂本は私の言葉を受け、調子を合わせてきた。

 「此れでは三段論法も地に落ちる。君の熱意の大本を解き明かすのに、真理表は不適格さ。それより、連休中は家にいるようだから一緒に勉強しないか? 悪い話ではない。同盟を結べば相互に利点があると云う、簡潔な論理から導き出された帰着だよ」

 「竜虎相打つだ。ずっと家にいるとは云っていないぞ。まぁ、いいさ。確かに利害が一致すれば、右に倣う奴だって出てくるものな」

 「ふん、云っていやがれ。君は本当に好感の持てない男だな。鼻持ちならない東京弁がすっかり板についた。その様子では、下稽古に余念がなかったのだろうね。荏苒としている毎日よりはいいが」

 その時、教室の脇を通りかかった教師が、即時帰宅するよう促してきた。私たちは折り目正しく返答した。二人して教室を出る真似はしなかった。坂本が帰宅の準備を始めたのと同時に、私は背を返して無言で教室を後にした。

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