第2話 パスタ


ACT2 『パスタ』



私は夢を見ていた。


真っ暗闇の空間に、赤いサビだらけの大きなパイプがあった。

そのパイプを覗こうとする私。

すると私の体は、ズルリとその中に落ちてしまい、グルグルと回転しながら落下していった。

その暗闇の底の地面に、着地するかしないかの寸前の所で、私は別の場所に移される。

そこはヒビ割れたアスファルトの橋で、まわりの空気はグレーに淀んでいた。

私は恐る恐る、今にも崩れそうな橋を渡る。

するとその向こうの草むらに、一匹のウサギを見つけた。

そのウサギは私にとって、この世界で唯一の味方であるとわかったので、少しでも早くそのウサギを捕まえようと、アスファルトの橋の上を走って渡った。

なんとか橋を渡り、ウサギを抱きかかえると、そのウサギの目からは、真っ赤な血がしたたり落ちているのだった。そしてウサギは私に語りかけてきた。

聞こえない・・・何と言っているのかわからない。

その言葉は間違いなく、私に向かって訴えている悲痛な叫びだとわかっているのに、その内容がどうしても聞き取れないのだ。

私はそれを聞きたい。どうしても理解したいのだ・・・


キキーッ

突然の金切り声のようなブレーキ音が、私を眠りから覚まさせた。

「ごめんごめん、セイラちゃん。前の車が突然割り込んできたものだから」

私は、お客さんとの同伴出勤のため、車で食事へ向かう最中だった。

「すいません、私、いつの間にか眠っちゃったみたいで・・・」

「いいんだよ。人気ナンバーワンのセイラちゃんと、こうしてドライブできるだけでも嬉しいよ。それに普段は見られない、天使のような寝顔を見れて光栄だからね」

少しキザだけど、このお客さんは優しくてなかなかの紳士であった。

だから、私もつい安心して眠ってしまったのだろう。

そういえば、最近よくこの夢を見る・・・いや、いつからだろう?

ひょっとしたら、もっと昔からこの夢を見続けていたのかもしれない。

そんなことを、まだ少しポーッとする頭で考えていると、とあるブティックに着いた。

このお客さんは、ブランドのバッグを買ってくれた。別に大してブランドのバッグが欲しかった訳でもない。たまたま目についたのが、真っ赤な鮮血のような色をしたバッグだったからなのだ。

私は、何故かこの色が気になってしまったので、ふと手にとってみたのだった。

するとこのお客は、何も躊躇することなく、値札も見ずにこのバッグをレジに持っていってくれた。

値段はたぶん30万くらいだろうか?

私はこのお客が買ってくれたバッグを、とても気に入ったフリをしてみせた。

するとこのお客は、ニコリとだらしのない顔で喜んでくれた。


私にとってはこれが『仕事』なのだ。

お客にいくらお金を出させても構わない。それは、お客が好き好んでしていることだから、別に悪い事ではないし、一切の気兼ねもしない。最終的に、『男』が『喜ぶ』ことをしてあげればそれで良いのだ。

世間一般的に、夜の仕事をしている女が、男に貢がせることを悪いイメージで解釈している人がいるが、これはまったくもって勘違いなのだ。

女が貢いで欲しい訳ではなく、男が勝手に貢いでくれるのだ。

私は今まで、一度だって自分からお客に強請ったことはない。

だから、もし誰かが悪いというならば、女を征服したいが為に自分の魅力を見せる手段として、お金を使ってみせた男が悪いのである。

お金を自分の魅力としてみせたければお金を使えばいいし、自分の肉体が魅力だと思ったら肉体を使えば良いだけの話である。

とにかく何でもアリのこの社会では、法律にさえ触れなければ、どんな方法で女を征服しようと構わないと思う。最終的にはそれを選ぶのは女であり、もしそれを拒んだなら男に魅力がなかっただけということになる。何も難しいことはなく、単純明快に、それがオスとメスとの真理であるのだ。

世の中には、モテないと嘆いている人たちがいるが、そういった人間というのは、まず自分に自信のない人間であることに気付かなければならない。


モテるというのは、純粋に『魅力』があるかないかだけのことである。


だったら自分に魅力をつければ良いのだ。その方法を探そうともせずに、ただ愚痴を言うだけの低俗な人間には、男女の恋愛という崇高な儀式を行う資格はない。

さらに言えば、この地球上の無駄な人間を削除するために、どんどん悲観していって自殺でも他殺でもして潰しあってくれれば丁度良いのだ。

まず人間として存在していることの有り難味を、全身で感じ取って感謝するべきではないか?

そんな当たり前のこともわからずに、自分自身を貶めている人間に幸せはやってこない。

生まれてから死ぬまで、恨み辛みと猜疑心に苛まれる人生を送るだけなのだ。

自分自身を変えたいと思わない人間は、ずっと待っているだけで変われるハズがないのである!


「・・・ちゃん、セイラちゃん」

「あ、ご、ごめんなさい。またボーッっとしちゃったみたい」

「はは、てっきりボクの選んだこのお店が、気に入らなかったと思ってしまったよ」

また考え事をして自分の世界に入り込んでしまった。いけない。今はお客と食事に来ている最中だ。

たいがい同伴時の食事というのは、男が見栄を張って豪華なフルコースなどになりがちだが、このパスタ屋は若物に人気で、安くて美味しい店であった。その分、夕食時の込み具合は凄いが、この店の経営者と知り合いらしくて、待たずして入れてもらったのだ。

最近お客に連れていってもらう店は、テーブルマナーの面倒臭いワンパターンな店ばかりだったので少々ウンザリしていた。だから、こういった気軽な店の方がありがたかった。

「ここのパスタ、とっても美味しいですね。メニューもいっぱいあるし」

「たくさんありすぎて迷っちゃうね。セイラちゃんはナポリタンが好きなのかい?」

「はい、あんまりゴテゴテとトッピングしたのは好きじゃないんです。シンプルなのが好きなんです」

「そうなんだ。なんだかセイラちゃんらしいね」

「ふふ、そうですか。セイラあんまり豪華な食事だと緊張しちゃうから、こういうお店の方が好きなんですよ♪」

「そう、よかった」

またもやお客の顔が、グニャリと溶けたバターのようにニヤけた。幸せそうな顔である。

私自身も、幸せをわけてあげた事で気分が少し良くなった。

今日はいつもより、とてもおなかが空いていたので、ナポリタンをもう一皿追加したかったが、はしたない女と思われるのがイヤでやめておいた。

「ふう、結構な量だね。ボクはお腹がいっぱいになってしまったよ」

このお客は食が細いのか、一皿の半分くらいで食べるのをやめてしまった。

それにしても、レディーが一皿ペロリと完食してしまったのに、自分は半分も残すとは、私が大食いのように見えてしまうではないか。恥をかかせないよう、意地でも平らげるくらいの根性はないものか?

私は少し意地悪い気持ちになって、そのお客に尋ねてみた。

「あの、いつもそれくらいしか食べないんですか?どこか体の具合でも悪いのかしら?」

お客は少し黙ってしまったが、少し考えた後でこう言った。

「いやぁ、ちょっと子供の時に胃を煩ってね。それ以来、少食になってしまったのさ」

「そうだったんですか。変なこと聞いちゃってすいません」

私はくだらない事を聞いてしまったことを反省し、反省するそぶりを見せてやった。

「・・・いや、いいんだよ。それよりそろそろ時間だね。お店に行こうか?」

「はい、どうもごちそうさまでした♪」

私はそのお客とレジに行き、サイフを出す素振りをワザと見せた。

こうすれば、少しでも「自分も払いますよ」と思わせることが出来るからだ。でもほとんどは、お客が全額払ってくれるものだ。まぁ、パスタごときの料金を、私に払わせるような心の狭い人間とは、二度と食事に行きたいとは思わないが。


「ん?空が黒いな・・・雨でも降りそうだ」

お客がそう言うが早いか、あっという間に道路が雨に濡れていった。

突然の通り雨。私達は小走りで車まで走った。その時、このお客が私の手を握って引っ張ってくれた。

(こうして手を繋いだことなんて久しぶりだわ・・・)

私はそんな事を考えながら、急いで車に乗り込んだ。


雨好き。

私にとって雨という存在は、別に嫌なものではなかった。

体を濡らして冷やさせるという性質は嫌いだが、傘をさせば雨を弾くことができるので、その行為がちょっぴり優越感を感じさせてくれて好きだった。

それに、外では雨に濡れてイヤな気分をしている人達がいるかと思えば、こうして店内でお客にチヤホヤされながらドンペリを美味しく飲むことが出来る。

私がこうして、充実した時間を過ごせる事の喜びが、倍増するような得した気分になる。

いつもと変わらない店の状況と、自然によって崩された外の状況の『格差』が生じることで、私の心を満たしてくれるのだ。

他人と比較する事により生じる、相対的な幸福感がたまらなく好きだった。


「セイラちゃん、今日はばかにご機嫌だね」

指名でついたお客さんは、みんなそんな事を言って誉めてくれた。

確かに、今日の私はいつもより機嫌が良くて、思わず口元が緩んでしまうのだ。

だから余計に、私の顔を見て指名してくれるお客が多かった。

誰しもが、私の顔を見て幸せな気分に浸りたいのだろう。

いくら美人の女でも、不機嫌そうな顔をした女の子と喋りたいとは誰も思わないだろう。

それを、店の女の子の中には、生理だとか機嫌が悪いとかを理由にして、笑顔ができないと言う子もいる。でもそれは私にとっては言い訳で、まずは笑顔をすること自体が『仕事』なのだ。

それをどんな言い訳しようとも、それが出来ないのなら即刻辞めるべきだと思う。


「何かいいことあったのかな?」

お客が私の顔を覗き込むように言う。少し嫌らしい顔だ。

「別にないですよ♪あ、それより大丈夫でした?」

「え、何が?」

「濡れませんでした?」

「・・・え?!や、やだなぁセイラちゃん、まだ濡れてないよ」

お客はモジモジした返答をした。何か妙な感じだ。

「濡れなくて良かったですね。洪水のようだったでしょう?」

「こ、洪水って・・・そんなに濡れないよ・・・」

「?」

おかしい。さっきまであれほど大降りだったのに、既に雨は上がっているのだろうか?

「今日のセイラちゃん、ちょっとエッチだなぁ(ハァハァ)」

「そ、そんなことないですよぉ、あはは」

お客の鼻息が荒くなったので、私は笑ってごまかした。

雨の事が、どこか釈然としなかったが、私は仕事に集中する事にした。


・・・そして時は経ち、閉店間際。

「ごめんなさいね、今日はずっと隣にいられなくて」

同伴をしたお客さんがお帰りなので、私は外まで見送った。

「いや、いいんだよ。今夜は楽しかったよ」

そのお客は、またにこやかに笑った。が、途端に暗い表情になって黙り込んでしまった。

「どうしたんですか?」

「いや、きみの顔を見るのがこれで最後だと思うとね・・・」

どういう事だろうか?もうこの店で私を指名してくれないって事なのか?

「そんな、寂しいです・・」

「ボクだってそうさ。でもこれは、抗えない運命なのだから」

「・・・・」

私は何と言って言葉を返したらいいか困ってしまった。

理由はいろいろと考えられる。

単純にお金がもうないのか、他の店にいい子が出来たのか、それとも転勤が何かで遠くへ行ってしまうのか。私はその理由を聞こうと思ったが、それ以上はお客のプライベートに関わるし、その理由があまり良い事ではないと直感したので、あえて聞くのをやめた。

「でもまた必ず会えるよ。それもまた運命だから・・・じゃ」

そういい残すと、そのお客は夜のネオンの向こうへと消えていった。

運命・・・

キザなお客だとは思ったが、あまりにも運命という言葉を連発したことに、どこか気味の悪い感触を受けた。私は後味の悪さを引きずりながら店の中に戻った。

店はすでに閉店の時間で、業務を終えた女の子たちが、更衣室でお喋りしながら着替えている。

すると、私の横にひとりの女がやってきた。それは、この店のナンバー2に位置するホステス。


『相馬 美登理 (そうま みどり)』であった


私はこの女の事は眼中にはなかった。事実、私とこの女との売り上げの差は開いていたので、ナンバー2と言えど、ライバル視するほどの女と見ていなかった。

だがこの女は、それが気に入らないのか、いつも私に対抗心をギラギラと向けていたのだった。

「今夜はたくさんの指名がとれたみたいで、店長も喜んでらしたわよ、セイラさん」

「あら、ありがとう。ミドリさんが頑張ってくれたおかげだわ」

「いえ、今夜は私の完敗ね。ほとんどがセイラさんの指名だったもの」

やっぱりこの女は、私に対して対抗心を持っているようだ。言葉の端々にそれが顕著に現れていた。私はそれが鬱陶しかったので、ちょっぴりトゲのある言い方をしてやった。

「この仕事は指名をとることが全てじゃないわ。いかにお客さんを満足させるかが大切だと思うわよ」

私があまりにも露骨な謙遜をしたので、ミドリは少しむっとしたようだ。

「そ、そうね。流石はセイラさんね。どんな変わったお客さんでも満足させてしまいますものねぇ」

今度はミドリが、トゲトゲしい言葉を私にぶつけてきた。

「・・変わったお客というのは聞き捨てならないわね。いったい誰のことかしら?」

私も少し大人気なかったが、気分がザラついていたので、ミドリの挑発に乗ってやることにした。

「あのサングラスにパーマに帽子をかぶったお客のことですわよ」

確かに今夜同伴したお客は紳士で優しいが、サングラスにパーマに帽子という、一風変わった格好をしていた。それに年齢不詳で、仕事も何をしているのかわからない。

「見かけで人を判断してはいけないと思うわ、ミドリさん。そんな事じゃ、お客さんを見た目で差別することになってしまう。人間、外見は関係なくて中身が大事だと思うわ」

「ぐ・・!」

私のあまりにも完璧な答えに、ミドリは言葉を失ってしまった。

私を睨みつけ、拳を握り締め、下唇をギリギリと猛烈に噛むミドリ。

その姿があまりにも滑稽なので、私は思わずおかしくて噴出しそうになってしまった。

そんな様子を見かねた他の女の子が、ミドリをかばって助け舟を出した。

「み、ミドリさん。ちょっと軽く飲みにでも行かない?いい店あるんだけど・・」

「そ、そうね、ストレス発散にでも行ってみようかしら。じゃセイラさん、ま、また明日会いましょう!」

「・・おつかれさま」

私は感情の篭ってない声で挨拶をし、店を出た。


さて、今からどうしよう。今夜は少し飲みたい気分だ。

私は集団で行動するのが大嫌いだった。だから行動人数はせいぜい3人までが限界だ。

他人とのぬるま湯的な馴れ合いは、個人の可能性の芽を潰す愚かな行為だ。

多人数で騒いで楽しんでいる人間は、自分と同じレベルの人間を見て安心しているに過ぎない。

だから店の女の子とも、アフターで一緒に飲みに行くことはほとんどない。

かと言って、完全に輪から孤立している訳でもなく、ほどほどの付き合いはしているつもりだった。

私はいきつけの静かなバーで飲もうと思い、タクシーを拾おうとした。


ピピピ・・!


その時、私の携帯電話が鳴った。

それも、お客との連絡用のサブの携帯ではなく、メインで使っている携帯だった。

私は、今夜買ってもらった赤いバッグから携帯を取り出した。

非通知設定・・・

メインの携帯の番号は、お客には絶対に教えていなかったのでかかってくるはずがない。

プライベートな用件だったら、必ず発信相手が表示されるはず。

普段だったらシカトするのだが、今夜は何故か胸騒ぎを覚えたので、電話に出てみることにした。

「はい・・・」

おそるおそる電話に出てみたが、相手の返事が聞こえてこない。

(やはりイタズラか)

そう思って電話を切ろうとしたその時。

「香取さんですね・・・」

ボソッとした男の人の声が聞こえてきた。私の事を苗字で呼ぶとは間違いなく客ではない。

「あなたは誰ですか?」

「・・・私は・・あやしい者ではありません・・」

自分の事を、端から怪しくないと言う言葉の裏には、必ず後ろめたい要素があるということだ。

私は場合によっては、この男との通話を途中で切る心構えでいた。

「どういったご用件かしら?それに何故、私の携帯の番号を知っているの?」

私は当然の如く、単刀直入にそう相手に聞いた。

「・・・その質問に答える事は出来ません・・今からあなたは私の命令に従ってもらいます・・・」

(!・・おかしい!何を言っているのかしら、これは危険だ!)

これはもう完全に、初対面の相手に向かって使われる言葉ではない。

「イタズラなら切るわよ!」

私は強気な声で言い張った。

「・・・もしこの電話を切ったなら・・必ずあなたに不幸が訪れるだろう・・」

「なっ!何を言っているの?!いったいどうゆう意味なの!」

私はこの時、不覚にも動揺してしまっていた。

「・・わたしに従いなさい・・あなたの自由は、全て私の手の上に掌握されているのです・・」

(!!)

その言葉が、私の堪忍袋の緒を切れさせた。

ブツリ!

私は通話を切ってやった。

「はぁ、はぁ・・な、何よ!どこの誰かもわからないような男に、私の自由を奪われてたまるものですか!」


ピピピ・・・!


ビクッ!

またしても携帯が鳴り、私は驚いて体を強張らせた。

しかし、今度の着信は、サブの携帯からであった。しかも相手は、今夜同伴してくれた、サングラスにパーマの客だった。

私は少しホッとし、ひとつ深呼吸して気を落ち着けると、その電話にでた。

「はい、もしもし」

少し声が上擦ってしまったが、いつもどおりの冷静さを取り戻していた。

「こんな遅くにすいません。実は、どうしてもセイラちゃんと話をしたくって・・・迷惑だった?」

酔って無神経に誘ってくる男どもと比べて、この客の対応はとても紳士的だと思った。

それに、さきほどの不気味な電話の事もあって、誰かに聞いて欲しかったのも事実。

私は、そのお客の誘いをOKし、私の馴染みのバーで待ち合わせすることにした。

私は、見知らぬ相手と会う場合、見知らぬ店では絶対に会わないことにしていた。

タクシーで向かう最中、客の寂しげな声が頭の中に蘇る。

もう私と会えないと言う客が、私に話したい事があるという。これには何か理由があるようだ。

滅多に店の客には興味を惹かれない私だったが、あの不気味な格好と、自分の素性を明かさない態度の秘密を、どうしても知りたくなった。いわゆる好奇心というやつだ。


5分ほどタクシーに乗り、馴染みの店についた。

ドアを開けマスターに軽く挨拶し、店内を見回す。テーブルの一番奥に座っている客の姿が見えた。

相変わらず、サングラスにパーマに帽子だ。その姿は店内では異様に浮いていた。

「おまちどうさま。待たせてしまったかしら?」

「いや、今着いたばかりだよ」

私はお気に入りの、『ホワイト・エンジェル』というカクテルを頼んだ。

お客はスコッチを飲んでいるようで、それを上品にコクリと口に含んだ。

「・・・・・・・・・・」

しばらくは、何も会話のない静寂な時間が経った。

私は無言でいることを別に気まずく感じないので、私も無言でいた。それでも客はいっこうに話を切り出そうとせずに、スコッチばかり口に含んでいるので、まず、さきほど起こった出来事を話すことにした。

「あの、さっきイタズラ電話があったんです。それも私の自由を奪ったとかなんとか言ってくるんですよ。なんだか怖くなっちゃって」

私は怯えた表情で、お客に上目づかいをした。

別にそれほど怖くもなかったが、こうした方が客が喜ぶと思ったのでそう演技した。

思うに、『演技』はウソと同じだと言う人がいるが、完璧に演じ通したウソは、本物の性格になるのである。だから私は、演技をすることの後ろめたさを微塵も感じていない。

「・・・そうなんだ。でもそれってイタズラじゃないのかもしれないよ?」

「え?どうしてですか」

「そうだね・・実はセイラちゃんを口説こうとしていたとか」

「えぇ~?それはないと思いますよ。けっこうお店の子って、こういう変わった電話に困ってるんです。珍しいことじゃないですから」

私は自分自身で、さっきの奇妙な電話をイタズラに決め付けようとしていた。イタズラであったほうが、『イタズラ』という理由に納得できる。だが理由のはっきりしない出来事ほど不気味なものはない。

それに、知らない男からメインの携帯にかかってきたのも不審であったので、それはこの客には話さないことにした。

「それで・・あの、どういったお話なんですか?」

私は、このお客の呼び方を決めていない。初めて指名された時に、相手の名前を聞いてみたが答えてくれなかった。客も名前を口に出すのが嫌そうだったので、私もそれ以上は聞かないことにした。だから、この客の名前を私は知らないので、話しかけるときには少し呼びにくい。

「そのカクテル変わっているね・・はじめて見たよ」

お客はお茶を濁すように、話題を逸らした。

「ええ、このカクテルは、この辺ではこの店にしかないんですよ」

「へぇ、そうなんだ」

「私が前に住んでいた街のとあるバーに、このカクテルがあって私のお気に入りだったんです。だから、それがこの店に偶然あったのでびっくりしました。それからは、これを飲む為にここへ来るんです」

「それはセイラちゃんにとって、何か思い出のあるカクテルなのかな?」

「ふふ、それはナイショです」

私はお気に入りのカクテルの話をされたので、つい昔のことまでしゃべりそうになってしまった。


「・・・私の・・・娘の話なんだがね・・・」

場が少し和んだせいか、この客は唐突に話を切り出してきた。

娘。

なるほど、言われてみれば、このお客のだいたいの推定年齢からは、娘がいてもおかしくはないと思う。それにしても、結婚していたとは意外であった。こんな不気味な格好をしている男と結婚してくれる女がいるなんて、世の中には変わった趣味の女がいるものだと少し感心した。

「娘さんが、どうかしたのですか?」

「・・・私の娘はちょうどセイラちゃんと同じくらいでね。数年前から行方不明だったんだが、やっと見つける事が出来たんだよ」

ドキリ・・・

私の心臓が少し圧迫するのを感じた。

実は、私は父親の顔を知らない。

離婚した母親と、物心ついた時から一緒に暮らしてきたのだが、母は父のことを一度も話そうとしなかった。それが辛い過去だということは聞かなくてもわかるので、私も父の事を聞きはしなかった。


「どうしたんだいセイラちゃん、顔色が悪いよ?」

「あ、いえ。何でもないです。それで娘さんはどこにいたんですか?」

「・・・・・・」

客は黙ったまま、私の顔を見詰めている。

まさか・・・まさかと思うが、その見つかった娘とはひょっとして・・・

私の妄想が、私から離れて勝手に膨らんでいく。

「それは・・キミ・・・」

(!!)

なんということだろうか?!

まさかこの目の前にいるおかしな格好をした男が、実は自分の父親だとでも言うのか?

そんなバカな!

私は酷く動揺し、思わず目をまんまるに見開いて客の顔を凝視してしまった。

「・・キミのお店で働いていた子なんだよ・・」

「そ!・・・そ、そう・・なんですか・・・」

私はいきり立った肩をガクッと降ろした。

考えてみれば、そんな偶然があるわけがない。父親と離れて顔を見たこともない女なんて、世の中にいくらでもいるものだ。それこそ漫画のような運命があるわけがない。

でも待てよ・・・

もしこの客の娘が店にいるのなら、何故、私を指名したのか?

普通だったら、娘の顔見たさにその子を指名するのではないだろうか?

それとも、急に顔を見せて名乗る事など出来ないから、あえて私を指名し、娘の顔を横目で眺めていたのだろうか?

・・・いやそれはない。

このお客は、いままでそんな素振りは見せなかったし、第一、私を食事に誘う理由などない。

ますます訳がわからなくなってきた。それでもこの客に、自分の過去を見透かされたくなかったので、なんとか平常心を保ってみた。

「で、なんて名前なんですか?その子?」

「店での名前はモモだよ・・・」

「ええ!」

私は思わず大声を上げてしまった。まわりの席の客が、私の方を振り向く。

なんと、私が新人教育をして追い出した子が、この客の娘だったというのか?

それでは、私が行った行為も、全て本人から聞かされているのだろうか?

それで、私に謝らせて慰謝料でも請求しようというのか?

しかし、この客の態度は、自分の娘を虐められた仕返しに、私を呼び出したとは到底思えない。

なんなのだ?

私は頭の中がパニックになってきたので、必死に話を整理しようと頭をフル回転させた。

額からは冷や汗が垂れ、目が自然に泳いでしまうのがわかる。

いけない。こんなに自分を見失ってしまうとは、私らしくない。

私は精神力を高め、心を落ち着かせた。


「でも、もう辞めてしまってね・・今ではどこにいるのかわからないんだ」

「え?・・・そ、そうなんですか・・・」

「もともとあの店に娘がいるという噂を聞いて行ったんだが、一足早く辞めてしまったらしい。だから別の店を探そうと思うんだ」

「そうなんですか・・」

私の行いがバレてないのは少しホッとした。しかし、私は釈然としなかった。このお客は何故、この話を私に話したのか?それもこんな店の終わった夜中に。今迄この話をするタイミングはいくらでもあったハズなのに。私は、この客の話の先に、まだ何か隠された話があると読んだ。


「セイラちゃんは頭の賢い子だね」

「え?!どうしてですか」

「だって、私の表情のちょっとした変化で、考えている事を読んでしまうのだから」

「そ、そんなことないですよ。そんな能力ぜんぜんないですから・・いつもボーッとしてるだけです」


この男の洞察力はするどい。

確かに私は、心理学を勉強した経験があるし、いろいろな接客を経験することで養われ、ある程度の心理を読むことは出来るようになった。そして自分の心理を読まれないようにガードしていた。

だが、それをさらに読むというのは、この客の読心術もまた長けているのだろう。

やはり危険だ。どこか危険だ。

この客は、明らかに私の何かを探ろうとしている。いろいろな質問を浴びせ、ちょっとした反応から私の心を読もうとしている。これはうっかりと余計な事は言えない。

読心術とは、表情のちょっとした変化や、言葉の端々に無意識に出てしまうものだ。

だから私は、心を読み取られないように、顔色や一言一句に気を配らなければならない。

おもしろい。受けて立とう。

私はこの客と、心の読みあい合戦を挑むことにした。

いつもは酔った客の、他愛ない心理を読んでいただけなので、どこか物足りないと感じていた。

しかしこれは、レベルの高い心理戦になりそうなので、私は少しワクワクしてきたのだった。

さて、相手はどう出る?それともこちらから先手を打つか?

その前に作戦を考えなければ。

この客が、『離れ離れになった娘を探している』というのは本当かウソか?

まずここからして胡散臭くて納得いかない。

よし、ここから切り崩してやろう。


「あの、娘さんがいるっていうのは、本当はウソなんじゃないんですか?」

まずは直球勝負。これはかなり失礼な質問だ。仮にもし、客が本当に娘を探していたのなら、これを疑うというのは相手に不快感を与えるだろう。さて、どう返してくるか?

「ご名答」

客は即答で返してきた。

ほう、そうきたか。

いままでの伏線を、一気に取り除いてしまうとは。大胆な発言だが、これをどうつじつまを合わせてくるのかが見ものだ。

「えぇ~、ひどいです。私、娘さんが見つかればいいなって、本気で心配しちゃったのに」

「いやいや、ごめんごめん。でもウソでもつかないと、セイラちゃんが来てくれないと思ったからね」

これもウソだ。

私がここに来た理由は、客の娘の話を聞いたから来た訳ではない。娘の話はここに来てから初めて聞かされた事だ。私にワザとウソを言って、そのウソをどう切り返してくるか試しているのだ。

よし、ここはあえてこの誘いに乗って、ウソをホントと受け取ることにしよう。

「ここに来たのは娘さんの事を聞いたからじゃないです。何か電話の声が寂しそうだったから心配で来たんですよ」

これで相手のウソが意味のない本当に変わった。

客の顔が、少し強張るのがわかった。

「ふう・・まいったな。電話の声だけで私の心情を理解してしまうなんて」

「なんとなくそう思っただけです。さぁ話してください。私をここに呼んだ本当の理由を」

これでどう?もうあなたの逃げ場はないわ。

ここで呼んだ理由を言わなかったら、私はあなたに愛想をつかせて帰るというシナリオになる。

そうならない為に、あなたはどんな言い訳を聞かせてくれるのかしら?

「女とはどう生きるべきか?・・・」

「どういう意味ですか?」

「いや、そのままの意味さ。それをキミに聞きたいと思ってね」

お客が、私の顔を真剣な眼差しで見てくる。

どういう事だ?

このお客の言った事は、どうやら重要な事らしく思えるが、そんな事を聞いてどんなメリットがあるのだろうか?しかし、私もそれを真面目に返す必要などない。

「女とはどう生きるべきか・・それをどう探すかが女の生き方だと思います」

私は当たり障りのない返答をした。これでこの話をひとまず完結させることが出来た。

「では今度はこっちから質問です。あなたが私をここに呼んだ理由を教えて下さい」

私が質問に答えた以上、このお客が、私の質問に答えない訳にはいかないだろう。

今のところ先手を取ったのは私だ。さぁ、この客はどうでる?

「では単刀直入に言います。さっきのイタズラ電話はイタズラではないのですよ」

「・・・私が聞きたいのはここに呼んだ理由で、イタズラ電話のことではないわ」

その言葉を言い終えた私の脳裏に、ある考えが浮かんできた。

「!!」

私はハッとして客の顔を見上げる。

「さすがセイラちゃんは頭の賢い子だね」

「・・まさか・・電話をかけたのは・・」

「ご名答。電話をかけたのは、私です」

客の口元がニヤリと吊り上った。

ガタッ!

私は思わずイスから立ち上がった。

この客は何の脈絡もなく、自分があの電話の犯人だというのか?

こんな安直に正体をバラすこの犯人の、あまりにも無計画な行動に、私は少し戸惑いを感じた。

この客の心理が全く見えないからだ。

「・・・で、犯人さん。目的は?そしてあの電話の意味は?」

もう私の態度は、客に対するものではなく、自分に不快を与えた敵に対してのものだった。

「おやおや、キミらしくないな。こんな冗談を真に受けるなんて・・・」

どこまでが本音なのかしら?この期に及んでこれを冗談と返すなんて・・・

でもこれで決まりね、この客の話には何も計画性が見えない。さっきの電話もただのイタズラで、私の驚く反応を見て楽しんでいるだけの、あまりにも幼稚な行為なんだわ。

だとしたらこれ以上は、私の興味を惹くことはない。

「いいかげんにして!私はあなたの冗談に付き合っている暇はないのよ!」

私はテーブルをバンと叩いた。


「・・・・騒いだら殺す・・・」


確かにこの客は小声でそう言った。

なんなの?今度は開き直って脅し?

でもそれは無理ね。こんな静かな店で、お客もちらほらいる環境で、私を脅そうとしてもまわりが黙っていないわ。それにここは私の馴染みの店。

ほら。すでにマスターが、私を心配して目線をこちらに向けてきたわ。

それにあの客とも一緒に飲んだことあるし、あの客とも話したことがあるわ。だから全部私の味方。

ここで私が大声を出して、「助けて!」とでも叫べば、あなたはどうすることも出来ないわ。

結局この客は、ただ私の体をなんとかしたくて、こんなまわりくどい芝居をし続けただけなんだわ。

どんな方法か知らないけど、それで私のメインの携帯にイタズラ電話をかけてきたのね。

はぁ・・あっけない。というか、盛り上がりに欠けるゲームだったわね。

さてどうするか?

いいわ、もうこのゲームにも飽きたから、ここで周りに助けを求めて終わりにするわ。

この店の連中に、警察にでも突き出されればいいんだわ。

私に無駄な時間を費やさせた報いを受けるがいいわ。

私は大声をあげようとして、大きく息を吸い込んだ。


「助けてとでも言うつもりか?」

「!」

相変わらず感のよい客だ。

「そうよ!その通りよ!あなたみたいな変質者、捕まってしまえばいいのよ!」

「ふふ・・・自分が捕まっているのも知らずにか?」

「なんですって?!」

私は、その客の言っている意味が理解できなかった。

だが、ふと周りに目をやることでそれが分かりかけてきた。店の雰囲気が明らかに違う。周りの客の表情。そしてマスターの表情が見たことのない顔に変わる。そして客がパチンと指を鳴らすと、店にいた全員が立ち上がり私の周りを囲んだ。

まさか!信じられない!

この店の人達全員が、この客の仲間だったというの?そんなバカな!店の場所を指定したのはこの私だし、事前にそんなことを仕込んでおくなんて絶対ありえない!

それにマスターだって、私とは半年以上の知り合いなのに・・・

しかしマスターの顔は、いつもの営業スマイルではなく、鋭い視線でこちらを睨んでいた。

それは明らかに、私の味方ではない目をしていた。

「気がついたみたいだね・・・それに何故、この店の客や店員が、私の知り合いなのか、その訳を知りたそうだね」

全部見透かされている。私の背筋に恐怖がゾゾゾと走った。

「簡単なことだ・・キミの好みを調べ、その通りに店を作り、店の存在を知らせる。客数も少なく静かで落ち着いた店にして、お気に入りのカクテルを置けば、キミはこの店の常連になる。それを半年前から行えば良いだけの話だ」

「!!」

私は驚きのあまり声を失った。

「だから、キミがこの店を選んだのは偶然ではなく、私が仕組んだ必然だったんだよ」

「・・・・なぜ、わ、私の好きなカクテルを知っていたの?」

「ホワイト・エンジェル・・・白い天使とは、キミにピッタリのカクテルだから・・という理由ではダメかな?」


これは違う!この客の考えはもうスケールが違う!尋常な考えを超えている!

私を騙すために、こんな大掛かりな仕掛けを半年前からしていたですって?!

そして知らず知らずのうちに、その作戦にはまってしまったとでも言うの?!

まずい!とにかくこの場から離れないと、どうなるか想像もつかない!


私は立ち上がって出口に向かって走る。しかし、ドアには2人の男が行く手を阻む。

ボグッ!

一瞬、躊躇した私の後頭部に、激しい激痛が走った。

そして意識が遠のき、そこで私は夢を見ることになる。

それはあの夢の続きだった。

赤いパイプから落下し、ヒビ割れたアスファルトの先にいる、血の涙を流したウサギ。

私は、そのウサギの声をやっと聞き取ることができた。


「おまえを必ず不幸にしてやる!」

私にはそう聞こえた。

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