最終話21

   *

「ねぇ、これ何?」

 片手を挙げ、未だダイニングテーブルによじ登るのがやっとの少年が首を傾げる。

 午前中からの慌ただしさから一時的に解放され、子供の様子を見に戻ってきた男は言葉に詰まった。

「それは、ね……」

 一体どこにしまっておいたものか。すっかり忘れていたと言っても過言ではない物の存在に、彼は心中の動揺を気取られないためにか数度自身の胸元を手のひらでさすった。

「驚いたな、まだ残ってたんだ」

 不安げな少年に微笑んで、彼はそっとそれを受け取る。

 光を跳ね上げて輝くクロス。裏返せばそこには、加護を与えるものらへの言葉がすり減った字のままに記されている。

 願わくはこの子らに幸いがありますよう。

 本来これを持つべき者はもういないと言うのに、それは今もここに残る。

 子供に向かって屈(かが)み込む。光の中で子供はきょとんと父を見ていた。父親は苦い笑いをおさめながら、十字を吊した細い鎖を両手に分けて持つと、我が子の首にかけてやった。

「……お前にあげよう」

「どうして? これ、大事な物なんでしょ?」

 良いんだ、と首を振る。

「これはお前の名前をくれた人のものなんだ」

「……ランゼル、って人?」

 そうだよと答える声がやけに細い。彼の後ろから扉を蹴立てて入って来た女が、大きな声で殴るように言った。

「何だ一宇? 小さいランゼルにそんな験の悪いものをやる気か」

「憂乃さーん、それはいくらなんでも無いと思いますですハイ」

「だってそうじゃないか。まァそれを言ったら名前の時点でおしまいだな」

「自分でつけといてよく言うよねホントに」

 ぼやいて立ち上がった一宇が、子供の頭をぽんとはたく。

「手を洗っておいで。ご飯にしよう」

 柔らかい日差しがぬるい風を起こす。

「ランゼル」

 頷いて、少年がぱたぱたと音を立てて駆けていく。その後ろ姿を見送りながら、一宇はひっそりと微笑んだ。このまま、時が過ぎていけばいいのに。お前が、この先を生きていけばいいのだから。

 思う言葉を口にせず、彼は甘えるように腕に絡んできた憂乃に声を掛けた。

「憂乃さんも手、洗って」

「さん付けだとちゃかされているみたいだな」

 笑みを消して呟き、憂乃は未練なく腕を払うと息子を追った。相変わらずだなと苦笑して、彼は料理に取りかかる。

「そうだ父さん、ぼくさっきもう食べちゃったよご飯」

 戻ってきた少年が慌ただしく申告した。一宇は肩をすくめ、気分を害したかどうか心配する息子に笑いかける。

「知ってるよ、もう三時だもんな。だから、とっておきのデザートを用意してるんだ」

 何だろうと目を輝かせるランゼルに、どうせ林檎だと吐きながら憂乃が戻ってくる。

「それでも食べるんでしょ?」

 ランゼルに言われ、憂乃はふと一宇を見た。

「……まぁ、そうだな。目の前にあるものを食べないのも悪いだろう」

「素直じゃないんだから」

 日差しを浴びて十字架が輝く。

 残された者たちのただ生きる様を見て、

 ただ、そこに存在する。

   *

君はなぜ、この大地にとどまり続けるのか

その母はすでに、お前をあいしてなどいない

それでもなお、この地にとどまる

愚かだと、知りながら。

 

先史時代(文献抹消済)

(中略)

1876年 旧帝国滅亡

1982年 第七戦線

2006年 一月末、旧帝国軍、前線基地を反乱軍と断定。旧帝国軍、アルフォンス・ネオ=フィーリングズ前線基地所属大佐を軍法会議第七百六十三号案の被告とし、全軍にこれの捕獲を命ず。上層部と下層一部を除き、軍部は大半が離職を宣告、並びにアルフォンス・ネオ=フィーリングズの設立する新規機構に所属しその法に準じ、非政府組織の多くが新政府設立を容認。

    二月初頭、アルフォンス・ネオ=フィーリングズ、連合国家ティマス及び軍創立。

    同月、九条才貴除隊届提出。国境付近の空輸による運搬の護衛を始める。

    六月、旧帝国軍大総統暗殺(一説では自殺)

2007年 休戦協定(ティマス-旧帝国軍間)

2008年 佐倉一宇、ティマス軍正規入隊、翌年除隊。九条才貴正規除隊。

2011年 アルフォンス・ネオ=フィーリングズ暗殺未遂事件

2015年 三難の役

2019年 白盈同盟による暴動。浮田憂乃(退役軍人)、街の住民と共に自治を求めこれの侵入を拒否、筆頭として農民グループらに殺害される。

2020年 赤禍の乱。佐倉一宇(退役軍人)、消息不明。

2026年 佐倉=ランゼル=浮田、現ティマス軍入隊。

2027年 第三次巨頭会談。同年、開戦情報の流布。

2067年 核の冬

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