最終話20

 吐き捨てる。せせらわらうような表情を心がけた。これは一つの賭けだった。

(お願い)

 笑みを浮かべ、エリカは内心では真反対に泣き叫ぶ。

(お願いだから神さま! あたしにあの人をください!)

 せめて、この願いだけは守らせて。

「困ったな」

 九条は優しく笑みを浮かべる。紛れもなく、ただの年少者に対する慈しみの眼差しだ。

「生憎、子供は趣味じゃない」

 エリカは、遂にうつむいた。頑張ったけれど、本当にほしいものは何一つ手に入らない。かくなる上は、今から飛行機に飛びつくくらいだ。事後承諾になるが――それも良い。思いついたが、何となくやる気がくじけた。

「でも」

 え? 顔をあげる。

 エリカの半信半疑の表情に、九条は笑い、おいで、と自分のゴーグルを放った。

「その様子だと、母親の許可は貰ってるんだろ? 帰っても良いって言われてるんだったら、一時的に俺が預かる。そういう、恋愛感情無いけど、それでも来たいなら、働くって約束しろ」

「働くって……変なとこじゃないでしょうね」

 呆然として、それだけしか言い返せない。

(何て言ってる?)

 九条は笑う。明朗に。

「ばーか、荷運びとかの軽い奴だ。あと、最初はろくなもん食えないぞ、パイロットとしては高い俺だが駆け出しの護衛役なんでね」

 先輩ーやばいんじゃないですかーと、後ろから心配の声が挙がった。けれどエリカは憂鬱がさっと取りのけられていくのを感じる。

(今、ついていって、良いって。言った)

「うん……!」

 言って、エリカは涙をこぼしながら機体に飛びかかった。九条は一旦機を降りて、エリカの座るスペースを作った。

 

 空には大きな雲の巣ができあがっている。風に吹かれ、基地の建物に背を向けたまま一宇はそれらを飽きずに眺めていた。

 すでに見送りの者らは散り散りとなり、いつもの作業に取りかかっている。

 浮田エリカはいい女になる――あれだけ野心に満ちていれば、大佐の部屋から出てきた遺書のような紙にプレッシャーをかけられて弱っていた九条も再起できるだろう。

 惜しむらくは彼女が大佐の娘であること。九条は今や彼に後ろめたさばかりを背負い込んでいる。ランゼルは自身に何かがあったときのため、自分が居ない第二十五部隊で誰がどの配置に付くのかを指示した用紙を部屋に残していた。それに書かれた人選は、何度も書き換えられながら、最終的にはこのようになる。

 昔幽霊が出た部屋を使っていたヤツに全権を預ける。

 しばらくもめたが、九条の部屋がそこだということで全員の意見が落ち着いた。

 一宇もしばらくは少佐である叔父の補佐を頼まれている。基地を離れることは出来ない。

 死人は楽だなあと、一宇は宴の始末をする生き人を眺めながら茫洋と呟いた。退役届けを正式に受理されるのを待たずして去った九条才貴が羨ましい。しかしあのやり方では、いつか軍法会議にかけられそうだ。いざとなれば九条は自身の決定ではなくエリカが行きたいと言ったからそれに従ったと言い放つだろう。まったく、無責任な連中である。

(最後まで面倒を見きれないんだったら、あんまり人の人生に食い込むのも考え物だな)

「行ったな」

 一宇が外でほうけていると、後ろから声がかかった。

「大佐、あ、」

 思わず口元を押さえる一宇に、憂乃が苦い笑みを浮かべる。

「良い。気にするな。ヤツも私も言葉の選び方がときどき似ている」

「ですよね。でも声の高さがまるで違うし」

 考え事の中に大佐が混じっていた為とはいえ、困ったものだと苦笑して、一宇はゆるりと振り返る。紛れもなく浮田憂乃が、黒髪を高い位置で括りいつも通りの擦り切れたジャケットを羽織ってそこにつっ立っていた。

「俺よりも先に先輩が出奔しちゃったんで、俺はもう少しここに居残りですよ」

 後片付けのこともある。それを聞くと、憂乃はどこかほっとしたように表情をゆるめた。

「あっ、もしかして寂しいですか? もし俺が基地からいなくなったら」

「少なくとも嬉々として言う台詞じゃないな」

 否定はせず彼女は軽く腕を組んだ。空を見つめる目には変化はない。ただ射るような日差しが地面を焼くだけ。

「大丈夫ですよ、大尉」

 噛みしめるように一宇は告げる。

「俺、育児休暇は取りますから」

「貴様私に何を産ませる気だー!?」

「イヤだな冗談なのに」

「お前キャラ変わってないか」

 肩で息をする大尉に、一宇は笑んでこう答える。「元からです。それに」

「それに?」

「悩むのはもうやめにしたんです」

 どこか晴れ晴れとしたように、一宇は口を円滑に動かす。その気持ちには嘘はない。考え事はしてしまうけれど、前ほどの悲壮感はなくなった。

「悩んでもそうでなくても、来るときは来るから。悩むのは大抵、どっちに転んでも大差ないんですね」

 むしろ悩んで立ち止まっていることの方が危機を招くことがある。笑った一宇に、憂乃は不意をつかれて一瞬目を丸くした。そうしてすぐに、笑みを広げる。

「――困ったヤツだな、お前は」

 一宇は思い立ったように憂乃の後ろに回り込み、両手を回して基地を眺めた。突き飛ばされることもなく、自分が今どのようなポジションにいるのか一宇は少しの間悩んだ。コレはひどくあしらいにくい、いつ好かれるか嫌われるか見当が付かない。でも、だから面白い。

「何だ離せ」

 頬を赤らめ、憂乃はもがきながら体を回し、向かい合わせの位置で止まった。一宇は組んだ指が腰の位置に丁度乗り、そのまま隙間無く抱きしめてやろうかと思案しつつやりきれなさそうにため息をついた。

「抱かせてくださいよ、ちゃんと」

 憂乃は両手を胸の前に引き寄せ、いつでも突き飛ばせるように構えている。

「……前に基地を出るときにしたばっかりじゃないか」

「そんな前のことを持ち出されても」

 憂乃はあっけにとられたように一宇を見上げた。さっきまで見えなかったものが見えた小動物の顔をして、彼女は感心したように言う。「――男は分からんな」

「すいません男で。あぁ、怖がられなくなったくらいには男として認められてないんですかね」

「――バカ」

 言いながらかすめ取られた唇で、憂乃は反駁を試みた。けれど数度言葉は塞がれる。

「やっといて何が男じゃない、だ。それにこういうのには男も女もない」

「へぇ? じゃあ何て呼ぶんです?」

 突き動かす情動の名前。

 憂乃はふとためらいがちに、その言葉を口にした。

「――愛とかそういうこっぱずかしい言葉しか思いつかないから言わない!」

 言ってるじゃないかと一宇は笑いをかみ殺した。そうしてもう一度、目の前の唇と頬に口寄せる。

「お前、飴か何か食べてたな」

「飴要ります? エリカちゃんが餞別にくれたんです」

 ポケットから出した飴の包み紙を剥がし、中の半透明の糖分を口に含んで彼は笑う。

「要ります?」

「いらん!」

 耳まで赤くして、憂乃は背をむけた。腕の中から抜け出した女に、一宇は軽く声を立てて笑う。

「困ったなぁ……」

 まだまだ、先は長そうだ。

   *

「ですから、これは遺伝上の問題と感染が絡んで引き起こされているのです」

 暗闇の中にスライドの映し出す文字とグラフが鮮やかだ。一宇は少佐に連れられて、一番後ろの席でアルフォンス・ネオを見つめている。スライドの隣で指示を受けている内田情報局局員が、三角巾でつって動かしにくそうな右腕を使って次の映像を映し出す。

「つまり――あれかね、ある遺伝上の部位を持っている人間だけ、感染すると」

「そういうことになります」

 発言した壮年の男が大きな動きで腕を組んだ。壇上に立つアルフォンスは、大講義堂の中で声をあげる。

「そこで我々は予算の一部を使って、感染を防ぐ方法に出ます」

 会場がざわめく。これまで苦戦を強いられてきた相手を押さえ込めると断言する男を信用できるものだろうか。しかしここで否を唱えても、ここにいるのはティマス国家の軍事総統。きっと成し遂げてしまうことだろう。

「では次の議題に移ります」

 女性士官が恬淡と書類の頁をめくる。

 徐々に明らかになる旧帝国の遺産、科学力。それらを使い、徐々にではあるが進んでいくように見えるこの事態。

(いつかこの地上から人がいなくなることはあるんだろうか)

 疎まれてもしぶとく生にしがみつく人の子ら。これから先の未来は見えない。いつだって世界は不透明さに満ちている。

(今だって……これが打開策に見えるけど、多分それだけじゃない)

 会議を進めていく男が、怖い。しんと静まりかえった講堂の中で、一宇はようやく決意する。(あと少し、落ち着いたら。俺は)

 その決意が成就するのには、もうしばらくの時間を要した。

   *

 外はやけに時雨(しぐ)れている。窓に叩きつける木々の葉は雨の重みに耐えかねたものか全体を小刻みにふるわせていた。湿度の高い廊下の床に、軍靴の底が何度も滑る。脇にある引き戸の付近ではマットが縮れてうずくまり、雨と泥の侵入がところ構わず足跡を付けていた。提出した用紙は受理までにしばらく時間がかかる。一宇は、先程一室で起きたやりとりを思い出してため息をついた。

 事務局に退役届けを出した際、それを通りがかったアルフォンスに見つかった。

 そのとき、用紙を提出するために一時間ほど待たされることになっていた一宇はやることもなくぼんやりと窓辺に立っていた。列には給与の計算間違いを主張する男と軍人の喧嘩や、一般人による水道設備充実の嘆願書を出させてくれと言う声など楽しくもない話題が満ちている。すぐに処理してあげようと言うアルフォンスに招かれて、一宇は列に見切りをつけ、一室に連れて行かれた。

「辞めるのか?」

 初めて提出書類の内容を知らされたアルフォンスは、瞠目して肩を落とした。

「参ったな。折角の人材が」

「でも、もう働き口は見つけてあるので。一刻も早くそこで働きたいんです」

 近くの街で料理人の欠員が出て、そこに頼み込んで働くことになった。それを告げると、男はかすかな笑みを浮かべた。

「では近くに行ったときは寄らせてもらうよ」

 判は押されず、書類は彼の衣服のポケットにしまい込まれた。

 雨が、窓を叩いている。薄闇を裂いて雷光が走った。しかし音はやけに遠い。

「……あと、一年早ければな」

 アルフォンス・ネオは、悔いたように言葉を噛む。あれだけのことをしておきながら、その男は泣きそうな顔をして闇色の軍服の上に羽織った上着の前で指を組む。

 机の上は雑然として権力者らしくもなく、彼が座っている椅子も古い。傷だらけの軍部を率い、ティマス総統アルフォンス・ネオ=フィーリングズは今何を考えているのだろう。もしかしたら有益な人間をこれからの国家に邪魔だからと切り捨てた疑いもある。

 一宇は冷たく心の端でそう思う。

 これは信用ならない男だと。裏で何を考えているのか一番知れない男だと。

 けれど、今目の前で目を揺らす男は、ただ親しい者を失ったことを悲しむだけの一人の人間にしか見えなかった。

「あなたのせいでたくさん死んだかもしれない。でも、あなたはそれを望んではいなかった。それなら、いいじゃないですか、今ちゃんとつないでいこうとしてるなら、それで、良いじゃないですか」

 一宇の首に掛かる飾りに、目を細め、アルフォンスは笑う。笑いたくなくても、笑みが自然とこぼれ落ちた。

「……彼は、許してくれるだろうか」

 少年の首に掛かるのは、ランゼルが残していった十字架。それをアルフォンスは知っている。かつて少年に預けられるのを間近で目撃した一人だから。

 視線を受けて、一宇はクロスを握りしめる。そうして、やっとのように言葉を紡いだ。

「今からじゃないですか、全部」

 笑んで、一宇はただ答えた。それを言うより他になくて、一宇は、ただそれを言う。

「だから貴方が世界を変えてください。それだけのことをした、責任を取ってください」

「そうだな……それでも、思うのだよ」

 いっそそれは愚かなほどに。

「あと一年早ければ……こんなことにはならなかったのに」

 一宇はもはや責める言葉を持たない。

 ただ、黙って一礼した。

 彼が、軍人ではない、一般人となった瞬間だった。少なくとも、気持ちだけは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る