最終話19

5 弔いの花

「よー小さいの」

 そのときエリカは、両足を台所のテーブルにあげてペン先を噛みながら難問に苦闘していた。だから斜め後ろ、窓のサッシに両腕をかけて、青年がこちらを見ていることを理解するのに時間を要した。

「……ッ! 何して……っ」

 驚いて足を降ろそうとするが、裾の短いワンピースだとどうあがいても中が見える。真っ赤になって椅子から転げ落ちたエリカに、九条才貴は大丈夫かと暢気な声をかけた。

「な、何してるのよぅ……」

 打ち付けた腰をさすりながら、エリカはどうにか立ち上がる。憧れの人はその碧眼をわずかに細め、にっとした笑いを急におさめた。

「あー、俺さ、北に行くから。それだけ」

「は!?」

 九条が軍を辞めるということは風の噂に聞いている。けれどそれを自分のところに言いに来るとは、一体どういう風の吹き回しだろう。どぎまぎする薄い胸を押さえながら、エリカは窓辺に近づいた。

「大佐がさ――君のパパが、俺にウチの隊を任せてったんだけど。なんつーの、俺荷物の運搬とかやってみよっかと思って。それでケジメとしてやっぱ、言っておこうかと思ってさ。本当は君のママに会おうと思ってたんだけど居ないみたいだな」

 チッ。

 エリカは、自分に会いに来たわけではないのか、と未だ女とは見なされていないお子さまな自分の早合点を呪った。その頭をかっさらうようにして九条が撫でる。

「しっかり大きくなれよ、お前が生きるんだ」

 心臓が一瞬、脈を乱した。父親の死を言われたことの所為か、それとも九条に触れられた所為か。分からないが体中の血が一斉に頭へ上って、すぐに引いた。血の気が引くってこういう事なんだ。よろけかけたまま床を見ていると、九条が、それだけ、と口ずさんだ。

「じゃあ、元気でな、おかーさんによろしく」

 手を振って去っていく思い人。

 それを追ったのは、随分後のことだった。

 無論九条は人込みに紛れ、視界のどこにも見いだせなかった。

 

 閉め切られたカーテンの隙間に、ねじ込むように日が泳ぐ。ドアを開け、仕事から戻ったマリアンは目を瞬いた。

「エリカ?」

 いつもならば台所で椅子を傾けながら行儀悪く本を読んでいるのに、今日は何故か姿が無い。しかも外部からの視線を拒むように、きっちりとブラインドもカーテンも閉められている。部屋を見渡すまでもなく胸騒ぎがして、マリアンは娘の部屋をのぞき込んだ。

「エリカ、どうしたの」

 大きめの掛け布団が声に反応してごそごそと動いた。相手が母親だと気付いたためか、中身が鈍く顔を出す。

「ど、どうしよう」

「何があったの」

「どうしよう……!」

 頬に首筋に涙をこぼし、エリカがマリアンに向けて両手を広げた。近づいて抱きしめてやると、彼女は涙声で説明を始める。

「仕方ないわね」

 経緯を聞き、マリアンは唇を軽く噛んだ。母親の苦い表情にエリカはタオルに顔を埋(うず)めながら瞬く。

「な、何が?」

「逃したくないんでしょう?」

「ふええ?」

 まだ布団を頭から被っているエリカは、拍子抜けして顔を出す。

「ママ?」

「覚悟は出来てる? 彼と会わないで大人になるか、それとも側で大人になるか」

 そのどちらを選んでも、そのときに付随するであろう事柄まですべて自分で責任を持つのがいい女の条件だ。そう言って、マリアンは娘の頬に触れる。

「行きたいの?」

「……う、っく」

 しゃくりあげて、エリカは頷く。

「行きたいけど、あたしまだ成人してないし小さいしきっと振り向いて貰えないし将来他の人を好きになるかもしれない」

「それで?」

「それに……ママが一人になっちゃう」

 それか、とマリアンが肩を上下させた。

「私は寂しいわ、それは当たり前よ。でも子供が巣立つのは喜ばしいことなのよ本来なら。今くらいの年齢の貴方をソトに出すのはとんでもなく心配だし親の務めとしては成人までは面倒をみるのが必要。年長者としても当然だし」

 とめどもなく流れ落ちる涙は、エリカの幼さのゆえなのか。マリアンはそれでも厳しく、その言葉を紡いだ。

「本当にほしいの? ほしいもののために、生きていける?」

「あたし……他にないんだもの……」

 喉を詰まらせながら少女は応えた。

「スキだけど……ッ、他に、あんなに、触りたいとか側にいたいとか大事にしてほしいとかしたいとかしてあげたいとか思うの、今じゃあの人だけなんだもん……」

「……そう」

 どうしたものか。ここでなだめて、家にとどめておく方がいいのか、それとも。

 行かせてやるべきか。

 貴方が聞いたらぶち切れそう。マリアンはかすかに微笑んだ。あれだけ無茶をしておいて、自分のことを棚に上げて娘たちを守ろうとする、あの男の心境は今も昔も分からない。

「好きな人といられないのに、生きてる意味ってある?」

 父親のことを言っているのだと、マリアンは気付いた。

「いつか別れなきゃならないなら生きたまま今別れて忘れちゃった方がいいのかなぁ」

 その瞬間、後ろ頭を殴られたような思いがした。最後まで側に居たかった、こんなことになるくらいなら。せめて手を握ってあげたかった、せめてキスを。せめて触れていたかった――この砂漠のどこかに取り残されていると思うと、マリアンは叫び出したい思いに駆られる。

 ぐっと唇を噛んで押し黙った母親を、濡れた目で見上げながらエリカは待つ。

 その言葉を。

「行きなさい」

 行っても帰ってきて良いと、今揺らぎすぎているマリアンは請け合ってしまう。

「行って告白して玉砕してきなさい」

「何よそれ」

 頬をふくらませた少女に、マリアンはキスをする。こぼれた涙が、エリカの頬に当たって砕けた。

「ママ、何でとめないの?」

 ぼんやりと問われ、マリアンはベッドに顔を埋めてしまった。

「女は恋に生きるのよ。私はランゼルと居られなくてもいいからって無茶して貴方を産んだのよ、貴方にそういう無茶なところが多少あっても驚かないわ」

 薄闇が辺りを覆い尽くす。閉め切ったカーテンの所為ではあるのだが、それでも、日はそう高くない。

「……だったら、いっぱい、荷物とか、やること、ある。よね?」

「そうね、間に合うかしら」

 マリアンはため息をついて、慌ただしく動き始めた娘の背中を見守った。

 

「さよーならー」

「いってらっしゃーいい」

 軍の飛行場、九条は退職金代わりに一番ふるい戦闘機を貰った。廃棄寸前のお下がりは、かつて大佐が少佐を迎えに行ったときのもの。しかしそれを彼らが知ることはない。

「新しい門出にかんぱーいい」

「つーか羨ましー」

「一人だけ逃げやがってえええ」

「はっはっは! これからは北側国境付近で飛行中の船舶をたたき落として食糧奪おうとか考えないようになー! この俺が返り討ちにしてくれる」

 九条は上機嫌で操縦桿を握りしめ、それから、一宇ら元の仲間に別れを告げる。

 夕焼けはまるで天の火のように輝き、一宇は目を細めながら九条のほうに近づいた。

「せんぱーい、俺、先輩が先に出ちゃうからッて退任届け拒否されちゃったんですよアハハ」

「なんだよー一宇ー聞こえないぞー」

 エンジン音がひどすぎて、声がまともに通らない。

「あんちくしょう! どこへでも勝手に行って幸せになっておしまい!」

 微笑んだまま一宇が言うと、九条は機嫌のいいままで手を振り返した。

 

「でさ、あの九条が残してった彼女たち……どうなるんだろうな」

 ぬるい笑みを浮かべたまま、軍人たちは囁きあった。「彼女」の複数形が今この基地に居らず、居たとしても会議中で出てこられないことに恐怖を抱く。けれど九条は慣れたものだ、さすが多くの女とつきあった男は、捨てるときもあっさりとしている。

「ヘタすりゃただのダッチワイ……」

「あれ、何だありゃあ」

 ふと誰かが、鉄条網の脇のドアを抜けて駆けてくる影を見つけて言う。

「オイオイ……警備係はどうしたんだよー」

 

 一宇は九条を見て、その影を見て、九条を見て、呟いた。

「先輩、あれエリカちゃんじゃないですか?」

「はぁーん? 何か言ったか一宇」

「エリカちゃん」

 言った途端、人垣が崩れた。

「九条ッ!」

「うわ呼び捨て」

 一宇が呟いて、首を出したエリカのために道をあける。

「あっれー? 来てくれたんだ? お母さんによろしく言っといてくれた?」

 気楽に言う九条に、エリカが切らせた息を整えて近づく。

「……なんか俺、イヤな予感がしてきたな」

「だな」

 九条の見送りに出ていた者らが、ぼそぼそと呟いた。何故ならエリカの背中には、その小さな背とは対照的に、横幅をはみ出して巨大なリュックが張り付いている。よくあれで転ばないなと九条は感心しているが、荷物は基地に届けにきたものか、さてまたは父親の遺品を整理して持ち帰るのだろうと言うことしか頭にはない。

「大変だなー大荷物で。後で一宇とかに手伝って貰って帰りなよ」

「うっわ残酷」

 一宇も誰かの声に同意した。エリカも、頭を不意に殴られたように衝撃を受けて後ろにふらつく。しかし、ここでひいてはなるものか。エリカはぐっと顎を引き、目一杯の声で叫んだ。

「……連れてって!」

「は?」

 九条はうさんくさそうに片眉をひそめ、右耳に手を当てて聞き返した。

「ごめん、よく聞こえない!」

 返事も態度も芳しくない。エリカは恥ずかしさで真っ赤になりながら、もはや自棄だと怒鳴り返す。

「好きなの! 連れてってよ!!」

「何が?」

 わざとだ、と誰かが呟いて、エリカは涙目で踏み出した。こんなふうに踏みにじられて、恋も何もあったものではない。悔しくて、おとなたちの前でさらし者になっている自分が惨めで惨めで仕方なかった。つきあえないと言うはっきりした断りの言葉を貰ったならまだ許せる、マシだ、でも取り合っても貰えない小娘であることが、情けなかった。

「あたしが、子供だから!? だからちゃんと、聞いてくれないの!?」

 九条が黙ってこちらを見ている。下をむきかけた頭をきちんと向けて、エリカは彼を真っ向から見据えた。

「あたしは、本当に、遊びじゃなく好きだよ」

 もはや周囲の声も無い。ギャラリーは固唾を飲んで九条とエリカの動向を見守る。

 それらをざっと見渡して九条才貴はため息をついた。それからどこか哀れむように浮田エリカに視線を落とす。

「お前が言う気持ちって、憧れとか父親が居ない所為とかであって、あんまり、俺自身見てないんじゃないか?」

 突きさすような言葉だった。真顔で言われ、エリカは口を一文字に引き結ぶ。

(このひと、何にも分かってない)

 何年、先に生まれて、長く生きていようと、この男は何も分かっていない。

 悔しかった。

「な、軟派でバカでアホで間抜けで空飛ぶ以外殆ど使えないッて、知ってるもん」

 エリカは両手で自分の服の裾を掴み、大声で叫んだ。間違ってはいないが、かなりひどい人物評価だ。

「それで何で良いんですかね……」

 ぼやいたギャラリーに地団駄を踏みかけて一度でやめ、エリカはキッと九条を睨む。

「でも、好きなんだもん! 今離れたらもう二度と会えないの、イヤだもの」

「だから、それがただのあこが」

「違う!」

 ため息をつかれ、エリカは不意に言葉を切る。まったく相手にされていない。居ても立っても居られないから戦略も何もなく飛びついた――自分の姿が滑稽に思える。

「そんなに言うんだったら、連れて行ってみなさいよ」

 だから、最後の賭に出た。

「本気じゃないんだったら、勝手に、空でもなんでも飛んで帰る。どうせ貴方の前からいなくなる。本気だったら最後まで食いつく」

 九条がかすかに興味を示す。その目が、本当に興味のないものに対しては決して輝かないことをエリカは知っている。

 父が連れていた空の英雄。エリカがもっと小さい頃に、初めて見たときから、焼き付いて離れない。勿論何度も幻滅はしたが、それでも、何年もこれだけは変わらない。自分が誘惑したいのは、今も昔もこの人だ。

(だから、お願い)

「怖いんじゃない? あたしが、貴方を誘惑して落とすかも知れないこと」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る