第10話5

「姉さん!」

「な、なんだい」

 気圧された姉に、苦笑して佐倉は問う。

「一宇の使ってた資料、残ってるかな? あれば貸してほしい」

「あんたが使ってたお下がりならあるけど。二階に」

 願ったりかなったりだ。

「実際に、戦闘に、出なくても、いいんだ」

 力に、なれる。

 

 それはたいした結論ではなくても、佐倉には光明に見えた。甥に受け継がれた古い本を漁り、航空関係の書などを引きずり出して、読み返す。もっと、基礎知識とともに。

 はばたくために。

   *

「浮田大佐、お電話です」

「電話ぁ?」

 無線と衛星回線をのっとって使用中の旧第八部隊がそのように告げたのは、ある晴れた日の午後のことだった。誰か、軍用回線にまであがってこられる知り合いなどいただろうか。向こうは名前を名乗らないが、高位のレベルのコードキーを使っているという。

「外部回線なのですが」

 なにぶん、情報局員が皆各人の作業で忙しいので、危険性が皆無と見なした時点で回線チェックをやめてしまうのだ。そういう態度が今回の件を引き起こしたのではないか、と、浮田=ランゼルのみならず数百名の元前線基地在軍の軍人たちは思う。

 が。ランゼルは頭をかき、被った布を翻しながらテントの中に踏み込んだ。

「……情報局を疑っても、仕方がないしな」

 どうしようもないのだ。情報は殆ど彼らにおさえられている。そこで改竄が行なわれていても、こちらからは手も足も出せない。

「出よう」

 すでに片手を差し出しているランゼルに、苦笑を返して軍人が交換機を操作する。この大佐、今の格好からすると、軍人と言うより商人である。笑われ、すでに部下からさんざんな評を受けているランゼルは、自覚があるのでにやりと口の端をあげてみせた。そうすると盗賊じみてきて、「格好いい」と女性軍人には人気である。なぜだ。他の男性軍人には、それが不思議で仕方がない。このまま戦闘に入ればレジスタンスと間違う危険があるし、できればやめてほしいのだが。

「待たせた。こちら旧前線基地第二十五部隊大佐、浮田だ」

 ともあれ電話に出たランゼルは、交換機の向こうの沈黙に眉をひそめた。かさかさかさ、とこそばゆい音がして、かすかに水が流れているのが聞いてとれる。えーと、と受話器に息がかかり、一段と大きく、がさり、と聞こえた。『エス、ファタル、ナノン……』

「……アルフォンスか?」

 ぺら、と紙をめくるような音が断続的に響き、空間に反響して幽霊のようにたゆとう。

『あぁ、君なら分かってくれると思っていた』

 手帳を繰っていた手を止めて、ポケットにつっこみ、電話の向こうで彼は言う。

『うっかりしていてね。新しいコードをなくしてしまった。三年以上昔のなら手帳に残してあるんだが、まさかまだ使えるとは思わなかったよ』

「生きてたのか、今どこにいる」

 安堵の声が、すぐに軍人のものに切り替わる。安否を気遣う心が一瞬で見えなくなるのを耳にし、アルフォンス・ネオは苦笑した。

『安心してくれ。私は今地下にいる』

「地下壕だな」

 すぐに、近くにいた軍人に目配せして、指示を書き取って与える。

『私は親衛隊といるから人員配置は不要だ。このまま東南東へ向かう、生き残りの頭数にいれなくていいぞ、戻らなくても構うな』

「何だと? なんでまたそんな……まぁいいか、側には居るのか?」

『すぐうしろに一名。他は使えるものを点検したりするため、今は一時的に散っている』

「地下壕の回線なんてよく使えたな。何年か前に絨毯爆撃とかでつぶされてたろう」

『つないでもらった。さすが親衛隊だな、私は歩くことしかしてないよ』

 つまり、アルフォンス大佐自身は、まだ何の役にも立っていないらしい。

「今からか」

 苦笑したランゼルに、ふっきるようにアルフォンスは告げる。

『私は、人を助けたいという誓いを破る気など毛頭ない。覚えておけ』

「今からだな……行ってこい」

 諦めたような優しい声が出る。それに一瞬気を取られたのか、アルフォンスが黙った。そしてすぐに、いくつかの言葉をひねり出す。

『……うん、まぁ、そういうことだから。じゃ! お前も死ぬなよ!』

 言い残された言葉が、胸の底にわだかまる。そうして戻ってこなかった者たちを、いやというほど目の当たりにしてきた。

「帰ってこいよ、アーリー」

 もう切れてしまった回線に向けて、彼は呟き、間をおいてからテントを出た。

   *

「短い一瞬だけ安心させること、簡単にその場だけなぐさめること。そういうのは、嘘になると思うんです」

 必要だけど、と継ぎ足して、彼が言ったのを覚えている。そんなことを言うくらいなら、今だってちゃんと側にいて安心させてくれればいいのに。彼はふいに現れては、境界線ぎりぎりのところでいろいろな波紋を投げかけてきた。まるで野生動物に対するように、そっと訪れては自分でも気づいていないような無闇な愛情を投げてきた。食事に誘われたり、たわいもない話をした。出かけるときには戻ってきてくれと微笑まれた。そういう気まぐれな日常がいつの間にか当たり前になりつつあった。

 憂乃は砂漠に座り込み、太陽に斜めに背を向けて息をつく。ごちゃごちゃとうるさいこともあったが、あれでなかなか、手なずけた犬のようなところがあった。いや、手なずけられていたのは憂乃のほうかも知れない。感情を指し示す言葉のほとんどが過去形になっていることに気づき、自然と口の端がゆがんだ。生き延びて帰還した第七部隊のほうが生存者が多かったことを思い、戦争に長く関わらない人間がわずかの隙をついて命をかっさらわれる事実に鳩尾の辺りが深くいたんだ。

「いつもは忘れていられても、根本では、逃げられない、か」

 そういうことはほとんど考えない。動いていることで精一杯の生き方ばかりしてきていたから。スケジュールはいつも一杯で、空白の時間が不安でならなかった。その隙に世界に取り残されてしまいそうで。気づかぬうちに何もかもが過ぎ去ってしまいそうで。密度を上げなければ、たぶん空白に立ちすくんでしまう。無駄に過ごしたという恐怖――時間は限られているというのに。憂乃は身震いし、そっと自分の両耳を塞ぐ。もういない人間の、囁き声が風に紛れて届くから、どうしても感傷から逃げられない。

「ごまかしても、不安は、なかなか消えない」

 呟いて、砂の中に埋もれつつある足をあげる。それで砂の山が欠けていき、遠くまで流れていくのを眺める。

 後方ではキャラバンのような風体の軍人たちが野営の準備にかかっている。基地自体は失われたが、彼らはできるだけ前線に戻ってきている。それは感傷からではなく、後退したぶんの境を奪い返すためでもあった。

「よぉ、しけた面してんなぁ」

 砂を踏んで現れた男が、いい加減な仕草で隣にどさりと腰を下ろした。身体に軽く巻き付けた灰色の布と無精髭が、なんだか彼を怪しげな商人にしたてあげていた。軍人のくせに、と思いはしたが、そういえば浮田の家族は商売で成り上がった一代か二代の、歴史の浅い商売人である。事が起これば軽いフットワークで逃げるし、どこへいってもうまく生き抜くという性(さが)は遺伝子レベルに組み込まれているのかもしれない。それに、軍、といっても憂乃たちは巨大な自警団でしかないことも事実である。人々が身を守るために、帝国崩壊後も維持してきた防衛機構だ。そういえば、軍は近年特に維持費をほとんど得ることができず、財政面でかなり危険な状態だった。工面してきた大将がたも姿が見えず、もはや解体するしかないようにも思われる。息が詰まり、憂乃は暮れゆく空の端を見やる。困窮してもなお、空を、この空の熱が紺碧に飲まれ行くさまを、うつくしいとおもう感情は消えやしない。誰が死んでも、まだ動く。心が。

「噂なんだが」

 ぼんやりと、隣に座ったまま動かなかった男が呟く。そして急にごそごそと尻の辺りのポケットに手をやった。男がタバコを取り出すのを睨みながら、憂乃は黙って続きを待つ。

「なぁ、火ィ持ってないか?」

「ない」

 本当は任務用の火器を装備しているが、無駄遣いしたくないので出さない。それに、

「また始めたのか」

「あん?」

「タバコ」

 うん、とあっさりと頷くと、男は風でぱさついた黒髪を片手で押さえた。

「あー、うぜえな、切るかなそろそろ」

 ある程度のばして置いたほうが、野戦で寒くなくて良いのだが。

「ランゼル、ごまかすなよ、」

「あー、そうそう、噂なんだが」

 憂乃にそれ以上喋らせる気がないらしく、彼は続けざまに情報を投げやった。

「レジスタンス要員に、最近急に生きのいいのが入ったらしいンだ」

 タバコを口にくわえたまま、ぱたぱたと服をさぐっていたが、やがて諦め、タバコを元の場所に戻した。精彩を欠いた横顔に、火ぐらい貸してやれば良かったと思う。その前に、憂乃の頭は急激な使役で一瞬止まっていた。

「なん、だって?」

 まわりくどいいい方を続けようとしたのであろう口をひねり、憂乃は男の肩を揺さぶる。

「それは、どこの、レジスタンスだ!」

「ひひゃ、ひひゃいばひゃ!」

「痛い、だぁ? そんな腑抜けたこと言っとらんと早く――」

「は、はにゃせ!」

 かなり間抜けな叫びをあげて、男は憂乃を突き飛ばした。自由になったその口で、どうにか、最後まで言うことが出来る。

「なんでも、レジスタンスのローズで、若い男が暴れてるらしい。こっちの生存者によれば、そいつに見覚えがあるって話だ」

 口を押さえた彼は、涙目である。相当痛かったらしい。憂乃から距離をとりつつ、心配そうに問いかける。

「大丈夫か」

 突き飛ばされた弾みで砂の中に転んだ憂乃は、天をあおいだまま動かない。

「憂乃、聞いてるのかそうでないかは知らんが、ローズではどうも感染者ばかりが集まってるらしくて、その若いのもかなりキてるらしい、こっちの被害も相当だそうだ」

 男は言って、一度憂乃の顔をのぞき込み、軽く頭を撫でて去る。どうするかはお前が決めればいいことだ、と小さく残して。そうして、付近の人影が闇に飲まれていく中で、星が壮大にちりばめられてゆくさまを見る。肌寒いのに立つ気になれず、憂乃は仰向けに寝ころんだまま白い息を吐き出した。

「は、はは……っ」

 良かったのか悪かったのか、憂乃には分からない。ただ、笑いに似たものがこみ上げてたまらない。

「生きて、たのか? 一宇」

 ささやいただけで、言葉が鋭く胸を突く。針のような痛む空気を吸い込んで、憂乃は手足をちいさく丸めた。嗚咽は決して、もらさなかった。

   *

 ばらばらと羽が音を立てて、円を描いて砂を散らす。

「中佐ー!!」

 ケイン中等兵が叫びながらヘリに向かってつっこんでいったが、風圧に負けて砂の中に突っ伏した。

「うぅ~」

 うめいている。踏みかけた足をあげて、大佐は一歩先へ足を落とした。

「よぉ」

 エスタフ・リーノ中佐の帰還に、軍人たちが息をのむ。文字通り大佐と肩を並べ、長身の彼女が敬礼した。肩口より上で切りそろえられた髪が、ヘリの風に乱されている。

「あァ、いいいい」

 ひらひらとやる気なく右手を振って正規の礼を払いのけ、大佐は口の端をつり上げた。

「帰還ご苦労」

 これで華やかになるなァ、とうっとりする大佐に、第七部隊の女性隊員のほとんどを連れて出向していた中佐は取り合わず、簡単に冷たく言い放った。

「遅くなって申し訳有りません。我々も仕事で忙しかったもので」

「うん、それは分かってる。そっちもかなり手こずってたらしいな」

「地雷原の規模が倍加しています」

 だからよく生きて帰ってきたなと言っているのだ、とランゼルは言うが、それはまだ一言も口にしていない部分である。生真面目な中佐の態度に、自然と周囲が緊張をはらんだ。九条はこれまで大佐の不真面目さが空気を和らげていたことに気がつく。あれはあれでイライラさせられるものなのだが、いつもかつも真面目でいられても困る側面があるのもまた確かである。

「まァ、連れてった連中を無事戻してくれて助かった。礼を言う」

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