はじめに 2

よしよし落ち着けよ俺。慌ててお門違いな行動に出たりなんかできる状況じゃないんだ。

冷静によーく思い出してみろ。

家を出るときには、…ちゃんと俺の中にあったはずだ。

だって妻の恵理子が見送ってくれた。


「ほら、また弁当わすれてるじゃないの。もう作らないわよ。」


とかなんとか言いながら。



いつもの時間の電車に間に合うか間に合わないかの時間で焦っていたことは覚えている。

そんな俺はリビングに置きっぱなしの弁当のことなど忘れていて、急ぎ靴を履き玄関の戸を開いたのだった。

そのときかけられたのがこの言葉だ。

後ろを見ると腰に手を当てて仁王立ちの恵理子。

ようやく重みの少ない片手に気が付き、あっと声を漏らす。

それを少し細めた目で見降ろして、あきれた様子でため息を一つ。

ごめんと謝る俺の声とともに弁当が差し出される。


「もう、本当にしょうがないんだから。」


ちょっと後ろめたくて俺は目の前に出された今日の昼飯をおずおずと遠慮がちに受け取る。

後ろで娘が笑っていたっけ?これで何度目かわからないやり取りだったから、妻とよく似たあきれた笑いだった。

三日に一度は同じこと言われるからなあ、自らのそそっかしさのせいで妻には随分長いこと頭が上がらない。


俺はもう二・三度頭を下げて、迫る時間に背中を蹴飛ばされて玄関の戸をくぐり抜けたのだった…。

くすくすという笑い声が戸を閉める直前まで聞こえていたんだっけな。

そんな「美しい」と評すほどでもないが、非常に有り難くかけがえのない夫婦愛のおかげで今日は間一髪食いっぱぐれなくて済むはずだった。




…だったのだけど。

俺の手元の弁当箱は全くの重みをなくして、半透明な姿でそこにあるのだ。

手を離せば床に落ちるのに、持ち上げてみても不思議と何も感じない。

中身はどうなっているのだろう、食べられたりするのだろうか?


「少し…口に入れるくらいなら…いい、か?………いやいやいや。」


ふとよぎった疑問に駆られてちょっと確認してみようかとも考えたが、やめておくことにする。

ヨモツヘグイ?だったか、古事記にそんな言葉もあるわけだし。

何よりも、この弁当はとっとと命を見つけて昼飯に食べるほうが有意義だ。

恵理子もそのために作ってくれたのだし、決して俺を黄泉に縛り付けるためではないのだから。




それはさておき。

ここまで来ればどこにあるかなど問う考え自体が時間の無駄だ。

俺は無言で踵を返す。

もはや障害物など透けて通ればよいのだけど、普段の癖で机や人をよけて足早に通り過ぎる。

ここにいることは無意味だと判断した。来た道を戻ろう、そう思ったのだ。



そんな時、事務の仕事をするこの部屋の中に早すぎる時間からうるさく歌いだした電話機。

こんな早朝にどこからだろう?

電話を取った山田が青い顔してるな。どぎまぎと相槌を打ち、何やら近くの病院の名を呟きながらメモしている。

この調子では交通事故か何かの連絡だったのだろう。大型トラックがどうのとか言っている。

…もしかしなくても俺の話かな。

その予感は的中と言っていいだろう。何度も俺の苗字を繰り返している。



ふむふむ、そういえば近くの交差点で大型トラックとすれ違ったぞ。

確か、交差点を渡るときにスマホをいじってたんだったか。

女児用のバッグなんかを愛海にと思って選んでいたんだ。

で、左折してくるでかい車に気が付いたころには目の前にその頭があって…。

轢かれるっ!!と血の気が引いたものだが、目を開けてみればトラックの後ろ姿が見えたからぎりぎりを避けていったものだと思っていた。

あの時実は轢かれてたのかもしれないな。



なるほど、それを聞いたらうかうかしていられない。

傷ついた体は医者に任せるとして、俺は急がなくてはいけないんだから。








やっぱりそうだったんだ


家までは、あって


会社に着いた今は、ない


その時点でなんとなく分かってはいた


つまり、単純な話だったわけだ





俺はどこかに命を落としたらしい。 

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