第十二章

第38話 脅迫

「いらっしゃいませお客様! 古今東西お酒の事ならBAR PLANETARIUMへって、ジョーじゃねえか」

 BAR PLANETARIUMの大きな扉を開くと、うるさい音色が鼓膜を刺激する。営業騒音に配慮して完全に防音されたこの店は、目の前の道を通っても、営業が終わっているかの様に静かだ。一転、扉を開けばけたたましくうなる店内BGMには、いまだに慣れない。

 俺は大袈裟に扉を開けて、引いて来たキャリーケースを足元に転がした。

「お前なんだよこれ、夜逃げか?」

 向井原はキャリーケースへ視線を落として言う。

 馬鹿にした様な向井原の声を無視して、キャリーケースを置いたまま店内に入る。扉がゆっくりと閉まる。

 向井原は、無愛想に横を抜ける俺を目で追いながら、キャリーケースに手をかけた。

 俺は一直線にカウンターを目指し、早々に席に座る。

 フロアでは、重低音に合わせてリズムを取る陽気な連中がアルコールにおぼれている。

「いらっしゃいませお客様、古今東西手に入らなそうなもんならBAR PLANETARIUMへ。昨日の今日で珍しいね? それにあんなに怪しそうな大荷物で来るんじゃないよ。それとも何? 戦争でもする気?」

 タンカレーのNO.10を手に持った庭口さんは、相変わらずのいかつい容姿で、薄笑いを浮かべる。

 時刻は午前零時を回っている。それでも、この街は眠らない。

「庭口さん、この店って、古今東西手に入らなそうなもんならあるんだよな?」

 互いに銃口を額に押し付け合う関係の俺達は、カウンターを挟んで目を合わせる。

 庭口さんは、薄笑いのまま瓶をあおって、答える。

「開けたら地球の反対側イビリアにつながる扉とか、突いたら絶対に相手に刺さるやりとか、不老不死の丸薬とかじゃなけりゃあな」

「庭口さん、真面目な相談だ」

 BAR PLANETARIUMであった事を考える。

 あの事件は、密告への警告だ。

 秘密は抱いていろ。BAR PLANETARIUMは警告したのだ。他の利用者達に。そういう、利用者達に。

 殺された奴等は、BAR PLANETARIUMに取って代わろうとした。警察局を立ち入りさせて、その座をげ替えようとした。

 あくどい人間達は、隙を逃さない。

 それは庭口さん達も同じで、そういう窮地を利用して、より強固な玉座を作り上げた。

 恐怖による抑止力は、説得力を欠く事で反発を生む。

 行使者にのみ有利な口実での暴力は、憎しみを生むのだ。

 だが、あの場合は、周囲に対して強力な理由づけがある。

 裏切り者が断罪されるのは、世のことわりなのだから。

 あくどい人間は、隙を逃さない。

 それならば、ある筈だ。

 この国の大きな隙をついて、それは存在する筈だ。

 庭口さんは何が在るかを俺には言わない。ただ、在るかと聞けば、差し出してくれる。

 互いに劇薬を舌に乗せた俺達は、言葉を交わす。

「で、何が欲しいんだ?」

 相変わらずの薄笑いを浮かべる庭口さんの横で、内線が光を放つ。

「はあ? 何で裏からかけてくんだよ」

 庭口さんは悪態をつきながら受話器を取って、一つ二つあいづちを打つと、受話器を置いた。

「おい、ジョー」

 バックヤードで中身を確認した向井原からだろう。

「何が欲しいんだお前」

 庭口さんは、先程までの笑みをかなぐり捨てて、げんな顔で俺をにらむ。

「恐らくお前がこの店で稼いだであろう二千九百万円を使って、何を買おうってんだ?」

 せんさくはしない。だから、理由は聞かれない。

 だから、俺はそれが欲しい。

「**」

 七年前に、この国で沢山生まれた筈なんだ。

 それを小さな声で告げる。フロアの爆音に押しつぶされてしまいそうな声で、ひっそりと。

 いつもならば、ここで俺の言葉を聞いた庭口さんは、酒瓶を呷りながらバックヤードに電話をかける筈だ。

 いつも通りの、アルコールの回った赤い顔で。

 その日は俺が見て来た庭口さんに重ならず、殺気立った表情を一瞬見せてから、乱暴に受話器を取ると、何かを告げてたたき付ける様に内線を切った。

「おい、〝驤一〟」

 酒瓶を持った手で、俺を指差す庭口さんの目は、今にも俺ののどもとき切りそうな程鋭い。

「おかしいな。俺はこの店では、ジョーとしか名乗っていない筈なんだけれど」

 想定外のけんせいに、心臓が跳ねる。けれど、それを悟られない様に平静を装って言葉を返す。

 ギリギリの境界線で、涼しい顔をするのは得意技だ。

「金を持って今日は帰れ、〝酒匂驤一〟」

 俺の事を、何から何まで知っているという、庭口さんの警告だ。

 もしかしたら手に入りづらいかもしれないとは想定した。だが、はなからここまで強力な警告を受けるとは思わなかった。

 せめてもう少し、段階を踏むと思った。

「それは出来ないよ。欲しいものをまだもらってない」

「そんなもんはうちには置いてねえ。帰れ」

「それ、在るって言ってる様なもんだぜ、庭口さん」

 懐刀を忍ばせる会話は、常に喉元に狙いを定める。

 もちろん庭口さんは、それが在るとした上で、俺に帰れと言っている。

「……どうして在ると思った?」

「やっぱり在るんじゃん」

 目を細めて俺を睨む庭口さんに、口角をり上げて言ってやる。

 フロアの爆音が、先程よりも大きく感じられる。

「質問に答えろ」

「悪者って隙を逃さないだろ? 庭口さんが以前BAR PLANETARIUMをチクったマフィアをぶっ殺した時みたいに、悪者はどんな状況でだって、あくどい事を考える」

「さあ、何の事だか」

 秘密を抱いていろ。

 その誓いを優に破って俺を脅した張本人は、その誓い通りにしらを切る。

「あくどい奴って、隙を見逃さねえからさ。きっと七年間も、そういう類の奴等には、チャンスだった筈なんだよ」

 俺は、あくまで仮定でしかない空論を、じようぜつまくし立てる。

「俺が悪者だったら、そこに目を付けるね。混乱に乗じれば、〝ソレ〟を作るのは思っているよりも容易な筈だ。だったら、そういう奴等とパイプを持ってるここで、それが手に入らない訳がない」

 追い詰める様に羅列する言葉に、庭口さんは舌打ちを返した。

 ほとんど、在るという証明だ。

 ただ、気がかりなのは、この態度だ。

「仮に在るとしよう。お前の欲しい〝ソレ〟が在るとしよう。だがな、足らねえよ。三千万っぽっちじゃ足りやしねえ。五倍は用意して来い」

 金額が足りないという程度で、こんな目に遭う筈がない。

 だって、BAR PLANETARIUMは詮索しないのだ。ただ、渡すか、渡さないかだけだ。イエスかノーすらもなく、ただそれだけ。

 今日は、俺と庭口さんの間に、言葉が多すぎる。

「金額の問題じゃないでしょ?」

 金額は懸念事項の一つではあった。もしもスムーズに買い物が進んだ際、どうしようもない問題だからだ。

 しかし、今は違う。それ以前の問題だ。

 どうして、庭口さんは、存在する商品を出し渋っているのか。それが、分からない。

 フロアの音が更に大きくなった気がする。

「庭口さん、何か隠してるでしょ? 秘密は抱いていろ。俺は詮索したくはないけれど、そっちが踏み込むなら、こっちだって─」

 言葉の途中で、確かに聞いた。

 爆音のフロアに紛れて、金属のこすれる音。

 俺が、よく耳にする音。

 銃を構える音。

 同時に、後頭部に、冷たい感触。

「酒匂驤一、振り向かなくていい」

 背後から聞こえる声は、向井原のものだ。BAR PLANETARIUMのウエイター、向井原は、俺に今、銃口を突き付けている。

 多分、店内には、〝俺達〟を残して誰も居ない。

「そのまま庭口さんを見ていろ」

 聞いた事のない程冷徹な向井原の声に従って、庭口さんを見る。

 今日は、ここが死線だ。

「どうして、〝ソレ〟をそんなに売りたくないの?」

 核心に迫る俺の声は、平静そのままだ。

 よかった。どうなっているのかと思った。

 トーコと約束をして、俺はどう変わったのか。

 もう、死のうとする事をあきらめて生きようとする事で、俺は死線をまたぐ事が出来なくなったかもしれないと懸念した。

 何て事はない。あの、死線だらけの箱庭での経験は、もう俺の体の底まで染み込んでしまっている。

 俺は、死線上で命を左右されるのに、すっかり慣れてしまっている。

 死にたくないとは明確に思っているけれど、この危うい境界線上において、心はじんも揺れない。

 だから、強気のまま庭口さんを見据える。

「どうせ死ぬから教えてやる」

 庭口さんは、タンカレーのボトルを置くと、俺の顔をつかんで言う。

「一つ、〝ソレ〟の数が少ねえ事。だから容易には売れない。だから、金額が高い。単純に、お前の所持金不足。二つ、それらは〝私等〟の虎の子でもある。まあ、到底お前等には分からねえだろうがな。三つ、これが重要だ」

 庭口さんの手に、力が入る。

「これを欲しがる奴に、〝ロクな奴が居ねえ事〟。それこそ、この場でぶっ殺して構わない奴等しか居ないって事だ」

 完全に、想定外だ。

 BAR PLANETARIUMに、何か計り知れない内情があるとは思わなかった。

 多少何かしらあるにしてもだ、それはアンダーグラウンドのぶんすいれいまでの話であって、俺達の居る場所にまで波及する様なものではないと思っていた。

 いや、そうではない。

 俺が、多分に不可侵の境界を踏み越えたのだ。

 秘密を抱いていろ。

 ああ、そうか。

 それに触れる事を、禁じた言葉だったのか。

 結局、庭口さんと向井原が、どういう人間で、どういう事を考えているかは分からない。

 分からないけれど、もう、ここまでだ。

 どうしようもない。しようがない。もう、打つ手がないのだ。

 だから、終わりにしよう。

〝もう打っている手で、終わりにしよう〟。

「悪いな酒匂驤一。上客だったんだが、ここからだけは、無理な相談なんだ」

 そう言って、庭口さんが目で向井原に合図をする。

 それにかぶせて、俺も合図を送る。

 口を、開いた。

「庭口さん」

 俺の、最期の言葉に思えたのか。

 爆音のフロアが一瞬止まって、俺は天井を指差した。

「上」

「はあ?」

 俺の言葉に見上げる庭口さん。

 BAR PLANETARIUMの天井には、俺が呼び出しておいた、ジョーカーが一人。

 向井原が視線を落とした隙に、扉の上部からマチェットをピッケルの様に壁に突き刺す得意の移動術で侵入した、俺の後輩。

 庭口さんが見上げるのと同時に、天井にマチェットを突き刺して鎮座していた戦部ミラは、下降を開始して、庭口さんの背後に着地した。

 せつの内に、状況はイーブンに持ち込まれた。

 俺の後頭部に銃口を押し付ける向井原に対面して、庭口さんの首筋に凶刃をわせる戦部ミラの構図に陥った。

「〝酒匂驤一〟! てめえ!」

 致命的な状況下でも威勢を弱めない庭口さん。それでも、状況はイーブンなはずだ。

 マフィアを壊滅させる様な手腕を持っていようと、こういう限定条件下で戦部ミラに背後を取られて打開出来る人間など、居る筈がない。

「庭口さん、もしかしたら死んじまうかもしれねえから、お願いがあるんだ」

 銃口は変わらず俺の命に狙いを定めている。けれども、俺にとっては大した事のない、何でもない状況だ。

 だって、もし失敗しても、そうだ。

〝死んでしまうだけなのだから〟。

「一つ、向井原の銃を下ろさせてくれ。そうすればこちらもそうする。俺はいつもの様に、買い物がしたいだけなんだ。二つ、俺の事をまた〝ジョー〟と呼んでくれ。今日の全部はなかった事にしよう。庭口さんは、俺の事を知らない。俺も、何もせんさくしない。秘密を抱いている。だから、今日の事はイーブンだ。俺の名前は〝ジョー〟だ。三つ、これが重要だ」

 この場を切り抜けても、あのマフィア達の様な目に遭うのは御免だ。

 だから、ここできっちりしておかなければいけない。

 今回はBAR PLANETARIUMに非があって、俺達はそれに目をつぶって、買い物を済ませるという事を、認めさせなければいけない。

 その為の、この状況だ。

「お金足りないから、〝ソレ〟安くしてくれない? 定価の、十分の一くらいでさ」

 そう言うと、ミラがマチェットの刃を庭口さんの首筋に立てた。

 行使者にのみ有利な口実での暴力は、憎しみを生む。

 だから、状況は、相手に只管ひたすら優位に進めてやればいい。

 ギリギリの境界で、尊厳と利益を保たせるように。

「てめえ!」

 庭口さんは、歯を食いしばって叫んだ。

「これは、俺の〝お願い〟だよ、庭口さん」

 死線上で笑みを携えながら言う俺に、庭口さんはしばらく殺意き出しの顔を向けてから、顔を伏せて大きく息を吸い込んだ。

 腹の底からうねり上がるぞうごんと憎悪を飲み込んで、今度は大きく息を吐き出す。

 顔を上げた庭口さんは、いつもの表情をしていた。俺が買い物をする時の、いつもの表情。アルコールに酔って、ひようひようとピリついた、いつもの表情に。

「〝ジョー〟、五分の一でどうだ?」

 右手の五本指を伸ばしながら、庭口さんは言った。

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