第十三章

第39話 夜を眠らぬこの街で

「ただいま」

「あ、ジョー君おかえりー」

 両手に大きな茶封筒を抱えた俺に、トーコは漫画を読みながら言った。

「遅かったね?」

 ベッドの上で脱力しているミラは、足をぱたつかせながら言う。

 時刻は二十一時半過ぎ。六限までの授業を終え、寄り道をしたにしては早い帰宅だが、今日はトーコの去就の打ち合わせであり、集合時間をわずかばかり過ぎている。

「驤一先輩、先輩が二十一時半きっかりって言ったんですよ?」

「ちょっと寄り道しててな。これ」

 俺は、茶封筒の一つをトーコに差し出してソファーに体を沈ませた。

「え、何々? 漫画?」

「いや薄いだろ。開けてみ」

 漫画を置いて、トーコは俺が手渡した茶封筒の中身を取り出す。

 数枚の資料と小さい封筒が挟まったクリアファイルを手に取ると、机の上に広げた。

「え、何これ……?」

 広げられた資料には、びっしりと文字が敷き詰められている。

「そっちより、その封筒の方が分かり易いかな」

 そう言って、小さい封筒をトーコから取り上げて中身を出す。

 板に張り付けられたカードを取り外すと、トーコに手渡した。

「えっと……何々……住民カード?」

 トーコは目を凝らしてカードに印字された文字を読み上げる。

「そう。簡単に言えば、身分証だな。皇都の国民ですよーって証明書」

「偽造カードですか!?」

 折野が驚いてかっと目を見開いている。

「え、ジョー先輩、昨日のBAR PLANETARIUMでそんなの買ってたの?」

 ミラはトーコの背後からカードをのぞき込んで言う。

 これを手に入れられたのには、ミラの存在が大きい。

「昨日二人で行ってたんですか? それにしても、よくこんなものを……確かに、トーコさんには必要なものかもしれませんが、偽造がばれたら……」

 折野はカードを見ながらまゆひそめる。

 確かに、あそこならそれも手に入るだろう。

 だが、それでは全財産をはたいた意味がない。死線を跨いだ理由がない。

 これはもっともっと上等で悪質なものだ。

「残念。もしそうだったら、こんなに荷物ねえよ」

 そう言って、残りの茶封筒を机の上に置く。

 それぞれの茶封筒には、総務庁や医療技術庁の刻印が押されており、これらは公式に発行されたものである事を証明している。

「カードの名前、見てみ」

「名前……えーっと、あさみ……とお……こ? あさとう?」

 住民カードには、名前や本籍所在地が刻印され、カードの番号と、皇都総務庁中央局の刻印が刻まれている。

 トーコはそれを読み上げながら、不思議そうな顔をする。

「そう。朝美透子。今日からお前は、朝美透子だ。こっちは保険証、こっちは戸籍謄本、こっちは─」

「ま、待って、待って下さい!」

 資料を片っ端から開いていく俺に、折野は制止をかける。

「ど、どういう事ですか!? どうして、存在しないトーコさんの戸籍があるんですか!?」

「いやいや、そりゃ流石に無理だ。架空の人物じゃない。朝美透子は、確かにこの世に居るよ。ただ、外区の向こうにだ」

 俺はそう言って、西側を指差す。

「大地世界?」

 ミラは珍しく察しの良い発言をする。

「そうだ。七年前の皇都分断で、混乱のなか国民は皇都側と大地世界側に分断された。ただ、分断の前に両者の間の取決めで、外区が生まれる前に希望者の引き渡しをしている。大地世界へ行きたい信者の中で、皇都に残った者。そして、皇都に残りたいのに大地世界側に残された者。一刻も早い分断を急いだ皇都が、分断された国民の状況を把握したのは、分断後からだ。つまり、混乱の最中に分けられた国民に関しては、資料上では居るが、こちら側には居ない、という状況だけで存在を判断した。そこに目を付けた悪い奴等は、架空ではない架空の人物を作り上げた。皇都の中にな」

 資料を揃えて封筒に戻しながら、俺は説明を続ける。

「悪い奴等は大地世界に行ってしまった人がまるで皇都に残っているかのように資料を作り、存在しない人間の税金を払い続け、只管にめ込んでいる。この世に居ない人間の戸籍を、国民情報を。国内でテロが発生し、国が分断されるというこの国史上最も混乱したであろう隙をついて、奴等は悪意を創造し続けた。その一つが、これだ」

 あくまでそれは俺の仮定であり、真実は分からない。

 ただ、その通りだろうが、別の経緯だろうが、関係なく、それはここに存在している。

 この世の悪意に、際限などないのだから。

「何ですかそれ……そんな……驤一先輩、よくそんな事分かりましたね?」

「いや、あくまで俺の仮定だ。実際はどうだか分かんねえよ。ただ、ある可能性は十分にあった。国の分断に、トーコ達被験体。この国に内在する悪意は、俺達の想像を超えているよ。それなら、これくらいはむしろなくちゃ困る。ま、色々想定外はあったし、けではあったけどな。この国に存在しないトーコを隠すのなら、トーコを存在する事にしちまえばいい。国民にしちまえばいいと思ったんだよ。まあ、背景はどうあれ、今日から確かにトーコは朝美透子になる訳だ。多分、大地世界で暮らしているのであろう、この子にな」

「ええ……何かすごい事だよね……それにしても、名前、よくあったね?」

「ああ、庭口さんがリストくれてな。その中から選んだんだ。名前はたまたまだけど、後はまあ、まちまち。生年月日も、お前の一個上だし、誕生日も十月じゃなくて三月だな。まあ流石にそこら辺は。名前が同じだけでも上等だろ?」

「でも、いいのかな……私なんかが……」

 カードに視線を落として、トーコは申し訳なさそうに言う。

「今は後ろ向いたって仕方ねえだろ。当面は我武者羅に進んで、後で考えればいいさ。俺に前向けって言ったのは、お前なんだけどな」

 そう言ってトーコの背中をたたくと、うん、と首を縦に振って、トーコはしい表情をした。

「そうだよね。四の五の言ってられないね! 朝美透子さんごめんなさい! 暫く借ります!」

 トーコは西側を向いて頭を下げる。律儀なんだかほうなんだか分からない。

「向こうで会ったら謝らなきゃだね」

「そん時は国がひっくり返ってる時だろ」

 言いながら、俺も西側を向く。

 この国の最果ての方向を。

「それにしても、人一人の戸籍なんてよく買えましたね……一体幾らするんでしょうか?」

 折野が嫌なところに気が付いたので、俺はその言葉を聞いていないフリをして手を叩いた。

「よし、まあ取りえずあれだ。お祝いしようぜ! 今日は外で職質されても、堂々と四人で住民カードを出そうじゃねえか。めでたいめでたい」

「えー! 私焼肉がいいー!」

 ミラは何も気付かずに歓声を上げる。

 こいつも使い込みをしているのだ。それに、昨日のあの場にも居たし、共犯みたいなもんだ。

「じゃあ、ベッド貯金使おうよ! ね!?」

 しまった。

 ミラがそこを当てにするのは毎度の事なのだから、そう来るのは当然だった。

 その言葉に一瞬躊躇ためらいを生んだ俺を、折野は見逃さなかった様だ。

「戦部さん! 驤一先輩押さえて!」

 折野の言葉に反射的にミラが反応する。

 ミラに羽交い締めされた俺は、身動きが取れない。

「ああ――! ない!!」

 折野はベッドの引き出しを開くと、すっからかんの光景に声を上げた。

「しようがねえだろ。それでも値下げしてもらったんだぞ」

 俺は開き直る様に口をとがらせて言う。

「何やってるんですか! これから装備整える時どうするんですか!? また貯め直しですよ! 一番費用かかるの、驤一先輩の弾丸なんですからね! 下手くそ!!」

 折野にしては珍しく言葉が尖っている。

 よっぽど腹が立ったのだろう。

「ああ……ご、ごめんなさい折野さん……わ、私ので」

 そんな折野を見て、折野の絶望と引き換えに戸籍を得たトーコが申し訳なさそうに頭を下げる。

「いや! いいんです! トーコさんは何も悪くないから! 全てはあの下手くその所為ですから!!」

「うるせえなあ。焼肉おごってやるから許せよ」

 俺はそう言うと、そそくさと靴を履いた。

「やったー焼肉だー!」

 ミラはそれに続いて、相変わらず陽気だ。

「はあ……これからどうしよう……取り敢えず稼ぎに行かなきゃ……」

 折野は当面の資金繰りを案じて頭を抱えている。

「ジョー君! これ持って行った方がいいよね?」

 トーコは住民カードを手に持ちながら、上着を羽織る。

「おお、持って来い」

 外行きの準備をして、俺達は部屋を出る。

 折野のおおためいきうつとうしかったが、今は甘んじて受け入れておく。

 エレベーターで下に降りて、マンションの外に出る。西三番街駅の方面へ四人で歩いていくと、マンションのある高台から、西三番街の夜景を見下ろせる。東に見える背の高いビル群は、中央特区にひしめく中央各庁。きらびやかなそれは、今は少し不気味に見える。

 まるで、俺達を監視している目玉がぎょろりとこちらを向いている様な印象を受ける。

 すっかり沈んだ太陽をしつさせる様に、この国は夜もなおけんらんと輝き続ける。

 十月の下旬、少し肌寒い空気が、燃え盛る街灯りをはじいて夜空を照らす。

 俺達は、今日も普通に暮らしている。

 底の見えない闇を知りながらも、当たり前に暮らしている。夜を眠らぬこの街で。

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