第37話 指切りの約束②

 トーコの強い瞳に、全部見透かされている気分になる。

 俺には、簡単な言葉でよかったんだ。

「あの、私、すごく自分勝手な事言ってるよね。昨日、ジョー君の気持ち散々分かるとか言っといて、その癖今日は我儘で……あ、あのね、でもね私は─」

「分かった」

「え?」

 先程までりんとした表情で話していたトーコは、顔をこわらせて俺を見る。

「分かった。生きてみる。俺は、生きようと思う」

「でも、だって、ジョー君は─」

「んん、まあ、あれだ。確かに、今でも……何で生きてんだろうと思うけど、トーコの事見てたらさ、今までの自分が、笑けるくらいに情けなく思えてさ」

 地獄では飽き足らない場所を抜けて、地獄と言うには生温い様な所まで駆けて来ても、トーコは、きっと、あきらめる事をしない。

 そんな姿を見て、そんな場所で笑う彼女を見て、全てから逃げ出そうとする自分がひどく小さく見えた。

 俺の人生は変わらずもうどうでもいい。

 俺の大事なものは戻って来ないし、過去にさかのぼれる訳でもない。

 だからせめて、この子の様に、前を向いて歩いてみようと思った。

「トーコが言った様にさ、親父と母さんの事どうでもいい訳でもないし、ミラも居るし、折野も居るし、あいつらにもやりたい事がある訳だし。それに」

 人の事など、どうでもいいと思っていた。

 事実、何もかもを諦めているから、最初に引き金を引く時にちゆうちよがなかったし、昨日、引き金を引く時も躊躇がなかった。

 けれど、心のどこかで諦めていないから、ミラと一緒に居たし、折野と一緒に居たし、そして、何より─

「トーコに、お願いされたしな」

 自分の深層に深く踏み込んだ彼女は、汚泥の底に埋まっていた俺のわずかな心を、引っ張り上げようとしてくれた。

 そんなトーコを、放っておく事は出来ない。

 俺は、トーコの事が、どうでもよくないのだ。

「本当に……? 私、すっごい我儘言ってるよ?」

「いいんだよ。俺がいいって言ったんだから。何つーか、本当馬鹿らしいよ。自分が」

「そ、そんな事ない! 私は、ジョー君の気持ち、分かるから!」

「ん、それはそうなんだけどな。お前に比べるとって話だ」

 そう言って、 こちらを向くトーコの顔を両手で挟む。

「うえっ……な、何?」

「ありがとな」

「え?」

 俺の事を助けてくれて、ありがとう。

「わ、私、まだ何もしてない……」

「いいんだよ。気にすんな。じゃあ辛気臭い話は終わりだ。明日あしたは嫌でも来るんだ。この先どうなるかは分からねえが、入って寝るぞ」

 気恥ずかしい自分の気持ちを振り払うように立ち上がって、手をたたく。

 もう、動き出すしかないのだ。それこそ、立ち止まっている時間がもどかしい。

「あ、はい! ジョー君、本棚借りて良い?」

「ん、いいよ」

 そう言うと、トーコはリュックの中から大量の少女漫画を取り出して、俺の本棚の空いている場所に並べた。そうだ、ミラも漫画好きだ。それで家にまで行ったのか。

 浴室に行って久しぶりに浴槽にお湯を張る。追いき機能が付いている事も、この狭い部屋の自慢の一つだ。

 準備を終えてリビングに戻ると、俺の想像よりは多い本を取り出したトーコがせっせとせいとんをしていた。

「ジョー君ごめん、手伝ってもらっていい?」

「ん、おお」

 トーコが取り出して積み上げた本を巻数順に揃えて、本棚に仕舞っていく。

「あ、あのさ、ジョー君」

「ん?」

「あの、ついでになんだけど……戦う時の〝死にたがり〟も、直してね?」

「あー」

 言われてみれば、どうなんだろうか。

 俺の死にたがりは、この世界を諦めた故のものだ。

 どうでもいいから、戦う時も変わらず、死線を気軽にまたぐ。俺にとってその境界線はまつなものだった。

 それをずっと続けて来た今、心持ちを変えて、影響があるだろうか。

 発生源を同じくするその悪癖は、心情こそ変化したものの、死線上で染みついた行動にまで影響するかは分からない。

「死んじゃったら、私の事手伝えないんだから……だから、ね?」

「んー……分からんけど、出来るだけ頑張る」

 単行本が本棚に当たって、規則正しい感覚で乾いた音が反響する中で、トーコは俺の目を見ずに言った。

「一緒に生きるって言ったのに」

「ああ……それは……まあなんつーの、言葉のあや? その時は、その時で」

 軽い気持ちで答えて作業を続けるが、トーコの手が止まる。トーコを見ると、目を細めて俺をにらんでいる。

「だめ、死ぬとか私の前では軽々しく言わないで。約束したんだから、死なないで。ん!」

 言って、トーコはこぶしを握った右手を俺の前に出して、小指を立てた。

 何とも子供っぽい。

「お前幾つだよ」

「ん!」

「はいはい」

 ためいき交じりに小指を絡ませると、トーコはげんな表情のまま腕をおおに振った。

「じゃあ、お前もな」

 そんな事を言っていいか分からなかった。トーコは何も分からないのだから。

 うたかたの約束は、悪魔の様な言葉かもしれない。

 けれど、何故か俺は言ってしまった。

「え?」

「死ぬのなしな。せめて、お前の目的果たすまでは、だめな?」

 多分、本心だったのだと思う。何も気遣わない、心からの言葉。

 トーコの事を考えれば、残忍な言葉だと分かるのに。

 俺は何かの感情に押されて、失言を押し出してしまった。

「あ、ごめん、何でもな─」

「うん!」

 撤回しようとする俺を遮って、トーコは声を上げた。

「分かった、頑張る!」

 はにかんで、トーコは俺に言った。

 トーコの本心は分からなかったので、逃げる様に小指を離して立ち上がる。

「そういや、お前話し方砕けてきたな」

 先程の言葉を上書きしようと、話題を別の事に移す。

「え? あ、ごめん……なさい。ミラとずっと一緒に居たからかも」

「いや、そっちの方が楽だからいいよ」

 にする様にテレビをけてソファーに座る。

 ニュースキャスターが、日付を跨いだ事を告げ、北一番街で親子参加の企業イベントが行われた原稿を読み上げる。

「ジョー君のご両親って、どんな人だったの?」

 トーコは漫画を仕舞い終えると、俺の隣に座って言う。

 テレビの話題を話す、ごく普通の時間だ。

「んー家では優しかったというか甘かったというか。怒られた記憶がねえ。強かったとか立派だったとか怖かったって周りの人からはよく聞くけど、家での二人は子供ながらに引くくらいべたべたしてたな」

「えー素敵! 私そういうのがないから、ちょっとうらやましいけどなあ」

「すっごい小さい時の記憶だけど、母さんが俺と遊んでて、親父がしつしてた事があったな。子供ながらに親父の神経疑ったぜ」

「えへへ、いいお父さんじゃない」

「そうか?」

 俺の取り留めのない話にトーコは笑う。

 トーコにとって、〝親〟というものがどういう形でとらえられているかを理解するのは難しいが、それでも屈託なく笑う彼女は、俺達と何ら変わりなく見える。

「お互いの事好き過ぎなんだよ」

「でもそれってとても素敵じゃない?」

「仲悪いよりはいいかもな。俺の名前も、お互いの事が好きだから、お互いの名前から一文字ずつ取ってんだよ。父親が驤慈、母親が一花。最初の一文字を取って、驤一」

「あーそうなんだ。いいね、とっても素敵だよ」

「もっとひねれよと思うけどな。そういえば、トーコは名前、字はどう書くんだ?」

 話の流れで、何となく尋ねてみる。

 何の思いもなく、何の思考も巡らさずに、本当に何となく。

「あー……えーっとね……書く物ある?」

「ん、あるよ」

 勉強机の上にあるボールペンとメモ用紙をトーコに渡すと、真っ白な一面に筆を走らせ、悪戯いたずらっぽい笑顔でそれを俺に見せながら言う。

「えへへ、これなーんだ」

 紙には『No.1005』と書かれていた。

 馬鹿でも察しがつく。思わずくちごもってしまう。

 尋ねていい事では、なかった。

「ごめん……」

「ええ? 何で謝るの!」

「いや、だってそんな……」

「あーあー全然平気なの! 私今笑ってたでしょ? 別にこんなの気にしてないどころか、普通普通! だって、私達にとってはこれが普通だもの」

 そう言って、嫌みなく笑うトーコの表情が、逆に苦しい。

 俺は本当に、気が遣えない。

「研究所で私達被験体は皆番号で呼ばれてたんだ。私は被験体No,1005。でもさ、何かそれって嫌じゃない? 折角生まれて来られたのに、空っぽの言葉で呼ばれるなんてさ。私はそれを名前とは思わない。名前って、もっと素敵なものがいいなって、大事なものがいいなって思って。だから、皆であだ名付けて呼び合ってたんだ。10と0と5で〝とおこ〟。変、かな?」

 変な訳、ないじゃないか。

 俺達にとって当たり前の名前一つ取ってみても、彼女達にとっては、かけがえのないものなのかもしれない。

 俺も名前を大事に思うけれど、それは与えられたものだからだ。様々な気持ちでもつて、きっと一生懸命に付けられたであろうものだからこそ、大事に思うのだ。

 彼女達は、それを、自分で手を伸ばして、大事に抱えている。

 それを、変だなんて、言える訳がない。

「いや、いいと思うよ。素敵だ。うん、トーコ。素敵だ」

 俺はみしめる様に口に出す。

「え? そうかなあ……えへへ、うれしいな! えへへ。何かね、私達には多分〝普通〟って呼ばれるものが何もなかったから、だから、とっても嬉しい。そういう当たり前な事に、当たり前に何か思ってくれるのは、すごく嬉しいな」

 そう言ってまた、トーコは笑った。

「だから、さっきのも嬉しかったんだよ?」

「さっきの?」

「うん、約束」

 指切りの約束を思い返す。

 生きていて欲しいという、当たり前の願い。

「いや、さっきのはごめん。無神経だった」

「違うの。全然、違う。私には凄く嬉しいんだ。生きていてって当たり前の事を私に言ってくれる、とっても嬉しいんだよ。無神経なんかじゃない。むしろ、嬉しい」

「そっか、良かった」

「えへへ」

 トーコは当たり前の事を喜んで笑った。

 俺達とは違う視点で物事を捉えるトーコの言葉は、一々胸に響いて揺らぐ。

 そんな当たり前の連続の為にも、トーコの事をどうにかしなければならない。

 明日からまた行動だ。当面は家にかくまうとして、打開策を模索しなければ。

 目の前でテレビを食い入るように見つめるトーコ。ニュースは相変わらず、親子参加のイベントの報道を続けていて、参加者のインタビューを流していた。

 打開に頭を回す。

 隠匿、当たり前、名前、トーコ、親子参加のイベント、BAR PLANETARIUM、ベッド貯金。

 要素を詰め込んで、回る、まわる、まわる。

「……木を隠すなら森だ」

 庭口さんの台詞せりふを思い出すと、クローゼットからキャリーケースを引っ張り出す。

「トーコ、手伝え!」

「え、あ、はい!?」

 状況を把握していないトーコを駆り出して、ベッドの引き出しを開く。

「わ、私もやればいいの?」

「そう!」

 BAR PLANETARIUMでコツコツと貯めてきた全てをキャリーケースに詰め込む。

 正確には分からない。だが、相当な額のはずだ。

 外区という無限の供給ルートから錬金した、表に出せないそれらを抱えると、俺は家を飛び出す。

「直ぐ戻る! トーコ留守番してて!」

「あ、はい!」

 キャリーケース一つという夜逃げには物足りないで立ちで、エレベーターのボタンを押す。

 エレベーターを待ちながら、携帯電話で、発信のボタンを押す。

 この街の夜は、眠らない。

 まだまだ、眠らない。

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