第九章

第32話 死にたがり

「あの、着替えありがとうございました」

「おう、気にすんな」

 時刻は午前三時半。そろそろ空が白み出す頃だが、この国では変わらずけんらんとした街並みが淡い朝焼けを奪い去る。俺は特区から見る朝焼けの青は、あまり好きではなかった。

 コンビニで必要な物を購入した後、下着だけを洗面所に置いた着替えに添えて、テレビに意識を移した。三十分程して出て来たトーコは、パーカーとハーフパンツに着替え、髪の毛も乾かし終えていた。

「体洗うやつ、共有で悪いな」

「あ、大丈夫です。私、手で洗う派だから。気遣わせてごめんね」

 そう言って、トーコはベッドに腰を下ろす。

 すっかり肌を覆ってはいるが、先程見たきずあとが、脳裏をよぎる。

 いまだに信じられない様な存在であるトーコではあるが、その口から少しだけ聞いた研究所での話、そして、先程見た体の傷が、どうしようもなくリアリティを突き付ける。

 ひどく、ほのぐらい、現実味。

「腹減ってる?」

「あ、うん。お腹ぺこぺこ」

「そういやそうか。五日間逃げてたんだもんな。その間、飯どうしてたんだ?」

 コンビニで買ってきた食事は、朝の分も含めて四種。冷蔵庫から取り出そうと立ち上がる。

 立ち上がりながら、何気なく聞いた事だったのに。

「あー、お水は川とかで、ご飯は全然。私……私達、あんまり食べたり飲んだりしなくてもいいように造られているんです」

 思わずトーコの方を振り向くと、トーコは嫌みなく、笑っていた。

 笑って、そんな台詞せりふを吐いていた。

「そっか」

 馬鹿みたいに漏れ出した言葉が俺の限界だった。

 がつんと頭を殴られた気分なのに、何事もなかった風に冷蔵庫の中身を取り出す。

 ミラは、俺にトーコの事を聞いておいて、と言った。

 聞くって、何をだ。トーコの事って、つまりは、〝こういう事だ〟。

 こんな話を、聞かなければいけないのだろう。トーコの事というのは、こういうれつな事のはずだ。

「どれがいい?」

「わー! 沢山ある!」

 テーブルの上に、買ってきたカルボナーラ、ハンバーグ弁当、サラダパスタ、パンを数種類並べる。何が食べたいかを事前に聞かなかったので、なるべく選択肢を多くしたかった結果だ。

「こんなに食べられるかな?」

「いや、半分は明日の朝の」

「あ、そっか……じゃあ、私これがいい!」

 トーコは言いながらハンバーグ弁当を指差す。一瞬迷ったが、トーコに対して俺の好物だからとこれを取り上げる嗜虐性を俺は持ち合わせていなかった。

 ハンバーグ弁当を電子レンジに突っ込むと、タイマーをセットしてあたためのボタンを押す。その間に、冷蔵庫から炭酸飲料を取り出して、コップに注いでテーブルに置いた。

「あ」

 電子レンジが間抜けな音を立てるのと同じ頃に、気付いた。熱くなった容器をおっかなびっくり取り出して、テーブルに置く。

「これ、使える?」

 言って、袋に入った割りばしと、プラスチックのフォークを差し出した。

 到底想像出来そうもない地下での生活を、ない頭で無理矢理はじき出した気遣い。

「あ、うん。使えます! お箸で大丈夫ですよ」

 トーコはまた笑って、割り箸を受け取って二つに割った。

「実験の中で、人間と同じ様にそういう道具が使えるかどうかって教えられたので、一通り普通の生活を送る分には大丈夫です! すみません、変に気を遣わせちゃって」

「ああ、いや……そっか」

 何をするにしても、到底、想像が及ばない。

 俺のちんけな思慮が、空振りを続ける。

「食べていいですか?」

「ん、食べようか」

 トーコは弁当のふたを、俺はサラダパスタの蓋を外す。大分遅めの夕食だ。

「いただきます」

 二人の声が重なる。

 トーコは丁寧に手を合わせていた。

 合わせた手と気持ちの行方を知っているのかと一瞬だけ思ったが、意味合いを尋ねてまたれつのぞき込んでろうばいするのも情けないので、内々に秘めた。

しい?」

 当たり前の様に上手な箸使いでハンバーグを口に運ぶトーコは、そしやくをしながら笑みがこぼれている。

 食事を飲み込み口を空にしてから、俺の問いに答える。

「とっても美味しいです!」

 こうして何気ない一場面を切り取れば、よっぽどトーコは十六歳らしい少女だ。

 ごく普通の。どこにでも居る。

「温かいご飯ってやっぱり美味しいですね。研究所だと、たまーにこういうご飯も食べさせられましたけど、いっつもぐちゃぐちゃにすりつぶされたよく分からない何かとか、錠剤ばかりだっ─」

「トーコ! 俺のも食べたかったら、言えよ。あげるから」

「え? そ、それは申し訳ないので大丈夫です! これ、とっても美味しいですし!」

 思わず言葉を遮って、聞いていないフリをする。

 気を紛らわせようとけたテレビの内容が、一切頭に入って来ない。ぐるぐる頭の中で回るのは、トーコの言葉だ。

 人の事なんて、どうでもいいと思っていたのに。

 それなのに、また、どうしようもない気持ちになる。

 口の中にフォークを突っ込んで、手早く食事を済ませる。遅刻ぎりぎりの学生みたいに、咀嚼をおろそかに、ただ詰め込む。

 味なんて一つも感じなくて、行き場も正体も分からない胸中の感情から逃げる様に。

「ごちそうさま」

 半分も食べ終えていないトーコをしりに立ち上がって、サラダパスタの容器をゴミ箱に放る。

「俺、シャワー浴びるから。歯ブラシ、トーコの分買ったから使って」

「あ、はい! ありがとうございます」

 コンビニ袋に入れたままテーブルの上に置く。最低限の会話だけで済ませて、洗面所の扉に手をかける。

「あ、あの、本、読んでてもいいですか?」

 呼び止められ振り向くと、トーコは本棚を指差していた。

 決して多くはない漫画本と、衛学で使う教科書が雑に詰められた本棚。トーコは多分に感性の合わないテレビよりも、そちらに興味を示した。

「ん、好きに見てていいよ」

 答えて、直ぐにドアを閉めた。

 また何か、余計な言葉を引き出してしまわない様に。

 服を乱雑に脱ぎ捨てて、浴室に入る。熱いシャワーを頭から浴びて、ひりつく感覚でモヤモヤをき消そうとする。

 到底、まともではないとは思っていた。想像だにしなかったトーコの存在。だから、トーコが居た場所が存外に劣悪な事など、当たり前だというのに。

 彼女が口にする言葉のど真ん中から受け取れる『異常な普通』が、くさびとなって耳にこびり付く。

 何を俺は、そんなに嫌悪しているのだろうか。

 去来する正体不明の感情が、排水口に流れて行く泡と一緒に流れてしまえばいいのに。

 この嫌な感情が、噓っぱちの俺の外殻を壊して、ついでに隠した核心をさらけ出しそうな気がする。

 だから、だから、こんな感情、消えてしまえと思う。

 シャワーを止めて、空気と水流が混じって排水口に飲まれる音を聞いて、鏡を見る。

 水が滴るけれど、酷い表情だ。

 ああ、つまりは。

 しっかりと、知覚しているじゃないか。

 歯磨きまでを終えて浴室を出ると、乾いたタオルに顔をうずめる。マイクロファイバー地のそれで、早々に体をいて、ドライヤーをかける。冷風と温風が交互に水気を弾いていく。その間も、鏡に映る変わらない表情に嫌気が差す。

 手早く着替えを済ませる。扉を開けると、ベッドの上でトーコが衛学の教科書に目を通していた。食事の後片付けは、俺を真似た様で、れいに済まされていた。

 二回生の時に使っていた、現国の教科書。

「中身、意味分かる? てか、トーコも勉強とかしてた─」

 言い終わりかけて、まずいと思った。

 でも、もう遅かった。

「勉強してましたよー! 知能レベルを測るので、ある程度の事は教えてもらえるんです」

 笑って教科書に目を走らせるトーコに、そっか、とだけ返答して、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコップに注いだ。

 本当、馬鹿みたいだ、俺は。

「歯磨いたか?」

「はい、終わりました。ジョー君のしているお勉強、難しいです。半分くらいは分かるんですけど……」

 半分分かるのは、きっとトーコが箸を使えるのと同じ理由だろう。

 ああ、本当に、腹が立つ。

 腹が立ってしまっている。

明日あしたミラが来るって言ってたから、もう寝るぞ」

 コップに入った水を飲みながらトーコを促すと、教科書を本棚に仕舞った。

 そのまま、トーコはベッドに横になった。

「わあ、ベッドふかふかですね。気持ちいい」

 そのトーコの様子と、先程の脱衣事件を振り返れば、誰にでも想像がつく。

 トーコは俺と一緒に寝る気なのだろう。口振りから、研究所では寝食と入浴を仲間と同じくしていた様だったから、多分そうだ。

 俺は無言で掛け布団の下のタオルケットを取り上げると、ソファーに寝転んだ。

「あれ? ジョー君そっちで寝るんですか?」

「お前には色々と言わなきゃいけない事があるけど、明日からだな」

 明日、ミラに頼んでおこう。トーコの価値観の矯正を行わなければ、とてもどうせいが続きそうにない。

「え、今言って下さいよ! 私、変な事しました?」

「いいからいいから、今日はもう寝ようぜ。明日ミラに任せるから」

「えー……」

 俺が面倒そうにしたからか、トーコは不満そうに口をとがらせた。

「うー……何かすみません。私、多分、普通じゃないから、ジョー君に変な事してたら、ごめんなさい」

「いや、そういう事じゃねえから気にすんなって」

 トーコの発言は、言い得て妙ではあるが、そういう事ではない。

「お前は何にも悪くないよ。何にも」

「うー……」

 はぐらかそうとするのが逆効果なのか、トーコは目に見えて不審がっている。これでは寝つきが悪そうだ。

 しようがないので、素直に話す事にした。

「あれだ、あれ。ミラにな、トーコの事、色々聞いとけって言われたんだ。俺も、どれくらいの間になるか分かんねえけど、一緒に住む訳だから、トーコの事知りたいんだけどさ」

「私の事?」

「そう。俺等、昨日会ったばっかだし、状況が状況だから、いきなり一緒に居る事になったけど、まだほとんど何も知らないから、だから、知ろうと思ったんだ」

 それは、思わぬ形で、徐々に流入した。

「でも聞かなくてもさ、トーコと話していると、分かって来るんだよ。少しだけだけど、お前が居た場所がどういう所だったとか、お前が、どういう生活をして来たか、とか、何となく」

「……あの、もしかして、それで嫌な気持ちになりました?」

 ああ、そうだ。

 大雑把に形容すれば、俺のこの気持ちは、それだ。

「なった。すごく」

 嫌な、気持ちなのだ。

「ご、ごめんなさい。私ので」

「いや、何でトーコが謝るの。トーコ何も悪くないだろ」

「で、でも、私が余計な事言った所為だから……あの、研究所の話とか、って事ですよね? 嫌なの」

「ん……何つーか、知らなきゃいけないんだろうけど、やっぱり、気分のいい話じゃねえわな……それに」

「それに?」

 一番、俺が分からない部分だ。

「お前、あの場所の話する時、笑うだろ? それが、何でだろうって」

 トーコは、卑屈な訳じゃなく、笑うのだ。

「あ……ご、ごめんなさい。私の説明不足ですよね。はは……確かに、私はあの場所が嫌で、嫌で。痛くて、暗くて、苦しくて、それで、逃げて来ました。でも、そればかりじゃないんです。楽しい事も沢山あって。それこそ、どこからか持って来て貰った漫画を読む時も、同じ部屋だった二人、弟と妹みたいな子が居るんですけど、その子達と遊んでいる時も、楽しかったんですよ」

 そう言いながら、またトーコは笑った。笑って、話す。思い出話を語るのに、笑顔はつきものだ。

 だから、普通に見えてしまう。

「仲の良い友達と話したり、一緒に本を読んだり……あ、これ、髪の毛。私、今ちょっと伸びてますけど、本当は結構短いんですよ、髪。いっつも、友達に切って貰ってるんです。一番仲良しの子が、とっても上手で」

 俺達と、何ら変わらない様に見えるのに。

「丁度切って貰う時期に、その子が長期の実験に入っちゃって、会えなくなっちゃって、それで今伸びているんですけど……あっ」

 やっぱり、俺達とは違くて。

 トーコは察したのか、じようぜつな口を思わず閉じる。

「こ、こういうの……ですよね。ジョー君が嫌なのって」

「ん……でも、トーコが悪い訳じゃねえし」

 俺が勝手に、不快に感じているだけだ。トーコにとっては、限りなく、何でもない事なのに。

「えへへ、ジョー君、優しいんだね。人の事なのに」

「自分勝手なだけだ」

 俺がそう言うと、トーコは不思議そうな顔で首を傾げた。

 俺はその意味も分からないまま、部屋の電気を消そうとリモコンを手にした。

「ジョー君、不思議だね」

 スイッチを押しかけた手が止まる。トーコに向き直ると、まだきょとんとした表情を続けて、俺を見ていた。

「何がだよ?」

「え、あ、ごめん……その、ジョー君、私の事とか、研究所の話とか聞いて、嫌なのって優しいからなのに、どうしてだろうって思って」

 外殻が、崩れる。

「ん? どういう事?」

「それって、ジョー君が私の事考えてくれているからでしょ? だから、不思議だなって。こっちに来る前に、少しだけ話してくれたでしょ? あっち……えっと、外区だっけ? あそこに行くのは、ジョー君のお父さんとお母さんの事を知りたいからだって。その話を聞いた時から思っていたから、やっぱり、どうしてだろうって。ほら、私の事も助けてくれたから、何か変だなって─」

「トーコ、何が言いたいの? 俺、別に何も変じゃないだろ?」

 がらがらと、崩れ去る。

 「変だよ。だってジョー君、死にたがっているんだもん」

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