第4話 契約破り



大きく目を見開いて、ぎょろりと谷沢たちの方を向いた。

白目の部分が徐々に黒い何かに覆われていく。黒に変わったその虚ろにも見える目は、攻撃的な感情を内に秘めているように感じさせた。


ドバッと破裂した水道管からあふれだして止まらないみたいに、切断された左腕の断面から黒い何かが噴き出した。

礼にあの絵の中の墨をぶちまけたような世界を思い出させる。


街灯の鉄の柱に、その黒い、噴き出して流れる物質が触れると、柱の表面がだんだんとそれに削られていくように見えた。やがて、柱の側面は大きく抉られてそこから折れ曲がり倒れてしまった。地面に落ち割れて街灯の明かりが消えて、あたりはさらに暗くなった。

鉄柱の折れた断面はヤスリで削られたようになっていない。むしろ虫の群れにでも食いつくされてしまったかのようになっていた。このことには誰も気付かない。


それまではどんなに腕や足が変形しても人間的な存在に見えたユウが、今まさにその枠を外れた。

ユウと、その腕に抱えられた礼を中心にして黒い嵐が周囲の物を壊しながら谷沢とヴェクサシオンを殺そうと追いかけまわしている。


黒い嵐のような濁流が谷沢に向かって放たれる。

本流はよけきれても、それと同時に向かって来る細かな飛沫までは避けきれない。

それはあくまでも、能力を使わなければの話である。

谷沢たちの後ろにあった自動車が巨大な穴を穿たれて、その周りに散弾銃の弾痕みたいな細かい穴がばら撒かれていた。


能力を使えばそんな回避不能の攻撃にも楽に対処できる。

停止した黒を歩いてかわした。

このまま逃げてもいいけれど、それだけでは面白くない。


谷沢は、自分のポケットからガラス片のナイフを取り出すと停止しているユウへ向かって投げた。

ある一定の距離までは谷沢の手を離れたナイフは飛んでいく。効果範囲を離れるためなのかは谷沢自身も知らないが、ナイフは途中の空中でピタリと止まった。投げられた方向に進むことも無く、重力にひっぱられて地面に落ちることも無い。


能力を解くとガラスのナイフは再び動き出し、黒い嵐の隙間を縫ってユウへと向かった。

契約者である礼を狙えばそれで勝負は決まってしまう。それでは面白くないということもあるが、ユウが礼の周りだけ特にブ厚く黒を展開して防御を固めている。その分ユウ自身の防御は浅くなっていた。

ガラスのナイフはユウの肩に刺さった。

ただ一本のナイフで止まるほどやわじゃないようだけれど、この遊びの緊張感は谷沢と非常に楽しませてくれた。


さらにナイフを取り出して、手のひらでくるくるとまわしながら谷沢は心から楽しそうに言った。

「さーて、あと何本でしとめられるかな?」


能力を使って攻撃を避け、同時にナイフの狙いを定めて投げる。

谷沢たちが攻撃を繰り返せば繰り返すほど、ユウの戦い方が上達しているように見えた。能力を使うことをあらかじめ想定した攻撃になっているみたいだ。

一度の能力の使用では、避けるか攻撃するかのどちらかしかできないこともあった。


ナイフはもう六本刺さっている。

真っ黒な目からは表情は読み取りにくいけれど、谷沢は手ごたえを感じていた。


「おい、おまえ。大丈夫か?」


谷沢はそんな状態のユウから声をかけてくるとは思っていなかった。

もっと我を失って暴走しているものかと思っていた。


「まだまだこれからさ。やっと体も温まってきた。

僕の能力を使えば、君を倒すのは難しくない。

あっさり君を倒し終えたら、次は君の契約者で遊ぼうか?

さあ、もっと長く楽しませてくれ!」

谷沢の気持ちは高ぶって、冷静さを完全に失っている。この遊びをもっと続けたいとそれだけを考えていた。


「おまえ、対価はどうした? 能力を使い過ぎたな」

ユウの声はそれと反対に冷たい。


冷や水を浴びせかけられたみたいに、谷沢の心が冷静さを取り戻して行く。

自分のまわりをぐるりと見渡す。

真っ暗な裏路地で、見える範囲に人は見当たらない。これでは対価を補給できない。

自分がユウを狩る立場だと思っていたのに、いつの間にか追いつめられていた。


「あははははははははっ!」

谷沢栄治は天を見上げて大きな声で笑った。心の底から愉快そうに見えた。


「対価はそこにいるじゃないか! 何の問題も無い!」

谷沢の指さす方向は黒い嵐、その中に守られている阿久礼だった。

この男は最後まで遊びを貫き通すと言っているのだ。


「貴様を殺せば契約者もただの人間に戻る! それを対価としてささげれば問題無い!

さあ、最後の勝負を存分に楽しもうじゃないか!!」


ユウはその谷沢の言葉に返事を返すことなく攻撃を仕掛けた。

礼を守るだけで勝てる。そんな逃げの姿勢ではこの男を仕留め損ねる。


谷沢栄治は能力を使った。

自分の命を賭けた真剣勝負の緊張感が心臓を締め付ける。なんて心地良いのだと谷沢は思った。

対価としてささげた人間のガラスナイフを投げ終える。

これで勝負は決まった!谷沢は自分の能力を解いた。


動き出したガラスのナイフはユウの眉間に突き刺さった。



「対価が、足りない」

それまで黙って谷沢の後をついてきていた悪魔ヴェクサシオンが機械的な声でしゃべった。


「対価ならこれから準備するさ。

時計仕掛けの悪魔よ、嘘つきの秒針を刻め!」


谷沢は礼のいる方向に向かって呪文を唱えた。しかし、礼はガラス化しなかった。ユウはまだ死んでいないのだ。


「契約を、破ったな」

この時を待っていたかのような悪魔ヴェクサシオンの愉悦に満ち溢れたささやきが、谷沢の耳元でつぶやかれた。





「礼も見ておいた方がいいか、契約を破るとどうなるかを」

ユウの目を覆っていた黒が無くなっていくと同時に、周囲にまき散らされていた黒い物質も切断面から身体の中へと戻っていく。斬り落とされて踏み砕かれたはずの左腕も元に戻っていた。

礼はそっと地面に下ろされた。

礼が心配そうにユウの顔を見ると、ナイフを刺されていたはずの顔や肩には傷一つなくなっていた。


ヴェクサシオンの体が中世の処刑具みたいに開いた。

そして谷沢の腕をつかんで引き寄せる。




さすがの谷沢もこれで最後かと思われた時だった。


「谷沢さん!すみません。ガキを殺り損ねました」

そう言って駆け寄ってきたのは、ヤモリ型の悪魔を殺されてしまった黒い服の男だった。これまでずっと谷沢を探していたのだろう。彼にとって最悪のタイミングで谷沢を見つけてしまった。


「いいや、お前はよくやった。すべてを許そう。

そのかわり……」


谷沢は黒い服の男に向かってあの言葉をつぶやいた。


「時計仕掛けの悪魔よ、嘘つきの秒針を刻め」

黒い服の男は、自分が何をされたのか気が付いた。

その時にはすべてが手遅れで、やがて彼は粉々に砕け散ってしまった。


対価を捧げられたヴェクサシオンは、何事も無かったかのように元の姿へと戻っていった。谷沢の腕には自分の血が付いて、服の袖も破けている。悪魔に契約違反の罰を与えられそうになった時についた汚れと怪我だ。



「安心してくれ。今回の遊びは僕の負けだ。素直に認める」

谷沢は両手を上げてもはや戦う意志のないことを表明する。


「子供と、契約したばかりの悪魔だと思って君たちを舐めきっていた。

自分の能力にたいして自分でルールを作って縛っていたのさ。

そんな制限をせずに全力で当たるべきだった。

その非礼を詫びよう」

谷沢栄治が深々と頭を下げる。


「僕とその悪魔ヴェクサシオンの能力は時間停止だけじゃない」

谷沢がそう言うと、彼は自身の能力を使った。

谷沢の怪我した腕と血で汚れて破れた服が治っていく。それはまるで時間を巻き戻すかのようだった。


「君たちが成長したら、また改めて遊びに誘おう。

その時は、僕は手加減しないとここに誓う」


そう言い終えた契約者谷沢栄治と悪魔ヴェクサシオンは一瞬でその場からいなくなってしまった。




礼はまず自分の隣にいるユウに話しかけた。

「俺が契約とやらを破ると、お前もああなるのか?」


ユウはじっと礼を見つめる。しばらく黙ってから言った。

「安心しろ。契約を守る限り大丈夫だ」




「それって、全然大丈夫なんかじゃねぇ!」







TO BE CONTINUED...

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