第2話 対価



夕日に照らされて真っ赤だった世界も暗くなってきた。

礼がどう言えば納得してもらえるか考えていると、サングラスをかけた男が息を切らせて走ってきた。


「クソガキが、手間かけさせやがって。もう逃がさねえぞ、クソ。ブッ殺してやる」


その後の陰人間との出会いのインパクトが強すぎて、自分が追われていたことをすっかり忘れていた。

腹の出たサングラスの男は、礼に向かって手を伸ばした。


「汚い手で触るな」

その手をつかんだのは、元陰人間の美女だった。その顔には何の表情も宿っていない。


サングラスの男は、その手を振りほどいた。

「はぁ? 誰だよあんた? 関係ないやつが邪魔すんじゃねぇよ」


「殺させない」

美女は振り払われた自分の手を少し不思議そうに見つめながらつぶやいた。簡単に振りほどかれるとは思っていなかったみたいだ。


「見た目を変えるのは契約違反か?

だが、このままでは殺されてしまう。

腕の一本ぐらいならば問題無いか?」


ブツブツつぶやくと美しかった腕が、鋭い爪のついた凶悪な見た目に変形した。

攻撃は一瞬だった。

元陰人間の美女の鋭い爪がサングラスの男の腹をえぐり、服ごと腹が切り裂かれた。その衝撃で男はゴミ捨て場に飛 ばされて、ゴミ袋の上に倒れた。



「クソが。あの女、悪魔かよ。てことは、あのガキは契約者か」

黒服の男はまだ生きている。


男の出っ張っていた腹がボトリと落ちた。

爪によってサングラスの男の腹の脂肪が爪に斬り落とされたのではない。その無くなった部分の下に本当の男の腹があった。へそも割れた腹筋もちゃんとある。

男から別れた部位は、丸まっていた手足を伸ばすとその姿を現した。


「契約者とその悪魔だろうが、オレのやることはかわらねぇ。谷沢さんの命令通りガキをブッ殺すだけさ」


サングラスの男は、自分のポケットからダイヤモンドのついた貴金属品を取り出して、自分の足元にいる大きなヤモリにそれらを食わせた。そいつはただの動物ではないのだ。


「悪魔の能力を使うには、必ず対価が必要だ。

その対価がスゴければスゴイほど、悪魔の力も強くなるってわけだ。

こいつの対価はダイヤモンド。金も手間もかかるがそれだけすげぇ」


この男が契約を交わした悪魔は大きなヤモリの形をしている。能力を使う対価としてダイヤモンドを食らう。


ヤモリの体表の色が紫に濁った。

サングラスの男に悪魔だと言われた美女は、鋭い爪の生えた方の腕を構える。たとえどんな動きをしようとも自分に向かってきたら、ヤモリを一撃で斬り殺せると思っている。

紫色の大きなヤモリは、すばやく悪魔の美女のもとへ走った。

狙い澄まして、美女の悪魔は爪を振り下ろして切り付けた。


しかし、ヤモリは直前で別方向に跳ねて攻撃をかわした。

それだけでなく、そのまま礼の方へと走った。礼は逃げようとするけど、ヤモリの方が素早い。あっさり背後に回り込まれてから、背中に貼りつかれた。紫色をしていたヤモリの体の色が、徐々に元の色へと戻っていく。



「そして、契約者を殺されれば、そいつの悪魔も死ぬ。

経験の浅い悪魔がよくやるミスだぜ。わざわざ面倒な悪魔の相手をする必要はなしだ。

こいつの毒は悪魔だろうと殺せるのさ!

直接、その毒を張り付けてやったんだ。もうそいつは助からねえ。てめぇも終わりだ」


サングラスの男は、礼を指さしながらそう言った。

ヤモリが背中から離れると、礼は具合が悪そうにしてゆっくり倒れた。


美女の悪魔が礼に駆け寄った。

抱き起こしてみると、あのヤモリの形をした悪魔が張り付いていた背中には紫色の足跡が張り付いていた。礼の服も足型のままの形でドロドロにとかされている。

サングラスの男はそれを邪魔せずにニヤニヤした目つきで見ていた。自分の仕事はもう片付いたと思っている。


礼は死にかけている。悪魔の存在も契約も、礼の命と共に消えようとしていた。


あの男の言うとおり、能力を使うには対価が必要だ。けれど、それを用意しなければならない契約者は動けそうにない。


美人の悪魔がそうしたのは、自分で考えたからというわけではない。

この場面ではそうしなければならないと思ったから行動したまでだ。

直前に見た映画雑誌のヒロインたちを羨んだからだ。


「悪いが、奪わせてもらう」

そう言うと、美女の悪魔は動けなくなっている礼の唇を強引に奪った。


サングラスの男は動揺した。純真な少女のようにキスシーンに驚いたわけではない。

彼は悪魔が異常な行動を取る時は、大抵よくないことが起きるとその身を持って知っていたからだ。


「対価の前払いだ!全部やる!すべてだ!

ありったけの毒を撒き散らせ!

あの悪魔を殺せ!」


サングラスをかけている男は、自分のポケットにしまっていたダイヤだけでなく、身に付けているものもすべて外し てヤモリ型の悪魔に捧げた。


さっきよりもさらに鮮やかで毒々しい紫に変わっていく。


口を開くと紫色をしたサッカーボール大の球が吐きだされる。

それはシャボン玉みたいにふわりと浮かびあがって、空中を漂っている。

ヤモリは次々にそれを吐きだして、礼と美人の悪魔の周囲に彼らを逃さないように配置されていた。


礼を片腕で抱えたまま悪魔が立ちあがると、鋭い爪の生えた方の腕で紫色の球をうざったそうに薙ぎ払った。

でも、触れただけで弾けて消えるはかないシャボン玉のようにならなかった。

三つほどのその紫の球を腕で弾こうとしたけれど、その凶悪な見た目をした腕の方が球形に抉られていた。

腕はその球が触れた部分だけ紫色に変わって、傷口は球形の拷問器具で抉られたかのようだ。紫の球を切り裂こうとした爪先も溶かされたかのように無くなった。



「オレの毒をくらって何でまだ生きているのか。そのガキにてめえが何をしたかは知らねえ。

だがな、跡形も無く溶かして消せば、どうしようもないだろ?」

サングラスの男は今度こそ勝利を確信していた。その声に落ち着きが戻って来ている。


一方礼を抱えたままの美女の悪魔は、自分の腕を不思議そうに見つめたまま動かなかった。

「……くだらん」

そうつぶやいた声は、元の陰人間の人間離れした声に戻っていた。


悪魔の腕の紫色の傷口が、ズルリと剥がれ落ちた。悪魔が自ら排除したのだ。

紫の毒が無くなった部分はゾワゾワと元の形に再生していった。


「アンタの能力は再生か? ヤモリの尻尾がまた生えてくるのと同じ。

それで契約者の命も助けたってわけか。でも、まだオレの毒の結界の中にいるのをわかってねえのか?

ただシャボン玉みたいに浮かんでいるわけじゃない。細かい操作は苦手だが、お前らに向かって集めるくらいならカンタンなんだぜ。

全部の球の毒で、再生能力よりも先に殺してやるよ!」


男が指さして合図をすると、ヤモリ型の悪魔がぎょろぎょろと目玉を動かした。

すると、一斉に紫色した毒の球が礼たちに向かって収束してきた。


「消えてなくなれ!跡形も無く!」

サングラスの男は叫んだ。


紫色の毒の球が礼たちに触れようとする直前、礼を抱きかかえていた悪魔の凶悪な形をした方の腕が、さらに邪悪に変形した。腕はヘビのようにうねり毒を避けながら伸びて、ヤモリの形をした悪魔の頭部と身体を複数の鉤爪で滅茶苦茶に切り裂いた。

更なる力を使った美人の悪魔は肩や首まで見た目が凶悪になっている。


「俺も知っているぞ。

契約者を殺されれば、その悪魔は死ぬ。

だが、悪魔を殺されても契約者は死なない。能力を失い人間に戻るだけだ」

そうつぶやく悪魔の声もまた、人間離れした不気味なままだった。


美女の悪魔の言うとおり、能力で作られた紫色の球体はすべて消えて無くなってしまった。


サングラスの男の目の前には、悪魔が立っていた。

男はそれまでの強気で攻撃的な態度はなくなり、悲鳴を上げながら逃げていった。

悪魔もそれを追わなかった。ただの人間に自分を傷つけられないことを知っていた。



いつの間にか気を失った礼が起きるまで、美人の悪魔が膝枕してあげるなんて気のきいたことができるほど、まだこの世界に慣れていない。礼の身体を力任せに揺さぶった。

礼が意識を取り戻すまで揺さぶり続けた。もはや暴行であった。




「おまえ、悪魔だったのか?」

まだ、めまいが残っている礼がそう尋ねた。毒のせいというよりも、揺り起こされたせいだろう。


「お前たちが勝手にそう呼んでいるだけだ。我々がそう名乗ったわけではない。

礼が呼びたければ、今後俺のことを悪魔と呼ぶがいい」

その顔から心情は読み取れない。


「人前で、おい悪魔!なんて呼びにくいだろう。

おまえ、名前は無いんだよな?」


「そうだ」


「じゃあ、俺が付けてやるよ。

……出会ったのが夕方だったから、ユウとかどうだろう?」


夕日が沈んでもまだ明るさの残る中、ユウと名付けられた悪魔は静かにそれを受け入れた。



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