愛する悪魔
ヤケノ
時計仕掛けの悪魔
第1話 契約
終業式の早朝。
今日学校に行けば、明日から夏休み。
部屋の中が早朝からバタバタしているのは、それに関係ない。
長期出張へ出かける少年の母親がスーツ姿で慌てて準備していた。
「スマホは持った? また財布忘れないようにね」
「財布? 鞄に入れたっけ?」
「机の上に置いたまま」
「あった!
あ、お金といえば生活費、一応引き出しの封筒に余分に入れて置いたけど、足りなくなったら銀行で引き出せばいいから」
「あれだけあれば一ヶ月は余裕だから、心配しなくていいよ」
「通知表、カメラで撮って送ってね。テストの点がよかったから成績良いのはわかっているけどさ、母親としての義 務っていうか、楽しみというか……」
「ハイハイ。それよりものんびりしていていいの? そろそろ家出ないとまずいんじゃないの?」
少年は動物の映像が流れているテレビ画面の時刻表示を指さした。
「うぉっと!もうこんな時間か。
それじゃあ行ってくるけど、何かあったら遠慮なく電話するのよ。
あんたが家事万能のしっかりしたいい子に育ってくれたのは知っているけど、一ケ月以上一人暮らしさせることになって心配しない親なんていないの。信頼とは別問題よ。
飛行機使えばすぐ帰ってこられる距離なんだから。
あと、メールでいいから毎日ちゃんと連絡よこすこと」
「その話はもう何度もしたよ。そっちの住所も、職場の連絡先も確認した。
むしろ母さんの方が心配だよ。暑いし、無理しないでね」
母親は少年を抱きしめた。
「じゃあ、行って来るから」
少年の方は頭をグシャグシャになでられながらため息をついた。
「いってらっしゃい」
一ケ月前から母親に長期出張の話がでていた。
「その期間はちょうど夏休みだし、一人で留守番しているよ」
母一人子一人の母子家庭で、日頃から家事の全てをこなしてした小学五年生の息子、阿九礼にとっては一ケ月の一人暮らしはたいした問題じゃない。健康面の問題も無いし、住んでいる場所の治安もよい。
母親の足を引っ張りたくないと思っている礼にとって、この選択肢以外ないと考えている。
ガチャンと鍵の閉まる音がして、母親は出かけていった。
それから、朝食の後片付けをして礼も学校に行った。今日は通知表をもらいに行くだけだった。授業も無かった。
先生からの夏休みの注意や宿題の配布、友人たちと夏休み中の遊びの約束をして家に帰った。
「ただいま」と言っても誰も「おかえりなさい」を言ってくれないのは彼の日常だ。
それをさびしいことだと思ったことはない。家はマンションで、セキュリティーもちゃんとしている。家を開けていることが多くとも、仕事を多くこなす母を礼はちゃんと尊敬している。
さっそく数字の五の並んだ通知表をカメラで撮って送る。五段階評価だから五が最高だ。
母からの返信は「さすが私の自慢の息子(^_-)-☆」だった。
尊敬はしているけれど、それを口にすることはほとんどないのは、照れくさいというのもあるけど、一番の理由はこんな感じの明る過ぎる母だからだ。あんな感じでも自分のために仕事をがんばってくれている。
夏休み初日から怠けてしまうと、その後の一人暮らしの生活すべてがだらけてしまいそうだったから、昼食を手早く 素麺で済ませさっそく宿題に取り掛かる。
七月中には全部終わらせて、あとは夏休みを満喫しようと思っていた。夏休みの最終日にまとめて宿題を終わらせるのは彼の性分に合わない。最後は日記だけを残してすべてを片付けるのだ。
集中して宿題を片付けていたら、夕方になっていた。夏は日が暮れるのが遅いから外はまだ日が高くて、なにより暑い。
今夜は一人だ。作る夕食も一人分。
冷蔵庫の中の物だけで十分足りるけれど、毎回一人分の料理を作るのも面倒に思えた。しばらくの間は宿題の方に集中したかった。
多めにカレーを作っておこう。そう思ったけれど、カレールウがちょうど切れていた。どうせだから、他の食材も買っておこう。そう考えて礼は保冷バッグを持って近所のスーパーへ出かけた。
ポイントカードもきっちり使いこなして、カレーの材料を買った。
それと折角の夏休みで、一人暮らしなのだからと少し高めのアイスも買ってみた。
帰り道の途中、ガタンと何かが倒れる音が聞こえた気がした。
気のせいかもしれない。ネコがものを倒してしまっただけかもしれない。
でも、もしも熱中症で誰かが倒れていたとしたら命にかかわることだ。
保冷バッグの中にはスーパーでもらった氷も一緒に入れてある。礼は音のした方へと向かった。
夕日が赤く照らし、蝉の鳴き声が風景の一部になっている。
そこは廃工場だった。
いつもは固く閉ざされているはずの扉が今日は開いている。
鎖と南京錠が地面に落ちていた。
礼はそっと中を覗き込んだ。窓からの夕日がうっすらと廃工場の中を照らしていた。
中にいたのは四人。
一人の男に対して、他の三人が暴力を振るっているように見えた。
一人は白い麻のスーツを着た派手な感じの若い男。二人目はこの暑い中コートを羽織りポケットに手まで入れて、 マスクまでして顔のわからないほど深く帽子をかぶった男。三人目はおなかが膨らんでいてサングラスをかけた安っぽい黒スーツの男だ。暴行されている男はほこりっぽい床に転がされて、蹴りを入れられている。
会話の内容は聞き取れない。白スーツの派手な恰好の男が笑い声をあげているようにも聞こえる。
礼が早くここから離れて、警察に連絡しようと思ったその時だった。
年齢は一番若く見えたのに、派手な白いスーツの男が三人のリーダーのようだ。
おなかの膨らんだ黒スーツの男に命令して、床に転がされていた男を無理に立たせた。
リーダーが近づいて、その男に何かをした。礼の位置からは男の背中に隠れてよく見えない。何かを言っている気がする。
リーダーの派手な男が離れると、暴行されていた男の身体に異様なことが起きた。
男の身体がだんだんと透き通っていく。体は夕日に照らされて赤く光り輝いて、そしてゆっくりと前のめりに倒れた。ガシャンとガラスが砕けるように男の身体は粉々になってしまった。
その奇妙な出来事を黙って見ていた礼は、動くことができなかった。
「目撃者を殺せ」
いつからだろう、リーダーの男は覗き見していた礼の存在に気付いていたようだ。
壊された男を無理矢理立たせていた腹の出たサングラスの男に、大きな声で命令する。
その声に焦りの色はなく、慣れた仕事をこなすかのようだった。
礼は、次に自分があの男のように殺されてしまうんじゃないかとおびえながら、後ろを振り返りながら走って逃げた。
でも、このまま道を走って逃げても相手は大人だ。いずれ捕まってしまう。
今から電話で警察を呼んでも、きっと間に合わない。警察が到着したころに見つかるのは砕け散ったガラスの破片だけだ。
なにより、人がガラスにされて殺されたなんて子供の言葉を誰が信じてくれるだろう? 通報してもいたずらだとしか思われない。
この道は普段人通りが少ない。周囲に人の気配もなくて誰にも助けを求められなかった。
礼はゴミ捨て場の物陰に隠れた。
ゴミ捨て場には燃えるごみのゴミ袋がいくつかと、縛ってまとめられた映画雑誌や古い黒の額縁に入った絵が捨てられている。息をひそめて、絵画の影に隠れた。
しばらくして、礼の隠れている前を走る革靴の足音が通り過ぎていった。
「助かった、のか?」
ため息をついて立ち上がろうとした時、額縁の中の絵が目に入った。
とにかく黒い絵だった。
星も無い夜の闇を描こうとした絵だと説明されたらそうだと信じてしまいそうなほど暗い。
その絵の中心に、人の影のようなものがあった。
同じ黒なのに、礼にはそれだけが浮かび上がっているように見えて目が離せない。
そして、その動くはずのない絵の中の影が動くのが見えた。
夕焼けのすべてが赤い風景が、いつの間にか黒に塗りつぶされていた。
周りをみると、すべての色を混ぜ合わせて作った黒い絵の具で描き殴ったみたいに深い世界があった。
この世界は、黒い嵐で覆い尽くされている。生きた線で創られた音のない嵐の世界。
この景色には見覚えがある。その直前まで見ていた捨てられた絵の中の世界だ。
赤い夕日に照らされても変わらずに黒い異様な絵。
礼は気づいた。これがあの絵の中の世界だというのなら、あれがいるはずだと。
礼がそう考えた時、それまでそこにいなかった人物が突然現れた。
いや、ずっと目の前にいても認識できなかっただけなのかもしれない。
そんな曖昧な存在だった。
黒い人間の形をした陰は、どうして礼がこの絵を見つけたのか理由を知っているようだ。
偶然、事件現場を目撃してしまい、口封じに殺されそうになっているという突然現れた不幸。
陰人間の言葉は、空気の振動や耳を通さずに直接脳に注ぎ込まれるかのようで不快だった。
「この出会い、この取引は契約だ。
力を貸してやろう。
その代わり、対価をよこせ。
愛する心を」
ここで残念なことに、悲しい勘違いが生まれてしまった。
相手が子供だから仕方がなかったのかもしれない。
「アイス? そんなんで俺を助けてくれるの? いいよ」
礼は逃げる時も放さなかった保冷バッグの中からカップアイスを取り出し、丁寧にふたを外し、プラスチックの匙と一緒に 差し出した。
ほんのりと融けかけて、実に食べごろの硬さになっていた。
「はい、どうぞ」
まだ日が落ちていない。
あの世界の中をさまよい、黒い何かと話した時間を考えるともっと暗くなっていてもいいはずだ。それまでのことすべてが夢だった。そう思うしかないほど、現実感がない出来事だったから。
どれが夢だったのか。
どこから夢なのか。
どこまで夢なのか。
気付けばゴミ捨て場の側に座り込んでいた礼は、紐で縛ってまとめられていた古雑誌の隣を見た。
そこにあったはずの黒い額縁の絵はない。あの異様な黒い絵は現実ではなかったのか。
次に、保冷バッグの中を確かめてみた。たしかに買ったはずのアイスが無くなっている。
夢じゃなかったのかわからなくなった時、背後に人の気配を感じて振り返った。
陰人間は渡されたアイスのカップを持ったまま突っ立っている。
食べ方がわからないのか、そもそも食べられないのかわからない。
得体の知れない異形の存在だけれど、不思議とそれを怖いとは思わなかった。むしろアイスを受取って困っているようにも見える。こんなはずじゃなかったのにと。
「おまえ、何なの? 名前は?」
礼は答えが返ってくるとは思っていなかったけれど、一応尋ねてみた。
「俺自身も知らない。俺たちの正体を正確に表す言葉をこの世界の者たちは持てない。
名前も無い。これまで必要なかった」
陰人間の話声は人間離れしていたけれど、会話は成立した。
周囲には他に誰もいない。追いかけてきた男は見失ってくれたようだ。
不思議なことの繰り返しで感情が鈍っているのかもしれない。これまでのことをすべてなかったことにして、礼は自分の家に帰ることにした。
礼は家の方へと歩き出した。
問題は、陰人間も礼の後をつけて歩き出したということである。
「何でついて来るんだ?」
「それが契約だからだ。力を貸してやらねばならん。側にいて当然」
礼は困った。これまで一度たりとも捨て猫や捨て犬を拾ったことがない。
自分の住んでいる部屋はペット禁止だ。
幼い時から母に余計な迷惑だけは掛けないようにしようと、どんなにかわいそうでも見捨ててきたのだ。
「そんな見た目じゃ家まで連れて帰れない。アイスのことなら気にしなくていいから、ついてこないでくれ」
「了承」
礼はわかってくれたかと安心したけれど、そうじゃなかった。
陰人間はアイスをカップごと丸のみにすると、固く縛ってあった雑誌の紐を指先で軽く引きちぎった。
パラパラとめくって中の写真を見ている。表紙に大きな見出しが付いている。昔の名作映画の美人女優特集号らしい。
陰人間は雑誌を最後まで見終えると、ボトリと下に落とした後まったく動かなくなった。
そしたら、陰人間の体の表面が急などしゃ降りに打たれた地面のように別の何かに塗り変えられていく。
すべてが形を変え終える。
そこに立っていたのは、不気味な陰人間ではなかった。国籍人種年齢不明の美女が立っていた。
様々な時代の複数の美人女優の良いところを集めて、磨きをかけたような姿をしている。黒い髪と白い肌はもしかすると雑誌の写真に白黒映画の特集記事の比率が多かったせいかもしれない。
服装はSF映画と時代劇と白黒映画時代の衣装をバラバラに組み合わせたみたいだ。なぜか整合性が取れてとても似合っていた。
「契約は成立した」
そう言った声は元のままだった。
「あー、あ~、A-、アー」
発音練習をするように徐々に声も変えてから、見た目に合った美人な声で言い直した。
「契約は成立した」
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