第4話
今がこんな状況じゃなければ、我ながらドラマチックな出会いだったのよと、彩音は誰かに自慢したくなるくらいだ。
煮物をぐつぐつと作っていた。途中で陽太がのっそりと起き上がり、無言でふらふらとトイレに入っていった。彩音の存在を意識することもなく、まるで夢遊病者のようだった。ボサボサの髪は野良犬じみていて、モロゾフの方がまだ清潔感がある。陽太はトイレに入ると大でも小でも便器に座り、そのまましばらくこもってしまう。何が楽しいのか後をつけていったモロゾフがトイレの前でワンワン吠えて、それから10分くらいして水の流れる音が聞こえた。陽太は先程よりも少しだけ開いた目で戻ってくると、ようやく彩音を見つけたかのように、
「あ、おかえり。彩音」
にっこりと笑って言った。帰ってきたのはもう2時間も前だ。彩音は酢の物にするための
「モロゾフ、散歩行こうか。散歩」
モロゾフはハッハッと舌を出しながら二本足で立ち上がると、陽太に寄りかかって尻尾を振った。陽太が唯一外出しようという気を起こすのが、モロゾフの散歩だ。医者からは良い気分転換と精神的なリハビリになるから、積極的に外を歩かせなさいと言われている。働いて、飯を作って、「2匹」を養い、支える彩音にしてみれば、寝て起きて散歩だなんて能天気極まりない話だ。腹立たしいが、でも、このままずっと部屋の中でだらだらされるのも余計にイライラする。
「いってらっしゃい。気をつけて」
形式的にそれだけ告げた。
「うん。行ってくるよ、彩音」
陽太はそう応えてリードを手に取り、そのまま玄関を出ようとした。彩音は慌てた。
「ちょっと! せめて着替えて、髪くらい梳いてから外に出て!」
叫ぶように言い、蛸の塩気が馴染んだ指先で陽太のよれよれのTシャツを掴むと、リビングに引っ張り戻した。水道で手を洗い、スポーツウェアを出して着替えさせ、濡れたタオルでひどい寝癖の爆発頭をクシャクシャと拭いてから、櫛で髪を梳いてあげた。櫛が途中で引っかかると
「いて、いて、いててて彩音」
と、陽太は言いながら力なく笑った。そのときばかりはつられて彩音も思わず笑ってしまった。人はストレスで禿げてしまうとよく聞くけれど、陽太は毛量だけは多かった。
「ありがと彩音。いってくる」
櫛を興味深そうにモロゾフが見ていたので、お前の毛並みも梳いてやろうかと近づけたら一目散に玄関の方へ逃げていった。
陽太の細く長い毛髪が櫛に何本か絡まっていた。駅員をしていた頃の陽太はずっと短髪だった。一日中帽子をかぶっているから長髪にすると蒸れて暑苦しくなると言っていた。今は髪だけでなく髭も伸びっぱなしである。酢の物を作り終え、後は煮物をもうしばらく弱火で煮詰めるだけとなり、彩音は菜箸を置いた。誰もいない部屋の中、リビングのソファからこちらを向いて笑う、かつての働き者だった陽太の幻影を思い浮かべた。
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