第3話

 電話に出たのは陽太ではなく別の駅員だった。水分と餌を与えたら元気になったという報告を受けて、とりあえずホッと安堵した。やはり飼い主は現れず、問い合わせの連絡も一切入っていないということだった。性別も年齢も分からないが、姿のない無責任な人間に強い怒りを覚えつつ彩音は電話を切った。その直後に頭の中に浮かんできたのは、小さなモロゾフをこわれものでも扱うように丁寧にケージから出し、身体を温めようとタオルを敷いた両手で優しく包んで撫でていた、駅員の陽太の姿だった。

 厄介なことにはあまり首をつっこまない性格の彩音であったが、それから約一ヶ月もの日々が何の連絡もないままに過ぎ去ったのでさすがに気になっていた。駅で飼われているような様子も見受けられず、やはり保健所へ連れていかれてしまったのだろうかと思うと、胸が痛んだ。

 そこで彩音はできるだけ人の少ないときを見計らって、ホームに立つ陽太に声をかけた。不安げな彩音の心中を察して、陽太は優しく微笑んでくれた。モロゾフは法律に従って自治体へ届出がされた。この場合、三ヶ月経っても飼い主が現れなければ、所有権は拾い主に移るということらしい。当然、その旨の相談は彩音に連絡が入ることになっていた。もしも彩音が飼い主になることを拒否して、他に貰い手が現れなかった場合は、残念ながら保健所行きになると言う。

 彩音は子犬を捨てた人間に憤怒しながらも、自分が飼い主になる覚悟は持つことができなかった。第一に彩音が当事住んでいたアパートはペットの同居を禁じていて、内緒で猫を飼っていた上の階の住人が別の住人に告げ口されて部屋を出ていってしまったほどである。

 苦虫を噛み潰したような表情の彩音を、背の高い陽太は見下ろしながら優しい声で諭すように言った。

「大丈夫です。実は今、僕が預かってるんです。飼い主が現れず、金原さんも飼えないなら、僕が責任を持ってあの子の親になりますから」 

 彩音は陽太を見上げた。二人の視線が重なる。これは後に恋人同士となった陽太に打ち明けられたことだが、そのときの彩音の瞳こそ、まさに拾われた子犬のようだったらしい。心底安心した彩音は深々と頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 彩音の犬でもなければそういう経験もないのだが、自分の子どもが嫁いでいく気持ちってこんなだろうかと思った。

 彩音は陽太に背を向けて、いつもの通勤電車、その乗車位置へと歩き出した。ふと陽太が、先ほど自分の名前を呼んでくれたことを思った。でもそれは別に不思議な事じゃない。書類に名前を書いたし、自分から連絡も入れている。名前くらい、覚えられていて当然だった。その他に意味なんてない。彩音の歩幅は変わらず、歩みが止まることもなかった。

 呼び止めたのは、陽太だった。

「あ、あの!」

 彩音は胸の内で小さくガッツポーズをした。なんとなく、陽太が呼び止めてくれるような、そんな気がしていたからだ。しかし、根拠のない期待は失望で終わる可能性もある。だからこれは賭けだった。ここで何もなければ、この先だって何もない。

「よかったら、今度見に来ます? まだあれからたった一ヶ月ですけどね、大きくなってますよ」

 振り返った彩音の瞳に、優しくて凛々しくて、少し照れくさそうな駅員の姿が映った。

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