第2話

 陽太が人間でありながらモロゾフに似てきたのは仕事を辞めてからだ。いや、正確には休職してからがモロゾフ化の始まりになる。それまでの陽太は今の体たらくからは想像もつかないほど、仕事に精を出す男だった。

 毎朝のラッシュ、せわしなく行き交う人ごみの中でホームに凛と佇む姿は使命感に溢れていた。指さし点検で安全確認、波のように押し寄せる乗客を迅速に的確に誘導し、扉を閉めて、電車を送り出す。客同士のトラブル、路線の問い合わせ、落し物、痴漢や物取りの犯罪処理に、迷子の世話まで。

 とても自分にはできないと、陽太の保護者になった今でも彩音は思う。

 悪天候でダイヤが乱れたりすると、利用客の怒りの矛先は駅員に向かう。理不尽この上ないクレームだが陽太は物腰柔らかく、適切に応対する。それでもしつこく難癖をつける見知らぬ中年男に、見かねた彩音が首根っこを掴んで「仕方ないでしょ!」と、一蹴したことがあった。陽太が多くの利用客の中から彩音の顔を覚えたのはそのときだ。いい歳して出来の悪い子どものようにむくれた中年男は、ぶつくさ言いながらもすごすごとその場を去った。陽太は困ったように笑った。

「ありがとうございます」

 制帽の下の表情が破顔したとき、彩音の心臓が小さくトクンと打った。感情の赴くまま中年男に凄んだ自分が途端に恥ずかしくなって、赤面を隠すついでに会釈をして彩音もその場を去った。

 毎日、毎朝、晴れの日も、雨の日も、いつだって陽太は彩音の乗る通勤電車が来るホームで、同じ場所に立ち続けている駅員だった。体型も、今より10kgほどはスリムだっただろう。

 互いの顔を覚えたくらいで、恋がはじまるわけではない。彩音にとって陽太は毎朝見る風景の一部の人に過ぎず、ちょっといいなと思う程度の駅員でしかない。そのときはまだ、名前すら知らなった。陽太も同様に、彩音は電車から毎日多く出入りする不特定多数の乗客の一人だった。多忙を極める日々の業務は、その中から彩音を意識して探し出す余裕など許してはくれない。

 そんな二人を結びつけたのがモロゾフだ。当事はまだ両手のひらを合わせたくらいのサイズしかなかった。モロゾフは駅構内の女子トイレで、持ち運び用のケージに入れられて放置されていた。これを見つけたのが彩音である。普段、駅でトイレに行く習慣はなかった。その日はたまたまいつもより早めにホームに着いて、時間つぶしで立ち寄っただけだった。モロゾフは鳴くこともできないくらいに衰弱していたので、入ったトイレがひとつでも違っていたら、彩音が気づくことはなかっただろう。

 つまり、今の陽太との関係も始まっていなかったはずだ。

 モロゾフはケージの中で、小さな身体を横たわらせ、かろうじて呼吸をしているような状態だった。彩音は用を足すことも忘れて駅員を呼んだ。駆けつけたのが、陽太である。陽太は現状を把握するとすぐにタオルと水筒の蓋に注いだ水を持ってきた。モロゾフの口の周りを湿らせてあげながら、熱心に身体を擦り、タオルでそっと包み込んだ。

 動物は拾得物として扱われることになるそうで、彩音はまだ会社に間に合うことを確認し、電車を一本遅らせて書類に必要事項を記入した。飼い主が見つかった場合の電話連絡を承諾して、そのまま出勤となった。

 この時点ではまだモロゾフが捨てられていたのか、それともただ間抜けな飼い主に置き忘れられていたのか(その可能性は低いと考えられるが)はっきりしていなかった。彩音の気がかりはそんなことよりも、モロゾフの容態である。飼い主が見つかるまで、あの弱りきった小さな命が無事でいられるのか、心許なさは尋常ではない。そもそも捨てられたのであれば、飼い主が現れることもないわけだ。引き取り手がいなければ、たとえ無事に元気になったとしても保健所行きは免れないだろう。

 さほど犬好きというわけでもなかったが、彩音は仕事中もあの苦しそうな子犬の呼吸が忘れられず、居ても立ってもいられなくなって休憩時間に駅へ電話を入れた。

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