ワタシプレゼンツ

稲美 圭

第1話

 犬は飼い主に似てくるというが、人間の方から飼い犬に寄せて似てしまうなんてことがあるだろうか。金原彩音かなはらあやねは買い物帰りのビニール袋を両手にぶら下げたまま、リビングのカーペット上、くっついて横たわるふたつの生物を見比べて首を傾げた。

 昼下がりのまどろむ陽射しに照らされているのは、シャツの裾が胸まで捲れ上がった恋人の森陽太もりようたと、犬のくせに仰向けに寝るのを好む柴犬のモロゾフだ。そっくりな白い腹を両者とも無防備にさらけ出し、呑気ないびきを天井にぶつけている。ふたつの生物はそれぞれ人間と犬とに分けて称されるはずだが、まとめて「二匹」と犬側に寄せたほうが彩音にはしっくりくる。

 そのうち、二本足で直立歩行をする側の一匹に、彩音は時々無性に蹴り飛ばしたくなる瞬間がある。まさに今だ。

 彩音は右足にぐっと力を入れた。蹴り飛ばすための力ではなく、その衝動を抑えるための力だった。

 いつまでこんな生活がつづくのだろう。未来を案ずれば切りもなく積み上がる不安要素の数々は、かつて思い描いた幸福な暮らしを闇の奥へ雲隠れさせた。だが、カーペット上の二匹には未だなんの危機感もなく、まるでこの平穏が永遠であるかのようにスヤスヤと、現実とはかけ離れた別世界を夢想しつづけている。

 帰宅した彩音にも気づかない。部屋の扉を開けたときにモロゾフの耳が一度だけピクリと動いたが、目を覚ます素振りさえ見せなかった。彩音はキッチンに移動して、ビニール袋の中から食材を取り出した。無性に腹が立つ。自分を落ち着かせるためにはこのむしゃくしゃした感情に、正当な理由を持たせる必要があった。

 部屋に入ってきたのが自分ではなく、別の人間だったらどうするつもりなのか。彩音はそう考えることにした。オートロック付きマンションの七階なので可能性は低いが、何が起きるか分からない人間社会を甘く見てはいけない。万が一部屋に入ってきたのが強盗だったとしよう。それでもこの二匹は、家中を荒らす物音も意に介さず、気持ちよく眠りつづけるに違いない。もしも部屋の異常な様子に気づいたとしても、モロゾフはきっと強盗をお客さんと勘違いして尻尾を振るだろう。陽太は寝ぼけ眼でゆっくり状況を理解すると、すぐに何もかも諦めて「どうぞ好きなモノを持っていってください」と、お茶のひとつでも出しそうだ。

 つまり、この家で頼りになるのは彩音しかいない。ならばせめて最低限の危機感は持っておいて然るべきである。それなのにこの有り様だから、不機嫌になるのは仕方ない。

 彩音はわざと大きな音を立てながら、出した食材をごそごそと冷蔵庫にしまいはじめた。冷気を顔に浴びながら、こんなはずじゃなかったと、数え切れないほど繰り返してきた言葉を今日も心内でかき混ぜる。食品を詰め込んで扉をバタンと閉めた。陽太という男が、モロゾフの引き合わせてくれた彼氏でなかったら、今頃自分はどうしているだろうか。

 最後にドッグフードを取り出したとき「く~ん」と、彩音の母性をくすぐる甘えん坊の声が聞こえた。

 いつの間にか起きていたモロゾフが、キッチンのカウンターの陰から彩音の様子を窺っていた。彩音の機嫌があまり良くないことを察しているらしく、顔だけ半分出している。心の靄が、油汚れにアルカリ洗剤を垂らしたみたいに、ぱっと晴れる。その姿を見てしまったら憎たらしいほどにかわいくて、愛らしくて、全てがどうでも良くなってしまう。

「モロ、ただいま!」

 彩音は両手を広げた。モロゾフは安心した様子で「ワン!」と一度吠えて、ちぎれんばかりに尻尾を振りながら彩音に駆け寄ると、胸の中に額を押し付けてきた。彩音の心は表情と一緒にとろけてしまう。モロゾフの柔らかな身体を撫で回しながら、この毛むくじゃらの存在だけですべてを許せてしまう自分が情けないやら、それでも癒やされるやらで、安堵の混じった溜息が漏れた。

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