弐
まじない屋にあったのが、少し前の事。
俺は『駿河屋』と大きく看板を掲げている大店の前に立っている。
ここらへんで一番大きいであろう大店で、普段呉服屋になど縁のない俺が店先でどうしようかとうろついていると、中から小僧が出てきて店の中に引っ張り込まれてしまった。
万事承知というかのように座敷に通され、その途中に女中と入れ替わり、客間に通された。
妙にやわらかい座布団の上で座っていると、女中が麦湯を持ってきた。
「旦那様が少し手が離せないので、どうぞくつろいでいて下さいと」
ゆったりとした口調で、若い女中は麦湯を俺に出すと部屋を出て行った。
出された麦湯に口を付けながらぼんやりと待っていると、汗を拭きながら壮年の男、この呉服屋の主人である長兵衛が奥から出てきた。
「いやあ、すいませんね。この暑いのにわざわざお越しいただいて」
「いえ、仕事ですので」
挨拶もそこそこに、何故俺をここによんだのか話始めた。
「実は…泥棒がいるようなんですよ」
「はあ」
彼の話を要約するとこうだった。
曰く、離れには彼の幼い娘がいる、その娘の所持品が、ここ何週間か徐々になくなっていっていることがわかったのだという。
「厳密にはもっと前からなのかもしれません、それが顕著になってきたのはここ最近のことなんです」
「つまり、発覚したのが何週間か前、ということですか」
「ええ、お恥ずかしい話ですが家内も私も娘の事は他のものにまかせきりで」
汗をしきりに拭きながら本当に困惑している様子であった。
「娘は小さいころから体が弱くて、今年も夏風邪を引いてしまいましてね、床に臥せっております。それが不憫でしてね、あまり甘やかすのも良くないとわかってはおりますが、あの子へのせめてもの慰めにと買った品々まで無くなってしまうとは…」
長兵衛はそういって俯いた。
子供を想わない親など何処にいるだろうか、実際に子供をむげに扱う親は仕事柄、飽きるほど見てきたがそれでも彼の愛情は本物であると見て取れた。
「失礼します」
暫しの沈黙の後、先ほどの女中が現れ、高価そうな湯飲みに入った長兵衛の分の麦湯を持ってきた。
できた女中のようで、俺の麦湯が減っているのを見ると持ってきた鉄瓶から中身を足し、深々と礼をすると出て行った。
長兵衛はその麦湯を一気に飲み干し、湯飲みを置くと俺を見つめて言った。
「親分、手前勝手な頼みとは重々承知しております。家内の事ともわかっております、ですが何卒その盗人を捕まえてもらいたいのです」
がばっと体を伏せ、畳に頭を擦り付けながら彼は俺に土下座をした。
「頭を上げてくださいよ、長兵衛さん」
正直、この話は
岡っ引きというものは、それだけでは食べていけないにしろ、あまり暇ではないが、なにしろ人格はアレだが腕は確かなまじない屋の預言の件も気になっていた。
「お引き受けいたしましょう。どうせ、今は何も抱えていない暇な身ですから」
嘘は言っていない。
現在進行形で抱えている案件は無い。
しかし、だからと言ってサボれるというわけではない、こういう時こそ岡っ引きというものは仕事をしなければならないのである。
「それで、家人の中に盗人がいるというのは?」
長兵衛はうつむきがちに首を振る。
「それはあり得ません。真っ先に家じゅうの者達の持ち物を調べ上げ、出入りの貸本屋にまで無理を言って調べさせてもらいました。思いつく限りではすべて探しました」
溜息を吐く。
ここは高価な呉服を扱う大店で、今は病弱な一人娘の所持品が無くなっているという事態だ。
家人の中に盗人がいるとしたらそれを内々で処理したいと考えるのは当然だ。
俺がここに来ているということはすなわち、もうすでに手詰まりの状態であるということを暗に示唆しているのである。
「わかりました。できたらでいいのですが、御嬢さんにお話をお聞かせ願えませんかね?」
「娘に、ですか? それは何度も私どもも尋ねましたが何も知らないようで」
「自分は、この駿河屋の人間ではございません、だからこそ話せることもあると思います。もし、犯人が家内のものであるとするならば、被害者である御嬢さんがそれを案じて話したがらないかもしれないかもしれません」
「……わかりました、おみつ!」
長兵衛は、俺の言い分に少しの間黙り込んだ後、やがて決心したように女中を呼んだ。
少しもしないうちに、先ほど麦湯を持ってきた女中、おみつがふすまを開けて入ってきた。
「はい、なんでございましょう」
「親分さんを律のところへ案内してやってくれ」
「かしこまりました」
長兵衛は改めてこちらに向き直ると、鋭い視線をこちらに投げかけた。
「申し訳ありませんが、娘は今も床に就いております、本人の具合が悪い場合は……」
「わかっております、その時はまた日を改めて」
「それとこちらをお納めください」
長兵衛が懐に手を入れ、取り出した包みを俺に手渡した。
「少しばかりで申し訳ないのですが、これでどうか娘をよろしくお願いします」
差しだされた包み、袖の下を俺は長兵衛に押し戻すように返した。
「これはいただけません」
岡っ引きという商売ははっきり言って儲からない。
独り者の俺には関係のない話だが、家族を持つその大半が、自宅で飯屋を営むなどして補っている。
俺も常日頃は有難く頂戴し、日々の糧にしつつお役目に努めている、だが今回は別だ。
「何故でしょう?」
「私は今回の件で盗人を絶対に捕まえられる、という確信はございません。勿論、最大限の努力はさせていただきますが今回のように、確信がない場合、お心づけは頂かないと決めているのです」
長兵衛は、袖の下を懐にしまいなおしながらただ、そうですかとしか答えなかった。
「おみつ、律の具合がいい様だったら親分さんを離れに案内させてあげなさい」
「かしこまりました」
「では、私はこれで」
長兵衛は背中を丸めながら、みつの横を通って部屋を出て行った。
「ご案内いたしますね」
俺は女中に促されるままに立ち上がり、部屋を出る時に長兵衛の湯飲みだけがうっすらと汗をかいているのを目に留めながら部屋を後にした。
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