しあわせなお嬢さん
はるゆき
壱
初夏をすぎた糞暑い昼日中、天下の江戸の町で十手を預かる岡っ引きの俺は汗を足取りも重く歩いていた。
あまりの暑さに通りの人通りはまばらで、長屋のほうからは子供達が行水をしているのであろうか、水の音と甲高い歓声が聞こえてきている。
「よう親分、こんな暑い中ご苦労様だね」
聞き覚えのある声に呼ばれて振り向いた先には、飯屋の軒先で酒をあおっている着物を着崩した色白な優男風の人物が暢気そうに団扇で自分を仰いでいた。
「手前こそ昼間っから酒たあいい御身分だな、まじない屋」
まじない屋、と俺が呼んだヤツは、肩を竦めながら笑った。
「いいんだよ、臨時収入が手に入ってね。どうだい親分おごるからちょっと話相手でも」
「俺は今から仕事なんだよ、お前さんの暇つぶしにかまってられねえよ」
俺は言いながらも、この炎天下を歩くのにも疲れていたので渋々まじない屋の隣に座ると彼の団扇をひったくってやった。
こっちは仕事をしているんだから罰はあたるまい。
「素直じゃないね、全く」
「それよか、偉く景気がいいじゃねえか。まじない屋ってのは何時からそんなに儲かる商売になったんだ?」
手元の湯飲みには小さく透明に透き通った玉が入っていて、目の前の優男風が湯飲みを傾ける度に涼しげな音を立てているようであるのが見て取れた。
「なあに、この季節みんな怪談話をしたがるんでね。お金持ちの御屋敷に出向いて仕事の話をするだけで銭とご飯をくれるんだよ、ボロイ商売だね全く」
まじない屋はけたけたとおかしそうに笑った。
常日頃からおかしなやつだとは思っていたが、酒が回っているせいかそれに拍車がかかっているようだ。
「景気がよさそうで何よりだがちったあ節制しろよ。前みたいにぶっ倒れても俺は介抱しないからな」
溜息を吐きながら目の前の人物の湯飲みを持ち上げると、それがひやりと冷たい事に気が付いた。
こんな飯屋の軒先で炎天下に置かれているにも関わらず、それはまるで冬の日に水を入れておいたかのように冷たかった。
「気が付いたかい」
にやりとまじない屋が笑う。
「ちょっと口止め料でね、その中の透明な玉はどんな暑いときでもひゃっこくてね。大きなものを冷やすのにはちょっと小さすぎるが、冷たい物を飲んで涼をとるにはもってこいなんだ」
「どこの物の怪から貰ったのか知らないが、大丈夫なのか、それ」
「大丈夫さ、なんたって口止め料だしね」
何の、とは言わないあたりにこいつの底知れ無さと胡散臭さをひしひしと感じる。
あまり関わりたくないのも事実だ、団扇を押し付けるとさっさと退散しようと立ち上がった。
「親分」
「まだ何かあるのか」
人差し指を立てて、子供が内緒話をする時のようにまじない屋は言った。
「お節介は禁物だよ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ、君は『視える』し素質はあるんだけどね。まずそのお節介焼きを直さないと」
「それこそ余計なお世話だっつの」
余計な道草を喰ってしまった事を悔やみつつも、その忠告を頭に留めておくことにした。
ああみえて優秀なまじない師ではあるし、嫌な事にあいつの忠告は外れたことがない。
「何があるってんだよ、全く…」
面倒事に巻き込まれないことを祈りつつ、俺はまた太陽の照りつける中を目的地を目指すことにした。
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