持たざる者はここにいる
目を覚ましたとき、視界が一面真っ赤だったので驚いた。
重い頭を振って眠気を払う。水平線の上に老いた太陽が差し掛かり、空と海が融け合っているのが見える。
「起きた?」
明里の声が、背後の高い位置から聞こえた。車椅子で生活を始めた当初はそれに戸惑ったが、今はもう慣れた。ただ、相手の顔が見えないのが、少しだけ不安だ。
「……うん。起きた」
眠るのは怖かった。昔の夢を見るからだ。目覚めるのはもっと怖い。目を覚ますと全てが終わっていた、あの時のことを思い出すからだ。
白い部屋。白いベッド。病院特有の、無音の中にどことなく漂うなにかの気配。
だから、私はいつも寝不足だった。起きている時には小説を書き散らし、眠くなったら無水カフェインを貪り、コーヒーと栄養ドリンクを飲みながら、眼を血走らせて画面に向かった。
その時間は苦痛だったけれど、その苦しみを感じている間は、他の苦しみを忘れることができた。人間はふつう、複数の苦痛を個別に評価できない。
「ちょっと無理し過ぎ。幾ら小説が書けないからってさ……それじゃ、書けるものも書けないよ」
「うん……」
明里は何も知らない。私の家族について。私が小説のためだけに徹夜を繰り返しているものと思っている。実際、私にはそれほどの情熱はない。
確かに、私が小説に固執しているのは事実だ。日常を喪失した私にとって、物語を生産していくことは甘い癒しであり、心の拠り所だった。それが他者の模倣という形を取るとしても。決して誇れるものではなくても。
「私はね、まといの小説、好きだよ」
「……私は、そうでもない」
けれど、私の心はそれほど強靭ではなかった。悔しさに唇を噛み締めることは出来ても、地道な努力を積み重ねることは困難を極めた。私は向いていないのだ。
太陽が水平線に沈み、空から赤色が消える。代わりに、病んだ紫が帳となって降りてきて、夕焼けの残滓を拭い去った。
私たちはしばらくの間、徐々に濃くなっていく夕闇を見つめていた。お互いに何か、ぽつりぽつりと言葉を発したけれど、結局それはただの独り言に終わった。終わって、何もない時間が流れた。
「……帰ろっか。少し、寒くなってきたね」
私は返事をしなかった。明里はじっと、私の返答を待っているようだった。
繰り返すけれど、私は向いていないのだ。
もちろんそれは、小説を書くことに、なんて意味ではない。
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