もしも書くことができたなら

「言っちゃ何だけど、この書き出しは駄目だ」

 真弓は原稿を投げ出した。さっき読み始めたばかりで、まだ5分も経っていなかった。

「なんでよ」

 頰が引き攣る。確かに、思いつきをそのまま書き殴っただけの導入ではある。それでも一応ディテールは整えたし、けっこう手間がかかったのだ。努力が報われないのは苛立たしかった。

「ちゃんと理由を聞かせてもらわなきゃ、納得できない。教えて」

 私は食ってかかった。

 真弓は辛辣だった。

「惹かれるものがないという一点に尽きるね。書き方がいちばん問題だ。読んでいるとストレスを感じるというか……まあ、それは個々人の感性の違いということで傍に置くとしても……そもそもキミ、本当に続きを書けるのか?」

 うっ、と呻く。背中がじっとりと湿って、ブラウスが肌に張り付いているのがわかる。

 嫌な汗だ。本日は快晴、未だ初夏ながら、既に暑いくらいの日差しが校庭の向こうのアスファルトを焼いていた。

 続きを書けるのか? 私にもわからなかった。いや、実を言うと、書けないだろうとどこかで思っている。

 この一年、私は小説を結末に導くことができなかった。思いつきの掌編でさえ、ただの一度もだ。

 それは、創作者を自称する者として看過出来ない事態だった。小説書きの肩書きを返上した方がいいのではないかと、この頃はときどき思う。

 電車の中で、真っ白なメモアプリをぼうっと眺めていることが増えた。たまにノートパソコンを開いても、やはりテキストエディタを開いたまま、1時間にたった200字しか書けず、それも3時間もすれば気に入らなくなり消去する。

 その不出来さを目の当たりにしても、頭を掻き毟りたい衝動にも、煮え滾るような悔しさにも襲われることがない。それがただ悔しく、頭を掻き毟りたい衝動に襲われる。

 創作活動など考えたこともなく、ソーシャルゲームにひたすら勤しむ友人が少しだけ羨ましい。もう随分と昔、読書だけして満足していた頃が懐かしい。

 思えばあの時から、私の人生は歪み始めたのだ。あの甘露なる遊びを覚えた瞬間から。

 惚れ込んだ小説の構造を模倣し、質の悪いレプリカを作る作業。燦然と輝く長編小説を、ほんの数千字に非可逆圧縮する悪しき遊び。かつて、いつかの時点ではそれを楽しんでいた。その無邪気さも、今はない。

 スランプですらないのだ。

 贋作者もどきを続けているうちに、いつしか、自分の審美眼が、今ある技術を超えてしまった。自分の文章にはもはや不満しかなかった。

 私には、小説を書く技術がもともと無かったのだ。それを鍛えてこなかったのだ。継ぎ接ぎを作ることだけに腐心し、自ら何かを作り出す努力をしてこなかったのだ。

 ストーリーは既存の作品をなぞるだけ。専門的な知識もなく、何かへの深い造詣も持たない。プロットを組み立てる技術さえない。

 もう限界だった。

 けれど、違うやり方を試すだけの気力はなく。ただ私は、何も作れないのが怖かった。消費するだけの生活が怖かったのだ。若さはいつか消える。私は老いて、老いさらばえて、この世からいなくなる。もう七十年も残っていないかもしれないのだ。いつか書けるかも、でも、いつか死ぬのは絶対なのだ。手遅れになるのが嫌だった。小説を書きたいと願いながら死ぬのが嫌だった。

 そして、何より。

 忘れられなかったのだ。かつて書いたお話のことを、好きだと言ってもらえた時のことが。

「……まあ、いい発想ではある」

 私の貌が強張っていることに気づいたのか、真弓はそっと一言だけ、私の小説を褒めた。けれど何のフォローにもなっていなかった。

 奇抜な発想。

 それが唯一、私に残された技術だった。しかしそれさえ、見る人が見ればすぐにわかる程度の、粗末な模倣でしかないことは明らかだった。




 たった一人、部室で呆然としていた。

 私は密かに小説家を気取っていたが、その思い上がりを、もう一度信じたかった。

 しかし、どこをどう絞ったところで、ないものはない。その根拠のない自信は私の中から綺麗に消えてしまって、痕跡さえ残っていなかった。

 自分が小説家であると、いつかは理想の小説を書けるとどうして信じられたのか、今はもうわからなかった。

 真弓は言葉少なだったが、言わんとすることはわかった。いや、本当は彼には、そんなつもりはなかったのかもしれないけれど、どうあれその言葉は私の不安を乱反射して、絶望の形を垣間見せた。私がどうしても直視したくない、けれど事実でしかない、痛々しい事実だ。

 私には才能も、努力もない。

 誰かに伝えたい想いさえ持たない。

 私はただ、小説に、一方的に期待しているだけなのだ。誰にも認められないこの人生に、小説が意味を与えてくれるかもしれない。書くことさえできれば。生み出すことができれば……。


 そのとき、ドアノブを回す音がした。

「まとい、帰ろう」

 ノックもなく部室に入ってきた彼女は、私の目元を凝視していた。頬が濡れているのかと慌てたが、目を擦った指先は乾いていた。ただ、私の貌を見ていただけらしい。

「明里……」

 その声が思った以上に萎びていて、咳払いで誤魔化そうとした。何か、粘り気があって鉄っぽい匂いの液体が喉に絡んでいるようだった。

「……どうしたの? 何かあった?」

 何もないよ、と私は言った。二人で向かい合って、少しだけ時間が止まった。でもそれは本当に少しの間で、私がもう一度「何もないよ」と言うと、明里は首を傾げて、困ったように笑った。

 大丈夫だよ、と私は言い、明里は黙って、私の車椅子を押して部室を出た。

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