ドラゴンニーソックス 信仰実在器官
鉈音
ドラゴンニーソックス
そのニーソックスは、お婆ちゃんの形見だった。
冗談ではない。お婆ちゃんは冗談でもニーソックスなんかを形見に残すべきではなかったし、私が言っている妄言みたいな話が、本当に妄言だったならよかった。
「はいはい。やるよ。やればいいんでしょ」
頭蓋の中に響く低い声。私の神経に棲み着いた、声だけの存在。ただ殺し、喰らい、蹂躙しろと原始の理が囁く。
声が──彼女が食えと言っているのは、あの怪物だ。濃い霧の中、名状しがたい奇怪な巨大生物が、その巨躯を高層ビル群の合間から現そうとしている。明らかに生物のそれとは思えない、巨大すぎる体躯でありながら、重力をまったく無視して悠々と歩いている。せめてあの何分の一かの大きさであれば、現代に蘇った恐竜だと言い張ることもできただろう──霧のベールの隙間から、その姿の異様さを目にするまでは。
空一面を灰色がかった雲が覆い、遠方で雷鳴が轟いた。足元で軋むのは、地割れのようにあちこちで裂けたアスファルトだ。当然だがローファーはとっくに駄目になっていて、鞄と一緒に瓦礫に埋もれているはずだった。
大通りを横切っていく怪物に、ソフトボール投げの要領でアスファルトの塊を投擲する。球技の経験などからきしだったが、思いの外まっすぐに飛び、私の狙い通りに脇腹(なのか?)へ命中した。目算で七百メートルほど、我ながらいい腕をしている。ともあれようやく、向こうもこちらに気づいたようだ。どこが眼なのかさっぱりわからないが、視線がかち合ったのがわかる。
「あれを食べるのか……」
げんなりする私の前で、怪物が吠える。イソギンチャクと古代魚と骸骨をパッチワークした怪物が吠える。咆哮と同時に全身の触手が蠕動し、古代魚の鱗が逆立つ。私は自分が唾液を嚥下したことに気づく。どう見たって美味しそうには見えないが、私はとてもお腹が減っていたし、声に従うのはなんだか気持ちよかった。
動物を〆た経験はないのだけど、ひとまず血抜きだか串打ちだかが必要だ。私は傍の街灯を引き抜き、それを槍投げの要領で投げる。青色の体液が吹き出して、金切り声の鋭さが耳を打つ。ただ、体の大きさを鑑みると、有効打であったとはとても思えない。電柱を、瓦礫を投げつけるが、猫を噛む鼠どころか、象を噛む蟻の気分だ。
それにしても、女子高生にあるまじき粗野と悪食。そして尋常ならざる膂力。けれど親切なことに、今現在、私は女子高生じゃなかった。というか人間じゃなかった。
しかし人ならざる力で石投げを敢行したところで、サイズの差は如何ともしがたい。怪物が怒りに猛り吠えるだけで、たった今投げた石ころは無残にも粉砕されてしまった。まさかとは思うけど衝撃波かな。だとしたら、この性能差にはさすがにヒく。
続けざまに怪物の喉から迸る名状しがたい音色が、私の意識を揺さぶり、正気との接続を次々に切断していく気がして、私も吠える。私の口から生み出された衝撃波は立ち並ぶビルの窓をことごとく粉砕し、幹線道路にガラス片のスコールを降らせた。煌めく乱反射の中、巨大な爬虫類のそれに変貌した頭をもたげて、獅子のように逞しい前脚で軽自動車を踏みつぶす。
私の威嚇に応じて、幾多の触手が鞭のようにしなった。アスファルトのシミに変わる前に、私はコウモリの翼で舞い上がり、迫り来る触手を危ういところで避けて、怪物に急降下していく。喉の奥で、高温の炎が渦を巻く。
「嘘だ。こんなの夢に決まってる」
そんな台詞を吐くことになるなんて、いざその時が来るまで、考えたこともなかった。そしてそういうとき、たぶん大抵は現実なのだ。
喉から絞り出した火炎で触手を焼き払い、骸骨の腕に食らいつき、大ぶりなナイフほどもある鉤爪で古代魚の腹を掻っ捌きながら、私はお婆ちゃんの形見を思い出す。あの謎めいたニーソックスのことを。
見ているだけで正気を失いそうな、怪しげな紋様が縫いこまれた濃紫のニーソックス。冷たく滑らかな手触りは、布というよりは何かの皮膚だ。最初に触れた時、背筋に怖気が走ったのを覚えている。
──それを、いつも肌身離さず持っているんだよ。きっとお前を守ってくれる。
いつのことだったか、お婆ちゃんはそう言った。確かにそう言った。だが彼女も、まさかこんな事態は想像していなかったのではないか。
その日私は、人間ではなくなった。人間をやめて、ドラゴンになった。
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