第6話

数日間彼女を観察して、気が付いたことが幾つかある。僕はそれらに気が付く度にメモを取るように意識していて、この数日間の間にメモはまるまる七頁分埋まった。僕の観察力は、難事件を解決することはできずとも、出会ったばかりの二十代後半女性のお見合い仲介人として随分脚色した紹介を五分ほどできるぐらいには衰えていない。

まず彼女は朝が弱い。七時からアラームを十分置きにセットしているにも関わらず、八時の最終アラームでようやくよろよろと起きる。僕から言わせれば愚の骨頂だ。スヌーズ機能は睡眠の質を妨げる害悪でしかないし、何度もアラームを設定するぐらいなら八時にひとつアラームを設定し、ぴしゃりと起きるのが一番脳には良いのだ。いつか彼女にレム睡眠やコルチゾールについていくつか講釈を垂れなければと、僕は常々機会を伺っている。ともかく、八時に起きると二足歩行を覚えたばかりの動物のような足取りで洗面所に向かい、顔を洗って歯を磨く。そして化粧水を何度かスプレーし、乳液で保湿すると、日焼け止めを薄くのばし、ベビーパウダーを少量はたき、ディオールのリップマキシマイザーを唇に塗る。驚くなかれ、これで彼女の化粧は終わりなのだ。二十代後半独身女性の化粧が、日焼け止めとベビーパウダーで終わり!これにはとんでもない衝撃を受けた。同年代の他の女性が、彼女の何倍もの金と時間と行程を掛けて丁寧に化粧をしているのに対し、彼女はわずか五分でそれらを終えてしまうのだ。独身なのも頷ける。彼女は少なくとも三十分前には起きて、もう少し化粧に金と時間と行程を必要とするべきだ。これについても講釈を垂れたいのだが、これについてとやかく言うと、きっと「あなたにそんなこと言われる筋合いはない」とヒステリックに言いながら顔面を紅潮させて地団駄を踏むのが目に見えているのでやめておく。これは推理でも何でもない、事実だ。全財産賭けたっていい。その後はたいてい地味な服―黒いジャケットだの、黒いワンピースだの、黒いパンツだの、彼女は黒(か白)しか服がないようだ―を手早く身に着け、金の細いフレームの眼鏡を掛け、髪をポニーテイルにまとめる。そしてマノロ・ブラニクの黒いパンプスを履き、颯爽と出社する。とても二十分前までベッドの中で脱皮をめざす幼虫のごとくうごめいていたとは思えない。完璧な二重人格だ。

家と外で顔を使い分けている彼女は、仕事でも顔を使い分けている。昼は地味な顔、地味な服で出版社の事務をこなす。夜は眼鏡をはずし、まつげを上げ、小さなスナックで仕事をこなす。その変身ぶりには目をみはるものがある。昼の彼女を知っている者は誰も夜の彼女に気が付かないだろうし、逆もまた然りだろう。とにかく、外での彼女は完璧だった。完璧に仕事をこなした。昼も夜も、場の空気を読み先回りして求められていることを忠実に体現した。人の何手も先回りして行動するものだから、逆に他人には彼女の仕事の速さが伝わっていないようだった。彼女の仕事の速さは、良い外野手がフライが上がると同時にスタートダッシュを切り、派手なダイビングキャッチなんかせずに悠々と捕球できるそれと同じような速さだった。

家に帰ると、真っ先にクレンジングミルクで化粧を落とし、髪をほどき、眼鏡を掛け、襟がくたくたになったTシャツに、紐がくたくたになったショートパンツを履き、缶ビールをうまそうに飲む。外での完璧っぷりが信じられないほど、部屋では堕落しきっている。気分が乗ってくると、パソコンを立ち上げ、フォルダに大量に溜めた作品―僕から見たらそれらはすべて”書き損じ”なのだが―に手を加えたり、まっさらな白紙に新しい文章―それらもやがて書き損じになるのだが―を書き始めたりする。行き詰ると、部屋の隅にピサの斜塔のごとく乱雑に積み重ねられた本の山からいくつか小説を引っぱり出し、参考になるような文を求めて読み始める。だがそれはいつしか本格的な読書になり、ゴロリとベッドに横たわって真剣に頁をめくり、電気もつけっぱなしのまま深い眠りに落ちる。それが彼女だった。僕はメモをめくりながら、むしろ彼女本人を題材にしたほうが面白い小説になりそうだなと思った。ともかく、情報は整った。これ以上彼女から得られるものは無いだろう。メモ帳を閉じ、大きく伸びをし、デロンギのコーヒーメーカーで作ったコーヒーを飲み干しながら、次に移す行動について思索を巡らせた。この一週間で、持ち主よりも多くコーヒーを消費しているのは持ち主には秘密だ。

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