第5話

管理人にしきりに謝り、「いとこから数日間子供を預かるように頼まれている」という苦し紛れの嘘を押し通すと、彼女は渋々といった表情で引き上げていった。家賃の滞納もしていないし、挨拶もきちんとするし、入居以来静かに暮らしていた―そもそも部屋に呼ぶ友人がいない―ので、彼女の私に対しての評価は往々にして良い筈であった。今回の件は初犯だし、多めに見てくれるだろう。

部屋には真夜中の美術館のような沈黙が広がっていた。微かに冷蔵庫の唸る音がした。テーブルの上にある手つかずのシチューと、六本の空のビール缶だけが、先程までの騒動が現実であったことを証明していた。

楠木が登場してから今日までの一週間の間に、私の大量に書き溜めた小説の登場人物たちは、好き勝手に現実世界に現れるようになっていた。彼らはいつの間にか現れ、いつの間にか消えていた。現れる、もしくは消える瞬間は見たことがない。でも、ふとした間に彼らは、いかにも初めからそこにいたという風に存在していた。ある者は料理をし、ある者はパンを齧り、ある者はビールを飲んでいた。外出もできるようで、冷蔵庫の中身は知らぬ間に増えたり減ったりした。もしかすると私の知らないところで、私の小説から生まれた架空の人物が好き勝手にやっている可能性もある。私は楠木が東京の街を歩くのを想像した。目についたバーに入り、上着を手品師のように美しい手際で畳みながら、カティ・サークのオン・ザ・ロックを注文する。少し離れたスツールに、ソルティ・ドッグのグラスを傾ける女の子が座っている。視線が合うと、自慢の笑顔―薬用歯磨き粉のCMのような―を浮かべる。女の子はあっという間に楠木のことで頭がいっぱいになってしまう。

「ひどい女たらしみたいに言うなよ」

振り返ると、顔面を赤く腫らした楠木が立っていた。冷えた缶ビールで後頭部を冷やしている。倒れた際に打ったようだ。

「勝手に人の頭の中を見ないで、不公平よ」

「見たくなくても見えちゃうんだ」

彼は弁明をしつつ、缶ビールのプルタブを開けた。一連の動作は手馴れていて、ただのビールも彼が手にすると高級な物に見えた。小牛田さんとCMに出たら飛ぶように売れそうだ。

「彼女たちはなぜ消えたんだろう」

「君に叱られるのが怖かったんだろう。下手したら存在ごと消されかねないしね。僕は君に対して後ろめたいことはないし、食事もとっていないからまだ帰らないよ」

そういえば私も食事を取っていないことを思い出した。一度口論を中断し、我々は向かい合わせで双子詐欺師の作ったシチューを食べることにした。

「あなただって、前みたいに消そうと思えばいつだって消せるんだからね」

「僕のやり掛けの未解決事件がいくつあるのか、君が一番よく知っていると思うけどね。その全てを消すのは大変だと思うし、君にしても惜しいんじゃないのかな」

彼は涼し気な顔でスプーンを器用に使う。

「それより、気に掛かることがある。七北田がどこにもいない」

「七北田?」

この一週間の間、様々な架空の人間が私の前に現れたけれど、その中に七北田はいなかったはずだ。

「現実に介入してきていないだけで、小説の中にはいるんでしょう?」

「違う、小説の中にいないんだ。確認したらすぐ分かるよ」

彼はパソコンを慣れた手つきで操り、私の書きかけの駄作が大量に詰まったフォルダから、無作為に文書を選びぬいた。彼が画面をスクロールすると、確かに七北田の名前があるはずの部分は抜け落ちて空白になっていた。他にもいくつか文書を選び確認したけれど、全てにわたって七北田の文字は消えていた。

「どういうこと?」

「つまり、現実世界のどこかに七北田は来ているということだ。でもこの部屋にはいない。これは事件だよ」

楠木は微笑んだ。それは薬用歯磨き粉のCMのような笑顔ではなく、久しぶりに仕事ができる名探偵のような笑顔だった。



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