第4話(改)

朝の八時に起床すると、歯磨きと洗顔を済ませ、必要最低限の化粧をし、服を着替えて、八時二十分には家を出るのが私の平日の朝の常だった。朝においしいコーヒーが飲めたら一日頑張れるのではと、少ない給料をはたいて買ったデロンギのコーヒーメーカーは、毎朝沈黙を保っている。彼が沈黙を破るのは専ら夜中か休日の昼過ぎである。八時前に起きられれば、十分彼が活躍できる時間はあるのだが、いかんせん私は朝が弱い。

平日の朝から夕方までは小さな出版社で事務作業をしたり、お茶やコーヒーを淹れたり、おつかいで消しゴムを買ってきたりしている。その後まっすぐ帰ることもあれば、週に何日かは地下鉄に乗って繁華街に行き、雑居ビルの中の小さなスナックで、今度はお茶やコーヒーではなく、山崎だのシーバス・リーガルだのメーカーズマークだのを男たちについで回る。基本的には昼の仕事も夜の仕事もすることは変わらない。人の話を聞いて、まわりにこまめに気を遣い、求められていることをするだけだ。変わるのは化粧と服の露出度くらいである。開店前のスナックでは、疲れた顔をしたOLたちが、スーツやストッキングを脱ぎ捨て、体にフィットしたワンピースになり、チークを入れたりまつげを上げたりしながら仕事の愚痴や新しい客の批評を交わしている。さっきまでみな一様に口元を引き締めて疲れた顔をしていたのに、短時間で狭い店内はあっという間に五限の体育が終わった後の女子高の教室のようになる。ここではシーブリーズの代わりに、シャネルのオーデ・コロンが女たちの間で交換される。もっとも、今日はスナックの出勤日ではないけれど。

「鹿野ちゃん、いつも早いけど今日はいちだんと早いねえ」

出勤してすぐ、のんびりとした声を掛けてきたのは、この小さな出版社の社長の山崎さんだ。でも誰も社長とは呼ばない。スヌーピーがプリントされたスウェットを着て、くたくたに使い込まれた―でもきちんと洗濯して白さは保たれているあたりが山崎さんらしい―テニスシューズを履く山崎さんは、「社長」よりも「山崎さん」のほうがしっくり来る。

「自宅にあまり居たくないものですから」

「自宅なのに?」

「自宅なのに、です」

私は思い切り顔をしかめて見せた。


すっかりむくんだ足を引きずるようにして、アパートの自室を目指す。退勤した後、四階まで階段をのぼるのはなかなかきつい。お金を貯めたら絶対エレベーター付きのアパートに引っ越すんだ、とこの階段を上る度に決意している。今日で380回目くらいの決意の筈だ。

三階の踊り場の時点で、楽し気な笑い声や人の足音が聞こえてくる。それは自室に近づくほど大きくなり、ドアを開けた瞬間歓声が上がる。すべての音源は私の部屋である。溜息をつきながらパンプスを脱ぐ。一週間前から、私の部屋はもはや私の部屋ではなくなっていた。

「「おかえり!」」

キッチンでは双子の姉妹が揃いのTシャツを着て、仲良く何かをこしらえている。片っぽが鍋をお玉でかき混ぜて、片っぽがフランスパンをトースターに並べていた。ぱっと見てもちょっと区別はつかないだろう。私にはわかる。お玉を混ぜているのが姉で、フランスパンを並べているのが妹だ。そういえば彼女たちに名前を付けるのを忘れていた。

ワンルームには楠木の代わりに、透き通るように綺麗な肌に長い黒髪の美人が、ビールを片手にくつろいでいた。美人が感じの良い青のワンピースを着て缶ビールを手にしていると、新しいビールのCMのように見える。床におきっぱなしのテレビは久しぶりにつけられ、見たこともないバラエティ番組が大音量で流されていた。美人はゲラゲラと笑い声をあげ、缶ビールをおいしそうに飲み干した。テーブルには五本のビールの空き缶―たった今六本になった―が並べられていた。彼女を見るのは初めてだったけれど、私にはわかる。

「小牛田さんね」

「あたりー、あなたも飲む?」

彼女は笑いながら手元にある缶ビールをとり、それがすっかり空であることを思い出して眉をひそめた。そして腹の底からビール!と大きな声を上げた。とても美人の口から出るとは思えないほど酒やけした声だ。なにもかも私の設定どおりだった。私はこめかみに手を当てて、そう設定した何か月か前の自分をおおいに呪った。そして「なるべく小さい声でね、ここ、アパートだから」とたしなめながら、スーツの上着をハンガーに掛けた。

「あの、聞きづらいんだけど―旦那さんは見つかった?」

「見つかるわけないわよ、あなたが続きを書かないんだもの。あなたが彼を消しちゃったんじゃない!」

彼女はわあっとテーブルに顔を伏せて、肩を震わせた。慌てて肩に手を添え、ティッシュを差し出すと、彼女は豪快に音を立てながら鼻をかんだ。結婚式の途中で花婿が消える事件を書こうとした数か月前の自分がすべて悪い。

「でも私たちは、事件が立ち消えになって助かっちゃったよね」

「ねー」

そう言いながら、双子の姉がランチョンマットを敷き、妹がその上にシチューの入ったスープボウルを置いた。彼女たちはペアを組んで男たちから金を巻き上げる結婚詐欺師として登場させたものの、楠木も簡単に引っかかりそうなので、ろくに事件も起こさないまま立ち消えとなった。料理が出来る描写はしていなかったけれど、彼女たちの料理の腕前は詐欺同様見事なものだった。湯気がのぼるシチューを見て美人はほっとした顔つきになったが、みるみるうちにその顔が豹変した。さっきまで泣いていたのが嘘のように―彼女を"表現豊か"と描写したことを思い出した―勢い良く立ち上がり、「あんたたちが旦那をたぶらかしたんじゃないの!」と金切声を上げた。少なくともそのような設定はしていないのだが、双子のほうは双子のほうで「いちいちどんな男をだましたかなんて覚えてないよね」「ねー」と呑気に顔を見合わせている。私が口を挟む間もなく、狭いワンルームで追いかけっこが始まった。そのうち追いかけるだけでは飽き足らず、ボックスティッシュやら文庫本やらリモートコントローラーが宙を飛び交いはじめた。とにかく早く彼女たちを消さなくてはならない。いつか続きが思い浮かんだ時のために保存してある小説の下書きを消せば、彼女たちも消えるはずだった。私はストッキングとスカートを脱ぎ捨てベッドに放り、シャツに下着のまま、慌ててパソコンを立ち上げた。

「大胆な恰好だね」

聞き馴染みのある声だ。でもこの部屋にいる誰の声でもない。なぜなら、それは男性の声だったからだ。パソコンから顔を上げると、紙袋を抱えた楠木が壁にもたれかかって、にっこりと微笑んでいた。薬用歯磨き粉のCMのような笑顔だ(実際彼の歯は白い)。紙袋はおそらく食材で膨らんでいて、収まりきらない万能ねぎが飛びだしている。ハンサムは万能ねぎを持っていてもハンサムなのだ。私が蹴りを入れる前に、彼の顔面にクッション、トルストイの「アンナ・カレーニナ」の上巻、詰替用柔軟剤がたて続けにぶっつけられた。ハンサムも物理的衝撃には弱い。後ろを振り返ると、三人の女たちが思い思いに決めポーズをしていた。やるでしょ、見たか、決まったわ。私は無言で頷いた。よくやった。

静まり返った室内に、玄関チャイムが鳴り響いた。双子の姉がベッドからスカートを投げて寄越した。それを履きつつ、すっかりのびてしまった楠木を跨ぎ、ドアを開けた。共同廊下には、思い切り顔をしかめた―朝の私のように―中年のおばさんが立っていた。このアパートの管理人だ。

「鹿野さん、最近足音だの喋り声だのが大きいって苦情が来てるんだけど。誰か連れ込んでるわけじゃないわよねえ」

違います、それはと言い訳をするために口を開いたものの、その必要は無くなった。彼女の顔に、化粧ポーチ、折りたたみ傘、「アンナ・カレーニナ」の下巻がたて続けにぶっつけられたからだ。管理人も物理的衝撃には弱い。私は後ろを振り返り、大きな声で違う!と叫んだ。三人の女たちは、顔を見合わせて肩をすくめた。

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