第3話

あれから随分キイボードの前に座っていたけれど、一度そがれた集中力が戻ることは二度と無かった。いつの間にか部屋の中が暗くなっていることに気が付き、蛍光灯を点けた。時計は夜の7時を指していた。それは貴重な日曜日がすっかり潰れてしまったことを意味していた。無性に腹が立ってきた。本当なら―楠木にけちょんけちょんに貶されてさえいなければ―今頃回復した七北田を引き連れて敵のアジトに乗り込むところまで書けたはずだ。もちろん、どんなに頑張ってもそのあとは書けなかっただろう。なぜなら、事件の大まかな構想は練っていたものの、どんなふうに蹴りをつけるかは全く考えていなかったからだ。結局、楠木の言っていることは正しかった。見切り発車のまま文字を打ち、挫折し、また彼の未解決事件を増やすに違いなかった。今度は無性に悲しくなってきて、同時に無性に何かが食べたくなった。思えば、起きてからすぐ小説を書こうと孤軍奮闘していたので、一日何も口にしていなかった。朝から何も食べずにキイボードの前に座っていた結果がこれかと思うと、巨大な溜息が漏れた。巨大な溜息には、普通の溜息の二倍の二酸化炭素と喪失感が含まれている。


冷蔵庫の中は、よく言えば綺麗、悪く言えばすっからかんだった。少なくとも、空腹をまぎらわせそうなものは何ひとつなかった。ドアポケットの隅から下段の冷凍室までくまなく見ても、そこにあるのは残り100ミリばかりとなったドン・シモンのオレンジジュースと、賞味期限の過ぎたプロセスチーズひとつと、保冷材だけだった。ここ数日、日中の仕事と合間をぬった執筆活動に追われて、まともに料理や買い物をしていなかったせいだ。キッチンに立ったままプロセスチーズを齧り、オレンジジュースを飲み干した。冷蔵庫の中は保冷材のみとなった。それはもはや何もないのと変わりなかった。食器棚の奥から乾燥パスタが出てきたけれど、茹でたパスタに塩のみをかけて食べる自分を想像するとますます空腹感が増したので、食事をとることは諦めた。今日はきっと何をするにもうまく行かない日なのだ。こういう時は、じっと身を潜めてやり過ごすのが一番良いと、私は経験則で知っていた。

空腹感を持て余したまま寝るのはあまりに空しいので、私は床に高く積み上げられた本の中から、比較的最近読んでいない本を探し出して読むことにした。本の山は地層に似ている。下にあるものほど古く、上にあるものほど新しい。もちろん、地層累重の法則にも例外はある。私が突発的に読みたくなった本を掘り起こし、地層変動を起こすからだ。でも、おおむね本は私が購入した時系列で積み重ねられており、地層変動が起きてもその周辺の本には私がその時読みたがった共通点が存在するので、読まれた時代を想定することはそう難しいことではない。ちなみに今現在地層変動は起きており、本の山の頂点にはシャーロック・ホームズ全集が君臨していた。小説各種コンテストを比較検討した結果、一番金になるのはミステリーだと突き止めた私が執筆の参考にするため地層の奥深くから掘り起こしたせいだ。敬愛するホームズの特徴をいくつか引っ張って楠木を生み出し、七北田をワトソン役に据えたものの、結局ひとつも事件を解決させてあげられなかった。昼間の楠木の数々の暴言を思い出すと、また腹が立ってきた。そういえば、楠木はミステリーは向かないけれど、恋愛小説には向いていると言っていたことを思い出した。それならば、楠木がぎゃふんというほどの恋愛小説を書いてやろう。あの端正な顔立ちの楠木が、鷲鼻をひくつかせてぎゃふんと言うところを想像すると、心がすっと軽くなった。もっとも、私は実際にぎゃふんと口に出した人を見たことは無い。私は地層の下の方からカポーティの「ティファニーで朝食を」を引っぱり出し、ベッドに潜り込んだ。

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