第2話

「これまでも何度かひどいとは思ったけど、今回はずば抜けてひどいよ。七北田は一体誰にやられたんだ?」

彼は溜息をつきながらテーブルの向かい側に回り込み、椅子に腰を下ろした。彼は細くてすっきりとした鷲鼻を持ち、皺ひとつないブルックスブラザーズのシャツを着ていた。どう考えても楠木にしか見えなかった。

「君はいつもミステリーを書こうとしているけれど、はっきり言って向いていないと思うよ。エッセイでも書いたほうがよっぽどいい。それこそ、君と僕の好きなアイロンの掛け方についてコラムでも書いたほうがいい文章になりそうだ。それと、君のせいでコーヒーを飲み損ねたから、できればきちんとした熱いのを飲み直したいんだけど。そこのコーヒーメーカー借りていいかな」

「ちょっと、ちょっと待ってください」

ようやく口をはさむことが出来た。彼は喋る―もはや演説の域に入りかけていた―のをやめ、きょとんとした顔をした後、どうぞという様に手のひらをこちらに向けた。綺麗な指だと思った。

「あなたは楠木なの?私が書いた?」

「そうだよ、君が何度も何度も書き損じてきた小説の全てにわたって主人公を務めてきた楠木だ。鷲鼻で、身長が高くて、月曜から金曜まで翻訳会社に勤めていて、ひどい事件に巻き込まれては華麗に解決する前に挫折してまた別の事件に飛ばされる楠木だよ」

こめかみがずきずきと痛んだ。彼の言うことは全部当たっていた。私は何度もミステリーを書こうとしては何度も挫折し、その度に彼をあちこちの事件に巻き込ませていた。事件や舞台が変わっても、主人公の楠木とワトソン役の七北田だけは変わることがなかった。彼らはひとつの事件も解決したことがなかった。無論、私が必ず小説を書ききったことがないからだ。

「それについては申し訳ないと思ってます。でも、何も現実に出てこなくったっていいでしょう。今回は自信があったのに」

「ワトソン役が殺されたんだ、文句を言ったっていいだろう。むしろ今まで文句のひとつも言わずに君の支離滅裂な小説に皆勤し続けたことを褒めてほしいくらいだよ。事件は解決しない、それなのにまた新しい事件は起こる、合間に女の子には振られる。文句のひとつだって言いたくなるさ」

彼は自慢の鷲鼻をティッシュでかみ、丸めて、部屋を見渡して、屑籠に放り投げた。ティッシュは綺麗な放物線を描いて見事に屑籠に吸い込まれた。ようやく私は彼が生身の人間としてそこに存在しているのだということを実感した。私が作り出した理想の男性―知的で行動力があって口が達者で華麗に事件を解決する―が、現実に現れたのだ。いわば私は彼の生みの親であり、感謝されてもいい立場にあった。でも実際今まで彼に言われた言葉は痛烈な批判と文句であり、そして残念ながらそれらはすべて当たっていた。なにひとつ言い返せそうになかった。言い返したところで、彼は知的で、口が達者で、口喧嘩にはめっぽう強かった。皮肉なことに、それは全部私が設定したのだった。久しぶりに男性―と話すのは初めてだ―と私的な状況で会話をしているというのに、気分はかえって憂鬱になり、気を緩めたら泣いてしまう気がした。年を取ってから輪をかけて胃腸と涙腺が脆くなっている。

「思うに、君の文章はミステリーには向いていないよ。だけど、恋愛小説ならうまくいくと思うんだ。繊細で、写実的な文章がより生きる。それに僕もそろそろこのハンサムという武器を駆使して、女の子とハッピーエンドを迎えたいんだ。もういい加減七北田とあちこち事件に振り回されるのは御免だよ」

かっと頭に血が上るのを感じた。気が付いたら、力いっぱいバックスペースキイを長押ししていた。たっぷり30秒は押していたと思う。顔を上げると、楠木はいなくなっていた。あのうるさいいかにも自信たっぷりな口調が消え、部屋には数分前と同じように私一人きりが残された。そっと向かいの椅子に手を置くと、ほんの少しだけぬくもりが残っていた。消してしまう前に、コーヒーくらい出してあげればよかったと思った。

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