夢想
@aihanagareru
第1話
まず全体に霧吹きをかけ、襟、肩ヨーク、カフス、袖、右身頃、後ろ身頃、左身頃の順で、ゆっくりと確実に皺を伸ばすのが楠木のアイロンの掛け方だった。アイロン掛けは楠木にとって、読書以外の唯一の趣味といってもよかった。アイロン掛けに関してはちょっとした権威だったし、たまたまガールフレンドから電話が掛かってきたときにアイロン掛けをしているから後で掛け直すと断って電話を切った時は、その後二度と電話に出てもらえなかった。何日か後で、郵便受けに彼女からの手紙が投函されていた。「あなたの鷲鼻と性格が好きだったけれど、アイロン掛けより無碍に扱われたことで全部気持ちが冷めました。さようなら」と書かれていた(楠木は今でもそれを暗唱できる)。世間では、ガールフレンドからの電話はアイロン掛けより優先されるべき事柄であるらしかった。そのことを学んで以来、楠木はアイロン掛けの最中に電話が鳴っても電話を優先するように心がけていた。
七北田からの電話は、よく晴れた日曜の午後、5枚目のシャツにアイロンを掛けている最中に掛かってきた。3コールで受話器を取ると、「やあ、今なにしてる」と良く通るいつもの声で名乗りもせずにしゃべりだした。もっとも、七北田が電話できちんと名乗ったことなどない。
「5枚目のシャツにアイロンを掛けていたところだよ」
「5枚もかければ十分だろう。月曜から金曜まできちんとやり過ごせる。今すぐ飲みに行こう」
「まだ昼の3時だけど」
「頼むよ、どうしても君の力を借りなきゃならないんだ。10分後には呼び鈴を鳴らすから支度をしてくれ」
電話は掛かってきた時同様に唐突に切れ、楠木は受話器を1分近く眺めてからようやく置いた。またなにか事件が持ち込まれるようだった。楠木は自分の輝かしい名探偵としての経歴を呪った。彼は翻訳会社の正社員であると同時に、名探偵でもあったのだ。七北田は翻訳会社の社長であり、事件の持ち込み屋であり、よき助手でもあった。そして今日の七北田は事件の持ち込み屋であるらしかった。5枚目のシャツの残りのアイロンを済ませ、ハンガーに掛け、アイロン台を畳み、飲みかけのすっかり冷めた珈琲を流しに捨てて、部屋着を脱ぎ、ブルックスブラザーズのシャツ―2番目にアイロンを掛けたシャツだ―を着て、ベージュのコットンパンツを履いたところで呼び鈴が鳴った。呼び鈴はたて続けに3度鳴らされ、少し間が空いてまた鳴らされた。楠木は玄関に向かいながらベルトを締め、「焦らないでくれ、今まつげをビューラーで上げているんだ」と言いながらドアを開けた。でもドアの外には誰もおらず、首を傾げると足元からうめき声がした。そこでようやく、七北田が脇腹を抑えてうずくまっているのに気が付いた。水色のシャツの左側が、赤く染まっていた。
「奴にやられた」
七北田はようやくそれだけ言葉を絞り出して、共同通路に倒れこんだ。
「今回はひどすぎる」
突然声がして、右肩に手が置かれた。振り返ると、鷲鼻の、ブルックスブラザーズのシャツを着て、ベージュのコットンパンツを履いた、長身の男性がいた。どう見ても、私の小説の主人公―楠木だった。
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