一週間の予定だった単独任務を三日間で終えて帰ってきた朝。カオルは遠征の疲労を見せることなく、いつも通り変わらぬ様子で通常職務を迎えていた。

 起床し、身支度を整えると、まずは黒祇の総帥である元にこの三日間の成果を報告するため、カオルは足早に廊下を歩いていた。


「隊長!」


背後から聞き覚えのある――けどいつもより少しばかり高い――声に、すぐに振り返った。声の主はカオルが思っていた通りの人物で、府芭は大きな箱を抱えて、視界を遮る箱から顔を覗かせていた。


「おかえりなさい、隊長」

「ただいま。僕のいない間、何も無かったか?」

「はい、新種の蟲に遭遇する事もありませんでした」

「そうか、良かったね」

「はい!」


カオルが首を傾げた。その反応に府芭も同じように首を傾げた。


「どうしてそんなに笑顔なんだ?」


呼ばれた時から抱いていた疑問。弾んだ声と惜しみなく向けられる笑顔。もしかして、カオルの不在の間に何か良いことがあって、それを話したいのかもしれないとカオルは見当違いなことを思った。


「え?俺そんな顔してましたか?」


本人は気づいてなかったのか、カオルの指摘で顔を赤くした。その反応が少しおかしくて、カオルが微笑した。


「何かいいことでもあったのか?」

「別にそういうわけではないのですが、隊長が帰ってきたのでしたら今日からまた一緒なんだと思うと嬉しくて」


言ってて恥ずかしくなったのか、語尾があまりにも小さく、だけどカオルは確かに聞き取った。カオルから視線をそらしていた府芭はカオルと目が合うなり、慌てて口を開いた。


「それに、この三日間本当に大変だったんです!楊隊の人があまりにもしつこくてミシェイラの機嫌は悪いし、人見知りの啉は殆ど喋らないし、楊隊長とハウスは傍観するし」


府芭のげんなりとした様子から三日間の状況が容易に想像でき、カオルは苦笑した。


「大変だったね。けど他の隊との連携の取り方や技術、いろいろと学べることがあったんじゃないか?」

「はい、それはとても勉強になりました。特に楊隊長に合わせる風間さんの動きは参考になることが多かったです」

「そっか。今度訓練に付き合ってもらうといいよ」


カオルの言葉に府芭がしっかりと頷いた。


「それで、その箱はなに?」

「あ、ああ、これはミシェイラのですよ。下に荷物が届いてるのに取りに来ないから、俺のところにまた連絡が来たんです。これで何回目だと思いますか?もう五十回目ですよ。いいかげんにしてほしいものです」


ミシェイラの顔を思い浮かべているのか、府芭がしかめっ面をした。

 ミシェイラの荷物が届いたら府芭のもとに連絡が行くようになったのは、総務の判断ではなくミシェイラ本人からの要望だ。その事を知らないのは、使われている本人だけである。


「後で僕の部屋においで。美味しい紅茶をごちそうするよ」


カオルの誘いに、不機嫌に眉を寄せていた府芭の表情が一変した。それは、まるで主人に褒美を与えられ尻尾を振る犬のようだ。


「本当にいいんですか!?うわ~いつ以来だろ」

「最近は忙しかったからね」

「はい、お茶する時間なんてありませんでしたよね」

「そうだね。それじゃ、総帥と楊隊長の用事を済ましたら連絡を入れるよ。また後で」

「はい、お疲れ様です」


府芭はカオルの後ろ姿を敬礼で見送った。

 カオルはエレベーターに乗り込むと、最上階のボタンを押した。扉が閉まると同時にカオルが小さく息を吐き出した。

 ただじっと最上階に着くのを待っていると、途中でエレベーターが止まった。ドアが開くと同時にカオルが顔を上げると、乗り込もうとしていた数人の隊員が一瞬足を止めかけた。


「お、おはようございます」

「おはよう」


先頭に立っていた隊員が慌てて挨拶をすると、他の隊員も続けるようにして挨拶を述べた。

 乗り込んでくる直前まで続けられていた雑談は、カオルの存在に気付くなりやめられ、然して広くない箱の中は息遣いのみとなった。

 別にカオルが睨んだり、煩いなどと言ったわけではない。このような空気が出来てしまったのは、乗り込んできた隊員たちが入隊して間もない隊員だったからだ。もしここでカオルの事をよく知る隊員や隊長が乗り込んできていたら、気軽に話しかけたり気にすることなく雑談を続けていただろう。

 けど新入隊員がそうできないのは、カオルの立場と風格故だ。数十秒して、後から乗り込んできた隊員たちは、最上階まで行くことはなく途中で降りて行った。たった数十秒の時間でしかなかったが、新入隊員たちには数十分に感じられたことだろう。

 それから数十秒、最上階に着き、元の部屋の前に着くと、独りでにドアが開いた。


「おかえり、カオル」

「お時間を頂きありがとうございました」


元は椅子に深く腰を掛けたまま、窓の景色を眺めていた。彼がいつも窓の外を眺めているのには訳がある。

 元は十禅と同じく特殊能力保有者で、その能力は「神眺しんちょう」だ。神眺とは全ての事象を見通すことの出来る力だ。

 特殊能力は脳への負担が多く、酷使すると死を早める。元はどれだけ体に負担がかかろうとも常に外に眼を向け、街の様子を伺い、危険が無いかを視ている。本部の隊がいつどこで戦っているのか、ほぼ把握しているだろう。だが視ることは出来ても、音までを聞くことはできない。

 今回、カオルがどこに行ってきたのかも既に把握しているに違いない。いや、視ていなくても、元にはカオルがどこで何をしてきたのか分かっていることだろう。


「話してくれ」


カオルは机の前まで移動すると、両手を後ろに組みなおした。


「家に何者かが侵入した形跡がありました。写真が、子供の頃の写真が無くなっていました」


そこで漸く元は振り向いた。力を酷使しているからか、元の顔色は良くない。そのことにカオルは内心眉を寄せたが、口に出すことはしなかった。


「それだけがなくなっていたのか?」

「はい、僕と弟が写っていた写真がなくなっていました。間違いなく何者かが盗って行ったと思われます。でも、どうして写真なんかを」


元がスッと手を上げてカオルの言葉を遮った。カオルはすぐに口を閉ざした。


「先に続きを話してくれ」


カオルは頷くと、続きを話し始めた。


「十禅殿の話しでは、僕は近い未来に蟲の首領と対峙することになると。けど、それがいつかまでは分からないと云っていました」


元は引き出しから、数枚の紙を出した。この時代に紙の資料は珍しい。カオルは内心で首を傾げながら、それを手に取った。


「今から話すのは確信を持っていることではない、可能性の一つとして聞いてくれ」


元は一呼吸置くと話し始めた。


「今回の新種の蟲が現れたのは、おそらく嘗ての研究員が残した『何か』からだろう。私が研究所を去ったあと、研究は予想以上に進み、腐蝕蟲が国に現れるようになった。そして、その『何か』がハロウィン・ホラーを引き起こし、現状をも生み出した。・・・国を一掃するためにだ」


元の最後の一言にカオルが怪訝な表情をした。


「国を一掃するとはどういう意味ですか?この現状を生み出した奴が国を恨んでいるとでも言うのですか?」


カオルは、自分の腹の中にドロドロとどす黒いものが溜まっていくのを感じ取っていた。それは、可能性として存在する実験体への確固たる憎しみだ。


「我々があれを『国つ罪』と言うように、その者も腐蝕蟲を『罪』と捉え、その『罪』を犯した国に、報復を考えているのかもしれない。この国が犯した罪を知らしめながら」


カオルは、その者の気持ちが理解できてしまった。けれども、納得することはできなかった。


「では、そいつが僕の周りを嗅ぎまわっていると言うのですか?」

「嗅ぎまわっていると言うのは違うかもしれない。其の者はカオルの近しい者と十禅が云ったのであれば、かつて深く関わりのあった者と考えるのが妥当だ。だから十禅も云ったのだ。守るべき者はなにかと。近い未来、カオルでは手にかけられない敵が現れ、迷いが生まれる。その時、自分自身が迷わないように十禅は忠告したのだろう。・・・・・それで、お前はどうする?」

「僕の近しい者・・・ですが、家族はみな死に、友と呼べる者も記憶にありません。それなのに、僕の近しい者など」


カオルは一つの可能性を考えたが、有り得ないとすぐに消し去った。その動揺を悟られないよう、爪が食い込むほど手を握りしめた。


「カオル個人と関わりが合った者とは限らない。両親と深く関わりの合った者やカオル達の出生に関わった者、私とてカオル個人とは関わりのなかった人間だ。上げていけば切りがない」


カオルは小さく息を吐きだし、元を見据えた。


「もし、敵が僕に関わりのあった者だとしても、僕が仲間を守る事に変わりはありません。それに僕の近しい者であるならば、尚更そいつの罪を断罪します。それが、そいつを殺すことであろうと」

「・・・・そうか。ならば、お前はその信念を貫きなさい」


カオルは一礼をすると、部屋を後にした。

 エレベーターに乗り込むと、カオルは深い溜息を吐いた。自分の言った言葉に偽りはない。必ず仲間を守ってみせる。けど、と語りかけてくる自分がいるのも確かだった。もし近しい者が死んだはずの父や母だったら。もし僕の半身だったら。死んだと思っていた人が生きていたら、自分は手にかけることが出来るのだろうか。もしそうならば、その時は・・・・・。

 あるはずもない可能性に囚われかけたカオルは、雑念を振り払うように頭を振った。

 楊の部屋の前に着き、呼び出しボタンを押すと、数秒もしないうちに扉が開いた。


「おかえり、烏鷺隊長。早かったね」


やなぎはカオルの無事な姿を確認すると、ホッと胸を撫で下ろした。


「思ったより早く済みました。隊員がお世話になり、ありがとうございました」


カオルは小さく頭を下げた。


「いや、こちらこそだよ。うちの者も喜んでいたからね」


楊がクスリと笑ったのに対して、カオルは微苦笑した。


「ええ、今朝府芭から話しは聞きました。有意義な時間だったようですね」


カオルが珍しく冗談を言い、楊は一瞬驚いたような顔をしたが、直ぐに声を出して笑った。


「ああ、府芭くんが一番疲れていたよ。君がいないからといって、いつもの倍以上は絡まれていたからね。少し可哀想だったかな?」


カオルは肩を竦めながら、小さく首を横に振った。


「随分と疲れていたようなので、この後二人でお茶をする事になったんです。たまには甘やかしてやるのも隊長の仕事でしょう?」

「君は十分だと思うけどね。まあ、彼も好きな人に甘やかされる時間はどれだけあっても足りないだろう」


カオルと付き合いの長い楊には、カオルがどれだけ部下を大切にしているか嫌というほど知っている。だからこそ、カオルは無茶をし、自分が傷つくことを厭わない。ならば、そんなカオルを守るのは誰の役目なのか。年齢不相応な立場に置かれている彼は誰を頼ればいいのか。

 楊は、口に出せない思いを長い長い間、ずっと募らせていた。


「じゃあ、待たせるのも悪いので、僕はこれで」


カオルは大した話しもせず、早々に腰を上げた。楊も引き留めることはせず、笑顔で見送った。

 本当は何処で何をしてきたのか聞き出したかった。だが楊の立場ではカオルにそれをする権限は無い。常に先にいる少年に手を伸ばしても、その手が届いたことは一度もない。カオルの去った部屋では、楊の悲し気な表情が残った。

 部屋に戻るなり、カオルはすぐに台所に立った。自分の部屋に戻る途中、カオルは府芭にメッセージを送っていた。おそらく、数分もしないうちに府芭はやって来るだろう。カオルはどうやって甘やかしてあげようかと楽しげに思案しながら、湯が沸くのを待った。

 部屋に戻って五分も経たないうちに、誰かの訪問が告げられた。モニターを確認すると、府芭が薄っすらと耳を赤く染めて立っている。カオルが扉の開閉ボタンを押すと、府芭はすぐに敬礼をとった。


「お疲れ様です」

「そこに座ってて。今用意してるところだから」


カオルが笑顔で出迎えると、府芭の耳がさらに赤くなった。


「お話しは済んだのですか?もっと時間掛かるかと思っていました」

「楊隊長にはお礼を言いに行っただけだからね。大した話しはしていないよ」


カオルは、お茶を用意する手を止めることなく答えた。


「そうだったんですか。隊長もお疲れなのに、気を使って貰ってすみません」


カオルが用意を終え机に運ぶと、府芭は申し訳なさそうに頭を下げた。

 さっきは嬉しさのあまり考えなしで返事をしてしまったが、カオルが三日間忙しく動き回っていたことに、ここに来る途中で気が付いた。

 普段のカオルもさして変わらぬ多忙さかもしれないが、現状でカオルが動いたという事は、新種の腐蝕蟲について調べていたということだ。カオルがどこに行って何をしていたのかは聞かされていないから具体的なことはわからないが、殆ど休まずに動いていたことは容易に想像できる。


「気にしなくていいよ。これは俺からの些細なお礼だから」


カオルが優しく微笑むと、府芭は顔に熱が集まるのを感じ取った。御礼をされる覚えは無かったが、カオルがそう言っているのだからと素直に受け入れることにした。


「隊長って昔から紅茶とかに詳しいのですか?」

「母がいろんな紅茶を集めるのが趣味だったから、その影響もあるかな」

「なんとなくイメージ付きます」

「そうかな」


カオルがクスリと笑った。

 府芭は、紅茶を飲むカオルの姿を気づかれないようにそっと盗み見た。カップを運ぶ様は洗練されていて、自分には到底真似が出来そうにないし、育ち方の違いが窺い知れる。

 今日までカオルがどんな生き方を送ってきたのか、府芭は何も知らない。知る必要もないのかもしれないが、尊敬する人のことは何でも知りたい。それは府芭だけに限った思いではない。

 周囲から見れば、まだ幼さが抜けていない顔から少年が年端もいかないことぐらい分かるだろう。そんな少年に付き従うように大人たちが後ろに立つ光景は異様に見えるかもしれない。だが、誰もカオルに逆らったり、上に立ちたいとは思わない。少年の強さを知り、優しさを知り、惹かれない者はいないと誰もが思う。そんな隊長のもとで戦える事が、府芭をはじめ隊の者は誇りに思っていた。


「あの、隊長の話を聞きたいのですがよろしいですか?」

「いいよ、何でも」


おそるおそる聞いた府芭は、カオルの返事に嬉しそうに目を輝かせた。


「隊長のご家族はどうされているのですか?」


カオルが一瞬呆気にとられた表情をした。理由は、隊を抜けていた間のことを聞かれるのかと思いきや、カオルの個人的なことを聞かれたからだ。

 カオルは正直に答えるか少し迷ったが、府芭の表情を見ると今後聞いてくる可能性が高いなと思った。今二人で居る時に答えるほうがいいと判断すると、ティーカップを机に戻した。


「僕には父と母、それに弟がいたよ」


初めて聞く情報に府芭は嬉しそうに耳を傾けていたが、言い方に首をひねった。


「いたって事は、今は・・・」


府芭が最後まで言えなかった言葉をカオルが付け足した。


「もういないよ。僕が七歳の頃にみんな事故で死んだ。それからは、総帥が親代わりみたいなものだったんだ」


途端に府芭が泣きそうな表情をした。


「すみません。俺、何も知らずに」

「気にしなくていいよ。こんな世の中なんだから、家族を失っている者は多い。府芭のご両親は元気にしているのか?」


府芭の両親は海外で暮らしている。当時から海外で暮らしていた府芭の両親は、あの日の事を聞き日本に戻ろうとしたが、海外からの出国を許されず、会えなくなってしまった。


「元気にしていますよ。毎日のようにメールが来ますから」

「そっか、良かったね」

「はい、元気だけが取り柄の両親なので。・・・あの、隊長のご家族についてもっと聞いても大丈夫ですか?」


府芭が恐縮した様子で口を開いた。


「構わないよ。何でも聞いて」

「えっと、じゃあ、弟さんはどんな方だったんですか?」


カオルは机に両肘をつくと、指を組んだ手に顎を預けた。


「弟と言っても、双子の弟でね。一卵性だから見た目はそっくりで、両親ぐらいしか見分けられなかったよ。時々見分けのつかない周囲を困らせたこともあったし、それを楽しんでもいたかな。二人で一つ、そんな言葉がピッタリなほどにずっと一緒にいたよ」

「じゃあ、性格も似ていたんですか?」


府芭の質問にカオルは首を少し傾げた。


「う~ん、性格はあまり似ていなかったかな。僕はかっこいいものが好きだったけど、弟はぬいぐるみとか可愛いものが好きだったから。それに泣き虫でもあったかな」

「本当に似てないですね。でも、ぬいぐるみが好きって可愛らしい弟さんですね」


弟の話をするカオルの表情がとても柔らかく、府芭は悲しい思い出だけじゃない事がわかり、嬉しくなった。


「弟さんに会ってみたかったです。きっと、隊長に似て素敵な人になってたでしょうね」


府芭はカオルの隣にもう一人のカオルが居るのを想像した。容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、可愛い物好き・・・文句なしだった。


「何を想像してるのかは知らないけど、必ずしも弟が僕と同じように育っていたとは限らないよ。むしろ、その可能性の方が高い」


カオルが呆れ声で指摘した。


「いえ、一卵性でしたら弟さんも間違いなく隊長と一緒で立派な方になっていたに違いありません!」


府芭が自信満々に言い放った。

 一卵性であれば似て育つかもしれないが、性格まで同じとは限らない。それを分かっているはずなのに、府芭は絶対だと言い切った。あまりにも府芭が力説するもので、カオルは何だかおかしくなって声を上げて笑い始めてしまった。滅多に見れないカオルの様子に、府芭は口を開けたまま固まった。

 決してカオルは笑わないわけではない。だがいつも淑女のように笑い方ばかりで、大声を出して笑ったところなど一度も見たことがない。

 府芭はハッと我に返ると、カオルと一緒に笑い始めた。散々笑うと、カオルが真剣に府芭を見据えた。


「府芭、僕は必ずお前達を守るよ。家族を失った僕にとってお前達は、大切な仲間であり家族だ。必ずこの世界から蟲を消し去り、お前がまた家族と会えるようにする」


先ほどまで笑っていたカオルが急に態度を変えた事への驚きはあったが、言われた言葉が染み渡ると頬に温かなものが伝い、府芭は自分が泣いていることに気が付いた。涙は次第に大粒となり、ポロポロと落ち府芭の膝を濡らした。

 カオルには府芭の涙は見えなかったが、僅かに揺れる肩と小さく聞こえる嗚咽に、見なくてもわかった。カオルは、府芭の隣に立つと、優しく頭を撫で始めた。すると、府芭は隣に立つカオルの腰に腕を回し、涙を隠すように顔を押し付け声を押し殺しながら泣き続けた。


「家族に会えなくて辛いのは知っている。蟲に兄を殺されて敵討ちを望んでいるのも知っている。お前だけじゃない、皆が辛い思いをしているのを知っている。この残酷な世界では常に死と隣り合わせだ。でも、必ず僕がこの世界を救ってみせる。だから、もう少しだけ辛抱してくれ」


 府芭はカオルのことを隊長として敬うだけでなく、殺された兄の面影も重ねていた。自分より小さな背中が大きく見えて、誰よりも頼りになって、この人の傍を離れたくないと心の底から思っていた。もし今このぬくもりから離れてしまえば、自分は生きていけないとまで思っていた。それだけ府芭にとってカオルは、この残酷で真っ暗な世界で唯一の光となっていた。

 府芭はカオルの言葉に何度も頷き、腕の力を強めた。


「すみませんでした」


 漸く泣き止んだ府芭は目を真っ赤に腫らし、カオルが用意してくれたタオルで目を冷やしていた。


「気にする事はないよ。夜の巡回までまだ時間はあるから、それまで冷やしてるといい」


府芭は、カオルの優しさにますます恥ずかしくなった。年上であるにも関わらず、情けない姿ばかり見せている自分がどうしようもなかった。府芭は盛大に溜息をつくと、重々しく礼を言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る