まだ日も昇らない時間、カオルは一人である場所に向かっていた。

 空にはまだ薄っすらと星々が輝きを残している。人の声もまだ聞こえない。公共交通機関もまだ動き出していない。とても静かな時間だ。

 カオルの頭の中には、これから向かう場所の情景が鮮明に思い浮かべられていた。

 そこは、嘗てカオルが大好きな家族と共に暮らしていた家だった。楽しかった毎日。いつも笑っていた優しい父と母。そして自分の半身である弟。どこへ行くのも、何をするのも、ずっと一緒だった。

 瓜二つな二人は周囲の者には見分けなどつけられなかった。だけど、それが嬉しかった。自分達は二人で一つ。決して一人では生きていけない。半身が失われれば、半身は生きる術を失う。死させも二人を分かつことはできない。

 死ぬまでこの幸せが続くと思い込んでいた。―――が、その幸せは呆気なく消え去ってしまった。


 懐かしい家の前に着くと、カオルはゆっくりと門を押し開いた。荒んだ家にあの頃の美しさの欠片は無いが、今でもカオルにとってこの家は美しくぬくもりを宿したままだ。


「ただいま、父さん、母さん、―――・・・」


玄関を開けると、家の中はあの日から何も変わっていない。変わったのは自分だけ。飾られた写真の中は、今でも楽しい時間が存在している。

 あの時、あの場所で、自分の時も止めてしまえば幸せだったのかもしれない。何度も何度もそんな事を考えたが、あの時のカオルには半身だけでなく全てを失うことは出来なかった。

 カオルは二階へ続く階段を昇った。手すりには薄っすらと埃が被っている。誰かが侵入した痕跡はない。

 カオルは一つのドアを開け中に入った。部屋にはたくさんのぬいぐるみが飾られ、木製のオルガンにベッドがある。この部屋は、かつてカオルと弟が過ごした部屋だ。

 子供部屋にしては広い部屋。カオルは、あの頃は感じた広さを思い出しながら、ゆっくりと部屋の中を歩き始めた。

 弟の好きだったぬいぐるみは、日に焼け色褪せている。可愛いぬいぐるみを見るたびに欲しいとせがんでいた弟は、かっこいいもの好きのカオルとは正反対の趣味をしていた。ぬいぐるみを買ってもらうたびに、嬉しそうにしていた弟の笑顔はキラキラと輝いていて、その笑顔が大好きだった。カオルは、その笑顔を思い出しそうになって、すぐに止めた。


「・・・・お前はもういない」


 苦し気な囁きが部屋の静寂の中に混じりあった。

 家の中からも家の外からも人の声は聞こえない。このあたり一帯は、ハロウィン・ホラーの以降誰も住んでいない。とても静かな場所だ。

 オルガンの前に来ると、足を止めた。埃のかぶった蓋を上げ鍵盤を叩くと、寂しげな音が部屋の中に響く。

 ここではいつも母が二人の為に音を奏でてくれていた。母の奏でる音は優しくて綺麗だった。

 カオルは母の音色を思い出すように、鍵盤に指を滑らした。どれだけ弾いても、母の音を聞くことは出来ない。母の優しさに触れる事ももう出来ない。カオルは鍵盤から手を下ろすと、ただ鍵盤を見つめた。

 枯渇した涙はどれだけ痛みに苛まれようとも出てこない。悲しみを感じる心も、喜びを感じる心も、パズルのピースのように欠けて無くなってしまっていた。カオルはゆっくりと顔を上げた。


「―――――!」


カオルは突如驚きに目を瞠り、途端にオルガンの回りを見始めた。だけど、オルガンの周りには何も落ちていない。


「写真がなくなっている」


写真が置いてあったはずの場所に指を滑らせると、薄っすらと埃が溜まっていた。

 カオルは慌てて部屋から出ると、他の部屋も調べ始めた。けど他の部屋は何も盗まれてはいない。それどころか、家のどこにも誰かが侵入した痕跡はない。


「どうして写真なんかを・・・・?」


誰が何のためにカオルの子供のころの写真を手にしたのか、皆目見当も付かない。

 カオルは落ち着かせる為に、深呼吸をした。深く息を吐くことで、混乱に陥っていた思考のループから抜け出す事が出来た。

 黒腕を起動させ画面が浮かび上がると、何かを打ち込み、SENDをタッチした。

 家を出る頃には、既にあたりは闇と化していた。カオルは辺りを見渡すと直ぐに飛び立った。朝から長時間移動しているのも関わらず、その顔には一ミリも疲れが見られない。無限ではないかと思わせるほどのカオルの体力は、黒祇の中でも一、二を争う。創始者であり、長くこの世界に身を置くカオルであれば、当然の事とも言えるかもしれない。

 二時間ほどすると、大きな研究所の前に着いた。研究所にはバリケードが張られ、何人たりとも進入を許さない。勿論カオルも入ることは出来ない。

 研究所の回りをゆっくりと歩き始めたカオルは聳え立つ壁を見上げた。このぐらいの壁であれば容易に飛び越える事は出来るが、壁から伸びる鉄製のポールと壁の中にある機械が侵入を防ぐ。ポールからは建物を覆うようにアーチ上の電気が流れている。万一この壁を乗り越えて進入するものがあれば、高圧電流によって死を見る。どれだけ過酷な訓練を積んだカオルでも、高圧電流を耐えることは出来ない。

 また、壁の内側に設置されている高エネルギーレーザーが人を感知すると、発射される仕組みになっている。これは、百年以上前に日本の防衛装備庁電子装備研究所が完成させた兵器だ。世界でビーム兵器が完成したことで、各地の紛争で取り入られるようになった。だが、その兵器は一国を滅ぼすほどの威力を持ち、ビーム兵器は禁忌となってしまった。だが、各国はビーム兵器の研究を止めることはせず、表面上のビーム兵器廃止から数十年後に新たなるビーム兵器が完成した。それが、今日で条件下のもと使われるようになっている。

 カオルは中から気配がないか、物音がしないか探りながら歩いていたが、何も感じ取ることはできなかった。

 だが、もし腐蝕蟲エントマが侵入していても、新種の腐蝕蟲であれば一切の気配を感じさせないかもしれない。訓練を積んだ人間でも気配を消す事は可能なのだから。

 可能性を考えると、人を捨てた腐蝕蟲であれば、この電流に耐え出入りすることもできるかもしれない。どれも可能性であって、確証はない。

 数秒、カオルは壁を見上げて立ち止まった。試してみるかと一瞬考えを持ってしまったが、すぐに馬鹿げた考えを捨てた。ここで感電死をすれば何もかもが無駄になってしまう。ビーム兵器も避けられるかわからない。


「今日はこれぐらいにしよう」


時刻は既に二十三時を回っていた。




 カオルが本部を後にした数時間後、カオルからの連絡を確認した四人は脳裏に不安を過らせた。

 メールの内容は一週間空けることと、その間は楊隊と行動を共にするようにとだけで、カオルがどこで何をしているのか詳しい事情は何も記されていない。


「隊長は一人で何をしようとしているのだろうな」


府芭の部屋に集まっている四人の表情は様々だが、明快な表情とは程遠い。四人の気が沈んでいるのはカオルの不在が一番の理由だが、楊隊と常に一緒に行動しなければならないことにもあった。府芭もミシェイラも地獄の一週間になるに違いないと思った。


「楊隊長は、隊長がどこで何をしてるのか知っているのかしら?」


ミシェイラが覇気のない声で言った。ハウスが一つ咳払いをした。それはこのどんよりとした空気を払いのけるためだ。


「私の考えを申させて貰いますと、隊長殿は誰にもどこへ行くのか告げずに単独任務に向かったのではないでしょうか。普段の隊長殿の行動からして、その可能性が一番高いかと存じます。もし知っている方がいるとすれば、それは総帥ぐらいかと」


ハウスの意見には三人も同意見だった。

 カオルは、巡回の時間以外どこで何をしているのか、分からないこっとがほとんどだ。部屋を訪ねてもいないことが大半で、緊急連絡として送らなければ中々返ってこないときも多々ある。

 それはカオルの多忙さ故にだと四人は理解している。だから必要以上に聞いたり、引き止めたりと邪魔になるようなことはしない。


「一週間も隊長に会えないなんて干からびてしまいそうだわ」


大げさな表現かもしれないが、他の三人もそう変わらない思いを抱いていた。


「今日からが憂鬱だな」


府芭の言葉にミシェイラが盛大に溜息を吐いた。




 二日目、カオルは旧栃木県にある中禅寺湖に来ていた。カオルがこの場所を訪れるのは久方振りだった。

 遥か昔、この場所は神仏の祀り、修行の場所として霊場があった。如来像が祀られている為、観光地としても繁栄していたが、七十年程前から関係者以外の立ち入りを禁止とされている。今では黒祇関係者しか入ることは許されていない。

 カオルは険しい道を進み、八丁出島を歩いていくと一軒の家が見えた。


加茂十禅かもじゅうぜん殿はご在宅かな?」

「248日15時間19分45秒振りです、烏鷺様。十禅様は外出中ですので、中でお待ち下さい」


門番の女型ロボットに話しかけると、女型ロボットは声紋認証と顔認証でカオルと判断し、家主の所在を告げてから扉を開けた。


「ありがとう」


女型ロボットはカオルが家の中に入ると、扉を閉め、また椅子に座った。

 家の中は色んなものでごった返している。以前、十禅は坊主として此の地に住まい仕事をしていたが、趣味として世界中を歩き廻ることも多かった。この部屋にある物は、その時に集めたものばかりだ。趣味がいいとは言えないものばかりだが、日本にないものはいつ見ても興味を引かれる。

 カオルがさして広くもない家の中を歩き回っていると、勢いよく扉が開いた。女型ロボットが開けたのではないことは明白だ。


「お久しぶりです、十禅殿」


二メートルを超す大男は扉を潜るようにして入ってきた。鍛えられた体に、右半面にある額から伸びる深い傷が印象的だ。

 十禅はじっとカオルを観察し始めた。その間、カオルは何も発さず、じっと待った。


「家に帰ったのか。研究所にも行ったな。それで、何があった?」


十禅が大きな椅子に腰を掛けると、カオルは向かいの椅子に腰を下ろした。

 十禅は過酷な訓練の中で稀に発症する、特殊能力保有者だ。あまりにも過酷な訓練を熟すことで、身体のあらゆるところが変化する。それは肉体的なことだけでなく、脳も同様だった。

 そして、十禅は「神透しんとう」と呼ばれる眼を持っている。神透は、その人物の過去の行動と未来に起こる出来事を視ることができる。十禅の場合、過去の行動ははっきりと視えるが、未来は薄っすらとしか視えていない。


「僕の家に飾ってあった写真がなくなっていました」


十禅は顎鬚をいじりながら、何か考えるように目を閉じた。


「主の子供の頃の写真か。考えられる可能性は主の近しいものじゃな」


十禅は目を開けると、カオルを見据えた。十禅の目力の強さは、普通の人であれば怯えて逃げ出すほどだが、カオルはその目に怯えることなく平然と見返していた。


「どうじゃ?」

「黒祇の中でと考えるのは安直すぎます。では、研究に関わりのあった者か父と母に関わりのあった者がまだ生きていると考えるのが妥当でしょう。けど」

「そうじゃ。あの者らは全員死刑となった、はずじゃ。総帥以外はな」


十禅はカオルの言葉を遮るように言った。


「研究所では何か見つけたのか?」

「いえ、何も。勿論入ることは出来ませんでした」


カオルは首を横に振りながら言った。

 こうして話してみると、二日間で何も情報が得られていないことが分かった。そのことに焦りを感じないと言えば嘘になるが、手がかりの無い中で闇雲に動いても時間を無駄にする事は重々理解している。


「新種の腐蝕蟲に、写真のこと。僕はどうすればいいですか?」


カオルの問いに十禅は眉間に皺を寄せながら考え込んだ。いや、考え込んだのではなく、カオルの未来を視ているのかもしれない。

 カオルは微動だにすることなく、じっと十禅の言葉を待った。


「遠くない未来、主は蟲を統べる者と対峙するじゃろう。主に出来る事は、それまでに仲間を鍛える事じゃ。現状のままでは間違いなく黒祇は全滅する」

「それは、近々血戦が起こるという意味で合っていますか?」


十禅は眼を閉じたまま頷いた。十禅は目を閉じていたから気が付かなかったが、その時のカオルの表情はとても冷たい表情をしていた。


「では、その時に僕はそいつの正体を知ることができ、写真のこともわかるのですね?」

「その点に関しては、はっきりとしたことが視えぬ」


カオルは目を瞠った。

 これまでに十禅が曖昧な情報を与えたことは一度もない。視えたものしか口に出さない。にもかかわらず、その曖昧な情報をカオルに与えたということは、よほど重要なことなのかもしれない。カオルはそう判断した。


「もしかしたら、既に会っている者なのかもしれん。写真に関しても何とも言えん。烏鷺、気を付けろ」


十禅の最後の言葉は、やけに重々しかった。カオルは頷くと立ち上がり、深く一礼をした。


「ありがとうございました。本部に戻ります」


カオルが扉に手をかけ出ようとすると、十禅に呼び止められた。


「何が合っても己のすべき事を忘れるな。主の守るべきものが何なのかはっきりさせておけ。でなければ、主はまた多くの命を失う」

「わかってます。十禅殿も力を使いすぎないように」


カオルはもう一度頭を下げると、十禅宅を後にした。

 十禅の言葉には必ず意味がある。これまでにも十禅の予知で危機を脱してきたことはあった。だけど、その予知は完璧ではない。人が確かな未来を見通すことなど不可能なのだ。カオルは「罪」を繰り返さないために、心にある戒めの存在を再認識した。

 日付が替わり一刻過ぎたころ、カオルは本部の入り口の前に立っていた。

 さすがに三日間自力での移動では、体に疲労が蓄積されている。直ぐにでも元のもとに行きたかったが、時間も己の体力も考えると、自分の部屋に直行することにした。幸いにして部屋まで誰にも出会う事はなかった。

 部屋に入ると、目の前にあるベッドに倒れこみたかったが、埃まみれの服で寝るような事はしない。カオルは室内シャワーで汗を流し着替えると、漸くベッドに腰を下ろした。

 体は疲れているのに、頭の中は冴えている。一番の気がかりは、無くなっていた写真の事だ。何者かがカオルの周辺を探っているのか、それとも全く別の理由なのか、何も分からない。

 カオルは顔を上げると、腕輪式端末装置を操作した。予定よりも早く戻ってきたことを伝えるため、楊と隊員に一斉にメッセージを送る。誰からの返事も無い事を確認すると、カオルは重たい瞼を閉じた。

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