あの悪夢の三日から四年の月日が過ぎた。

 人々は擬い物の平和を取り戻し、いつもどおりの日常を過ごすが、壊れた世界の歩みは止まっていない。

 美しかった景観は壊れ、人も世界も崩壊の道を進み続ける。壊れてしまったものは決して戻らない。失った者も決して戻って来ない。

この国で生きる限り、誰もが恐怖や悲しみに囚われ続ける。

 ―――人々は決して出ることの出来ない檻の中で、今も生きている。




 少年は壊れてしまった世界に目を閉じた。

 記憶の中にある美しかった街は、今でも鮮明に思い出す事ができる。だけど、目をあければその景色は一転し、残酷な現実がこちらの意思とは関係なく押し寄せてくる。

 壊れた世界には面影ばかりが存在し、新しく生み出されるのはこの国の平和の象徴ばかり。

 文化を守ることも、新しい文明を生み出すことも、この国は放棄する。

 もう、あの頃には戻れない。


「何してるの?隊長」


少年しかいなかった場所に、風に乗って女の声が届いた。

 長い金色の髪を風に靡かせた女が、少年の背後に立っている。風も光も遮らないこの場所で、女の髪は夕日を浴びる金色の麦畑を思い起こさせる。


「ミシェイラこそどうしたんだ?」


少年は振り返ることも問いに答えることもせず、質問を返した。


「あなたを呼びに来たのよ。巡回の時間」


少年よりも年上であろう女は、少年の態度を咎めることなく、呆れたように肩を竦めた。女の表情に侮蔑などの負の感情は一切見られない。むしろ少年を見つめる眼差しには、敬愛が含まれている。

 女は急かすことなく、少年が動くのをじっと待った。


「もうそんな時間だったのか。こうしていると時間を忘れてしまうよ。呼びにきてくれてありがとう」


少年が柔らかな声で礼を述べた。

 少年は、ときどき気まぐれに街が一望できるようなところに上っては、ただ目の前の景色を眺める。少年が何を思い壊れた街を眺めるのか、それを知る者は誰一人としていない。


「気にしてないわ。それに夕日に染まる隊長って綺麗で好きよ」


女の言葉に少年は微苦笑で返した。


「ねえ、いつも何を見て何を考えてるのか、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないかしら?」


少年が立ち上がり歩き始めると、ミシェイラは少年の半歩後ろを歩いた。


「知りたいのか?」


少年は少しだけ首を捻らせた。


「ええ、可愛いあなたの事なら何でも知りたいわ」


少年はミシェイラの言葉に呆れたように首を振った。

 ミシェイラが少年を可愛いと言ってしまうのも理解できる。少年のアーモンドの形をしたオッドアイの瞳は童顔を引き立てるが、整った顔は「愛らしい」よりも「美しい」と表現するほうが適切だろう。老若男女問わず、少年の魅力に引き寄せられる者は少なくないはずだ。

 そして、ミシェイラも少年の持つ魅力に魅了された一人だった。


「ミシェイラ、男が可愛いと言われても嬉しくないと何度も言っているだろう。ミシェイラのような綺麗な女性に言われたら尚更な」


ミシェイラは、少年の言葉に一瞬驚いた表情をした。

 少年の隣を歩く女は、少年よりも背は高く、輝くような金色の髪に、切れ長い瞳、出るところが出ている身体つきは、女性から羨望の眼差しを受け、世の男性を虜にするに違いないだろう。ひと昔前であれば、世界のトップモデルとしても輝けていたに違いない。そう言わせるほどの女だ。

 ミシェイラは、驚いた表情から一変して嬉しそうに微笑むと、少年の腕に抱きついた。


「ふふっ、それは隊長の目から見ても私は綺麗ってことかしら?」


少年の耳元に寄せる唇は魅惑的で、囁く声はトロトロの蕩けるチョコレートのように甘そうだ。それを一口味わってしまえば、永遠の隷属となってしまいそうなほどに。


「そうだよ。ミシェイラの美しさは、僕が知る中では一番だと思ってる。それと、歩きづらいよ」


少年は女の甘い囁きにも、腕に当たる感触にも靡かず、何の動揺も無く言い放った。


「つれないわね。もう少しいいで―――ッ!」


ミシェイラの続くはずだった言葉が何かによって遮られた。


「いったーい!何するのよ、府芭くらば

「ミシェイラ、隊長に無礼な態度を取るな!」


一寸の狂いもなくミシェイラの顔に直撃したのは黒い帽子だった。

 帽子の飛んできた方向には、好青年と言われるような男が気色ばんだ表情で立っている。真面目そうな見た目に似合わない気色ばんだ表情はミシェイラに向けられ、ミシェイラも男にふくれっ面を向けた。

 府芭と呼ばれた青年は、少年から帽子を受け取ると丁寧に礼を述べてから、帽子をしっかりと被りなおした。


「男が嫉妬なんて見苦しいわよ。なにより隊長が怒ってないのに、何であんたに怒られないといけないのよ!」

「俺は嫉妬などしていない。お前の無礼な態度を改めろと言っているんだ」

「どこが無礼なのよ。私の魅力を愛する隊長に見せてただけじゃない」

「お前の魅力などどうでもいい!」


ミシェイラは先程までの色気が疑わしいほど、子供同然に府芭と口喧嘩を始めてしまった。

 少年にとってこの光景は見慣れたものだが、時間を確認すると早々に止めに入った。


「二人ともそれぐらいにしときな。府芭、あとの二人は?」


二人は一瞬でけんかを止め、すぐに少年を視界に入れた。


「はい、既に下で待っています」


少年は頷くと、見下ろせば人が蟻に見えるほどに高く、足が竦みそうな場所から易々と飛び下りた。ミシェイラと府芭も躊躇うことなく続いた。

 少年はただ地上を見下ろし、府芭も同じように地上を見、ミシェイラは向かい来る風を気持ちよさそうに感じている。彼らが「国つ神」と呼ばれる所以は、この人ならざる身体能力にもあった。


「待たせて悪かったね、ろん、ハウス」


三人が下りた先で待っていたのは、細身でうつむき加減の男と、スラリとした長身でダークブラウンの髪を七三分にした男だった。


「それほどお待ちしておりませんよ、烏鷺うろ隊長殿」


烏鷺隊長と呼ばれた少年は、恭しく頭を下げるハウスに苦笑した。

 「烏鷺うろカオル」それが、この少年の名前だ。この名前を知らぬ者は、この国にはいない。なぜなら、この少年がただの隊長ではないからだ。


「ありがとう。じゃあ、行こうか」


そして、五人は一斉に飛び立った。

 彼らの超人的な身体能力は、過酷な訓練によってその体に宿している。訓練では、身体が壊れ、死に至る者も少なからずいる。そして、その訓練をやり遂げた者だけが、黒祇こくぎに入隊することができる。

 勿論、生身の身体だけで成しているわけではない。黒祇研究員によって作られた衣は、身体への負荷を減らすためあらゆる機能が施されている。一人ひとり特注で作られており、手間暇が惜しみなく掛けられている。

 そして黒祇の金色の武器こそ、衣以上に時間をかけて作られているものだ。各々が使いやすいように形を加工し、「奴ら」を一発で仕留めるために鋭い刃が形成されている。金色の武器同士で斬りあっても、決して折れない。

 だがこれだけの力を有しても、黒祇は必ずしも「奴ら」に勝てるわけではない。

 「奴ら」とは、かつてこの国の研究機関で作られた寄生虫によって人外の力を得た「腐蝕蟲エントマ」と呼ばれる「人間」のことだ。

 卓越した身体能力を得るために身体に寄生虫を宿すことによって、人成らざる力を得ることができる。だが神の恵みである「恩寵カリス」と名付けられた力には、副作用も付いてきた。

 驚異的な身体能力を得た人間は、理性を失い、自分が何者かも忘れ、見境なく生き物を襲う。その生き物の中には人間も含まれ、研究所の人間が何人も殺された。血肉を求め、人の肉を食らう。その姿は、「人間」ではなかった。

 そして、黒祇はその力を「国つ罪」と呼び、国の汚れが生み出した「罪」として断罪し続けている。

 「国つ罪」が無くなるまで、「国つ神」である「黒祇」は戦い続けねばならない。それは、予め防ぐことのできなかった者の「罪」だからだ。




 冬空の下、カオルは一人街を見下ろしていた。

 闇に包まれた街は街明かりだけで、人の姿はほとんどない。腐蝕蟲エントマが現れてから、人々の外出時間は以前に比べて格段に短くなっていた。

 夜の闇には腐蝕蟲が紛れ易く危険も多い。危険を回避するため、外出時間は十八時までと人々が勝手に決めている。学生も働く者も街を放浪する者も、一斉に帰宅をし始める。

 深夜営業している店もあるが、帰宅前のサラリーマンが遅くまで飲み明かす習慣は風化してしまった。利用するとすれば黒祇の隊員が大半。

 故に、夜に街に出歩く者は殆どいない。いるとすれば、黒祇の隊員か命知らずの呆気者ぐらいだ。そんな呆気者に帰宅するように促すのも巡回中の隊員の仕事でもある。

 カオルのすぐ傍にトンっと小さな足音がした。カオルはその音を気にすることなく、まだ街を眺めている。


「隊長殿、東の断罪は終えました」


足音の正体はハウスだった。

 巡回はミシェイラと啉、府芭とハウス、カオルの三手に分かれて行っていた。基本的にカオル以外の隊員が一人で巡回することはない。カオル以外の四人が、一人で数体の腐蝕蟲に出くわした時の事を考えると、今の隊員の実力では一人で三体以上の腐蝕蟲を相手にして勝てる可能性は―――全く無いというわけではないが―――高くないのが現状だ。その点を危惧してカオルは、決して隊員たちを一人にさせない。

 巡回中に腐蝕蟲エントマに出くわす数はそれほど多くない。せいぜい五、六体と言ったところだ。何十体もの腐蝕蟲が一度に現れたのは、あの日から数えるほどしかない。

 だが、その数回で最悪の事態が生み出されたのは、消す事のできない事実と記憶として残っている。

 だから決して油断はしない。


「ご苦労様」


カオルは二人に労いの言葉をかけた。


「二体の腐蝕蟲エントマを見つけ断罪。隊長殿の方は何もございませんでしたか?」

「僕の方は大丈夫だったよ」

「そうでしたか」


ハウスはカオルの隣に立つと同じように街を見下ろした。見慣れてしまった街の景色が目に映る。ハウスはちらりとカオルの表情を盗み見ると、その横顔は穏やかな表情を浮かべていた。


「隊長殿の目にこの街はどの様に写っているのですか?」

「どうしたんだ?急に」


ハウスの突然の問いに、カオルは内心首を傾げた。


「今の隊長殿はこの街を見ていながら、別の場所を見ているように見えましたので。私の勘違いでしたら申し訳ございません」


ハウスの指摘は的を射ていた。

 カオルが見ているのは美しかったころの街並みであって、目の前の現実を見ているわけではない。それは、無意識にこの現実から目を逸らすために行われている行為だった。


「ハウスは壊れてしまう前の世界を覚えているか?」


カオルの柔らかい声がハウスの耳に届いた。

 カオルの機嫌を損ねていないことに、ハウスは少しばかりホッとした。カオルがこの程度のことで気分を損ねることは決してないが、尊敬する人物に嫌われたくないと思ってしまうのはいい大人でも一緒だ。

 ハウスは街からカオルへと目線を移した。


「ええ、勿論覚えています」

「僕はこの景色を見る度に、あの頃の記憶が薄れていっているような気がしてならないんだ。少しずつ、少しずつ、記憶に残っていた景色もこの世界と同じように壊れ、最後は何も残らないんじゃないかって」


ハウスにもカオルの気持ちは嫌というほど理解できた。

 カオルの抱く感情は、この壊れた世界で生きる者ならば何度でも思うことだろう。ハウスはかつての景色を思い出すべく、瞳を閉ざした。


「出来る事なら、隊長殿と美しい景色を共に拝見したいものです」


ハウスの些細な願いは、神に願おうと叶えられないモノだった。



 もし、この世界に神が存在するならば、世界が壊れることはなかったのだろう。

 もし、この世界に神が存在するならば、神は人のために何をしてくれるのだろう。

 もし、この世界に神が存在するならば、その神はただのお飾りでしかないだろう。

 もし、この世界に神が存在するならば、それはもう神ではないのかもしれない。


 神とは人の創り出した虚像でしかないのだから。




 暫くして、ミシェイラと啉が戻ってきた。


「隊長、こっちは一匹もいなかった」


啉がカオルの正面で敬礼をし、報告をした。寒さで赤くなった啉の鼻が目に留まる。口には出さないが、みな早く暖かい場所に行きたいと思っていることだろう。


「うん、ご苦労様。じゃあ、帰ろうか」


無事巡回を終えると、カオルたちは足早に本部へと戻った。

 黒祇の本部は旧東京都に存在する。

 現在の日本は明治初期まで使われていた令制国で区分されてる。今でも旧名を使う者は少なくない。

 何故、過去の制度が日本に用いられるようになったのか。それは日本から独立する県が出たからだ。

 被害のなかった県である旧北海道と旧沖縄は、独立国家を築き始めた。勿論日本政府は猛反対をし、国民も同じ日本人として恥ずかしくないのかと蔑んだ。だが被害を受けた本土を見れば、そのような罵倒ぐらい甘んじて受け入れる事ができたのだろう。いつ自分達にも被害が及ぶかもわからないのに、本土と繋がっているわけにはいかないと、本土との繋がりをあっさりと断ち切った。

 そして、現在の呼び名は、「蝦夷」、「琉球」とかつて使われていた国名に改正されていた。

 武蔵にある本部は、実力上位の隊のみが配属することができ、実力を認められた隊員は支部長に任命されることもある。それぞれの支部には一五小隊以上が配属しており、本部はその倍以上の小隊が置かれている。

 何故、本部に実力のある隊が置かれ小隊の数が多いのか。それは本部が黒祇の要だという至極単純な理由だ。

 本部が落とされれば黒祇が終わるだけでなく、日本と言う国自体の終わりと言っても過言ではない。

 「平和の象徴」である黒祇本部は、嫌でも目が付く建物だった。


「ただいま」

「お帰りなさいませ、烏鷺隊の皆様」


 本部に帰って来た五人は、それぞれロボットに向かって挨拶をした。すると、無表情に立っていただけの女型ロボットが口を開いた。

 エントランスには監視ロボットが設置されていて、声紋認証と顔認証でパスされる。認証登録のない者は侵入者と見做され、基地内に警報が鳴り響き、ロボットによる拘束をかけられる。勿論二十四時間監視カメラにも見張られており、館内の全ての映像は司令室のモニターへと送られている。

 怪しい者は全て敵と見做す、それが黒祇のルールである。

 人は信じる事からではなく、疑う事から入る。そうしなければ自分の命を守ることは出来ないし、大切な者を失うことにも繋がる。

 これは黒祇に入隊する時に全員に告げられることだ。


「隊長、この後私と混浴しない?」


帰ってきたところだというのに、早速ミシェイラがカオルに絡んだ。


「こ、混浴だと!不埒な事を口にするな。隊長にも失礼だ!」


カオルが口を開くよりも先に、府芭が顔を真っ赤にしながら反論した。だがミシェイラは府芭の様子など気に留めることなく、無視をするでもなく軽く遇った。


「混浴ぐらいで煩いわね。あんたも入りたければご自由にどうぞ」


府芭はますます顔を赤くさせ、言葉無く口を開閉させていた。例えるなら、水面にあげられた真っ赤な鯉のようだ。

 黒祇には各自の部屋に浴室が設備されているが、男女別々の大浴場も設備されている。勿論混浴は存在しない。

 毎日大浴場を利用する者はいないが、疲れを癒したり気分転換をするのに利用する者は多い。様々な効能の温泉にサウナと揃っていて、ミシェイラはよく利用していた。ミシェイラだけでなく、他の女性隊員達にも人気が高く利用する者は多い。

 カオルは二人の様子に苦笑すると、いまだに絡み続けるミシェイラの額を優しく小突いた。


「ミシェイラ、揶揄からかうのはそれくらいにしといてあげな。それに、淑女が簡単に裸を見せるもんじゃないよ。僕もれっきとした男なんだから」

「あら、隊長なら大歓迎だわ。あの日から私の心も体も隊長のものなんですから」


ミシェイラは嬉しそうにカオルに抱きついた。


「口を挟んで失礼ですが、あの日とはいつのことでしょうか?」


三人のやり取りを傍観していたハウスが口を挟んだ。府芭と啉も気になったようで黙って耳を傾けた。


「あ~、話してなかったかしら?私ね、ハロウィン・ホラーの時、隊長に命救われたのよ。何が何だか分からなくて、もうダメだと思った時に隊長が現れて、私を蟲どもから守ってくれたの。あの時の隊長は本当に素敵だったわ。私をお姫様抱っこしながら夜空を駆ける姿は、まるで宛ら囚われの姫を救い出す王子様。オッドアイの瞳には私が映っていて、その瞳に吸い込まれそうだったわ」


ミシェイラはその時のことを思い出しているのだろう。うっとりとした表情をしていた。だがその姿に笑いを堪える府芭をミシェイラは気が付くと、鋭い目つきで府芭を睨んだ。

 すぐに怒りの矛先が向けられていることに気が付いた府芭は笑いを収めようとするが、それは功をなしていなかった。


「そのような事が遭ったのですね。不幸中の幸いとでも言いましょうか」


ハウスの言葉に、ミシェイラはしぶしぶ目線を変えた。


「ええ、そうね。あの事件がなければ、私は隊長に出会う事も無かったでしょうし、黒祇に入る事もなかったわ。だから、私と隊長は運命の赤い糸で結ばれてるのよ。ねぇ、隊長」


ミシェイラは語尾にハートが付きそうなほど甘い声で言った。


「そうだね。ミシェイラは綺麗だからお姫様の騎士になった気分だったよ」


カオルの言葉にミシェイラは珍しく頬を染め、ハウスは頬を緩ませた。

 カオルが言った「そうだね」とは運命云々に対する同意ではなく、ミシェイラが自分自身をお姫様に例えた事への肯定だったが、ミシェイラは気づくことなく舞い上がっていた。


「隊長殿が冗談を言うのは珍しいですね」

「あら、ハウス。冗談とはどういう意味かしら?答えようによっては」

「烏鷺君」


ミシェイラがハウスに掴みかかろうとしていると、五人の背後からカオルを呼ぶ声が聞こえた。五人は同時に後ろを振り返った。

 そこには小柄で可愛らしい女性が立っており、カオルの事を「烏鷺君」と呼んだのは彼女のようだ。


「お疲れ様、花影」


花影と呼ばれた女は、カオルの言葉に小さく笑みを返した。

 花影は黒祇の五本指に入るほどの腕を持ち、またこの黒祇の創始者の一人である。幼い見た目をしているが、数年前には成人を迎えている。幼い見た目は本人のコンプレックスで、その事に触れていけないのは暗黙の了解となっているほどだ。

 花影はカオルの目の前まで来ると、他の四人に目をやった。花影の意図をすぐに理解したカオルは、四人を振り返った。


「みんな、今日はゆっくり休んでくれ」


四人は言葉を発することなく、一礼をすると立ち去った。


「それで、人払いまでして何かあったのか?」

「ここでは話せないから、移動しましょう」


花影はそう言うと踵を返した。カオルは何も聞き返さずにその後を続いた。

 二人はエレベーターに乗り込み、花影の押した行き先は最上階だった。エレベーターが音も無く最上階へと向かっている間、花影は何も話さず終止下を向いていた。

 最上階には一部の者しか入る事の許されない部屋が存在する。そもそも最上階は基本的に創始者または呼ばれた者しか足を踏み入れる事が出来ない。本部に所属しているからと言って、誰もがどこにでも自由に出入りできるわけではない。

 最上階に着くと、花影はある部屋の前まで来、黒腕を照らし、指紋認証で部屋のロックを解くと、カオルを先に中に入れ、外に誰もいないか確認して扉を閉めた。

 この部屋はオートロック式になっており、中からは黒腕を照らさななければ出る事が出来ない。勿論カオルもこの部屋を使う事が可能だ。


「それで、そこまで警戒して何があったんだ?」

「・・・・・今日の巡回で腐蝕蟲に出くわしたわ」


花影が険しい目つきでカオルを見た。

 花影の言った事は何もおかしな事ではない。巡回中に腐蝕蟲に出くわすなんて、よくよくあることだ。ならば、花影は何に怯えているのか。

 カオルの目に映る花影は、得体の知れない恐怖に怯えているようにしか見えなかった。


「腐蝕蟲が喋ったのよ」


花影の一言でカオルの瞳が大きく見開かれた。


「どういう事だ・・・・・?」

「私にも分からないわ。出くわした腐蝕蟲は三体、一体は仕留めたし何の変わりもなかった。でも、残りの二体は仕留める事が出来なかったのよ。今までの腐蝕蟲なんかとは比べ物にならくらい強くて、私達が手も足も出ないくらい。奴らは間違いなく戦闘訓練を積んでいるし、連係も取れていたわ。本当に生きて帰ってこれた事が軌跡と言っても過言じゃない」


花影は恐怖を抑え得るために、自分を抱きしめた。


「戦闘中は奴ら何も話さなかったのに、去り際に言葉を発したのよ。『ただの人間如きが我々に勝てると思うな』って。恐怖に何も言葉が出なかった。ねぇ、烏鷺君・・・・」


矢継ぎ早に話すと、最後の言葉は声が震えていた。花影はカオルの手を取ると、縋るように見つめてきた。


「このことは統帥そうすいに話したのか?」

「勿論話したわ。でも統帥も困惑している様子だったし、何も仰らなかったわ」


カオル自身も花影から聞いた事実を目にするまでは納得できそうに無かった。花影が手も足も出ない腐蝕蟲が存在し、言葉も意思も持たない腐蝕蟲が言葉を発した。

 それは想像し難い話しだった。

 カオルは息を吐き落ち着かせた。自分でも気づかないうちに随分と動揺していたようだ。


「花影、大丈夫だ。強い相手が現れたのなら更に強くなればいい。今までもそうだったように。そうだろ?」

「・・・そうね。取り乱したりしてごめんなさい」


カオルの言葉に頷いた花影だが、不安は取り省けていなことがカオルにも伝わっていた。花影の顔はまだ青ざめていて、握られている手は震えが収まっていない。

 カオルは花影の手を握り返すと、優しく微笑んだ。


「いや、仕方がないことだよ。この件に関しては明日にでも全隊に通達が行くだろう。大丈夫、統帥にはお考えがあるはずだ」


カオルは花影を部屋まで送り届けてから、自分の部屋へ戻った。

 ベッドに倒れこむと、花影との会話を思い起こしていた。腐蝕蟲は確実に力をつけ、人間に近づいてきているのだろう。早々に手を打たねば、あの日の惨劇が繰り返される。

 カオルは、忘れることの出来ない記憶を思い起こさせたまま、眠りについた。

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