第2話 非常事態宣言


 辰己は、妹の無邪気な精神攻撃に耐えながら家を出た。

 早めに出たので座れたが、電車の中は、学生とサラリーマンでいっぱいである。みっちりの車内をしり目に、辰巳はタブレットを取り出しイヤホンを付けた。

 しかし、腹がいっぱいになると気力が湧いてくる。

 これならデイリー任務もこなせそうだ。

 リズミカルにタブレットの画面を指で叩きながら、辰巳は久々にわくわくしていた。

 画面には、選択問題。カントの純粋理性批判の穴埋め問題だった。

 辰己が正解するたびに、設問がすさまじい速度で入れ替わっている。

 これをクリアすれば、キャラクターの経験値が溜まる。

 レベルアップすると好感度が上昇し、背景グラフィックを買えるコインがもらえるのだ。


「元気出てきましたね!」


 イヤホンごしにひかるの声が聞こえる。声が嬉しそうだ。

 チャット画面を開いて、辰巳も返事を打ち込んだ。


『久々だからな! やっぱテンション上がるわ。まぁ、俺の書いたテキストが読み上げられるって精神的にもクルけど、どうってことない!』


 そう、各設問の語尾には辰巳監修の萌えセリフが足されている。設問の回答率が上がるとはいえ、ちょっと照れくさい。


「辰巳さんのテキストには違和感がないんです。私たちのことよくご存じですから。大丈夫、おかしくありませんよ! 辰巳さんのおかげで、他のプレイヤーの方たちも頑張れます」


 にこにことひかるが励ましている。実際プレイヤーの士気が高くなっているのは事実だった。

「さんきゅ……」

 小さくつぶやいて辰巳は顔を赤くした。



 □ □ □



「と、思ったけど流石にこれはアカン」


 早朝の学校に着いて、まず目に入ったのは、やにさがった顔でタブレットを叩いている生徒達である。

 ある生徒は歩きながら【study buddy】と談笑し、ある生徒は【study buddy】に励まされながら、ベンチを机代わりに用紙が破ける勢いで計算問題を解いている。

 カオスだった。


 磯上高校の生徒の成績は、全国平均より高い傾向がある。

 それもこれも、オタク特有のキャラクターへの入れ込みの強さで、成り立っている成績だ。

 それだけにバレンタイン戦争(期末テスト)への熱意も相当だ。

 辰己の胃がキリキリしてきた。

(こいつらのほとんどが満足するように、イベントを成功させるとかムリゲーだろ。下手打つと、ツブヤイターにまたいろいろ書かれそう……)

 顔色を白黒させている辰己。

 

 ふいに、ダースベーダーのテーマが流れ出した。


「電話ですよ。辰巳さん! 運営長からです」


 もっと胃が痛み始めた。

 今のタイミングでトラブルは勘弁してほしい。頼むただの世間話で終わってくれ。


「はい、辰巳です」

≪たっつー? 俺だけど、ちょっとトラブルがあった。本部までカムヒア≫


 全く危機感のない調子だった。運営長はいつもそうなので、実際にはもっと深刻なことが多々ある。


「了解、すぐ行きます」


 機械的に返したが、辰巳は泣きたい気持ちで顔を覆った。


「……トラブルだってさ」

「軽いことを祈りましょう。ほら、しっかり!」


 ひかるは、ことさら明るい声で励ます。確かに暗くなってもしょうがない。


「あいあいさー」


 辰己はよろよろと運営本部のパソコン室に歩みを進めた。


 □ □ □


 パソコン室では、パソコンの前に座った一人のデb……巨漢が、鼻歌交じりの唸り声を上げていた。演歌かもしれない。

 このベイマックスみたいなのが、運営長である。実は最近、ディズニーアニメに出演した。

 嘘だ。

 魅惑のマシュマロボディと間延びした声が特徴で、包容力に至ってははそこらの女子じゃ太刀打ちできないほどである。


 よろよろと現れた辰己の姿に、目を見開く運営長。強烈な隈に驚いたのかもしれない。

 しかし、すぐに辰己を手招きしてパソコンの側に呼び寄せると、ぷにぷにの指でパソコンの画面をさした。


「デスクトップのアイコンが反応しないんだ。あと、タスクバーも。もっと悪いことに、この現象が学校の全てのパソコンで起きてるのさー。……さて、どうしたらいいでしょうか?」


 小首を傾げられても、困る。辰巳は、頭を抱えた。


「勘弁してください、俺パソコンに詳しくないんですよ。運営長にわからないことが、俺に分かると思いますか」


 かといって運営長もパソコンには詳しくないはずだ。

 メンテナンス関係は、現在アメリカにいる【study buddy】の元開発者がすべて請け負っているので、『運営』ができることは企画とグラフィック、ボイス収録等々とクレーム対応ぐらいである。

 しかし、向こうに学校のパソコンを直してくれと頼むのは業務外だろう。

 こちらでできる範疇なら自分たちでどうにかしたいものだ。


「んー。一応、ググって色々試してみたんだよ。が、……全部ダメ。お手上げ。ばんざーい。あとは、最終手段しかない」


 ばんざーい、と運営長は手を元気よく上げた。あざとい。

 ますます辰己の頭が痛くなったが、恐る恐る聞き返す。


「最終手段?」

「OSの再インストール」


 辰巳は、運営長の前で顔を覆った。


「今の時期にそりゃ厳しいですよ。あと1ヶ月で、期末テスト――もといバレンタイン戦争です。おれ、もう修羅場はやだ……」


 運営長は、ポンポンと辰巳の背中を叩いてなだめた。


「泣くなってば。OSのインストールは、もう終わってる。たっつーは、このまっさらな共用パソコンにアレをインストールしてくれるだけでいいから。インストールソフト、たっつーが管理しているんだろ?」


 アレというのは、【study buddy】のパソコン版ソフトのことだろう。

 タブレットを持たない生徒や、授業で使うためには必須である。

 確かに、インストーラーは辰巳が開発者の先輩から預かっていた。


「あぁ、なるほど共用のメインマシンにぶち込むだけなら、インストールは一回でいいのか。データは全部サーバーにありますし。……確か、ロッカーに放り込んどいたような? ちょっと探してみます」


 そういって、辰己はフラフラと備え付けの個人ロッカーを漁り始める。

 狭いロッカーに頭をぶつけながら、ケースからUSBを取り出した。


「ありました。じゃあ、早速……ってあれ?」


 ロッカーから出してUSBをかざすと、見覚えのないシールが貼ってあった。

 デフォルメされた虹のシールだ。


「虹のシール? 先輩の悪戯か? ……んー、まぁいいか」


 先輩こと、開発者からは箱ごと渡されたので、こうじっくり見たことはなかったのだ。

 見過ごしていたのかもしれない。

 考えることすらしんどい辰巳は、気にせずそのままメインマシンにインストールすることにした。


どう考えてもフラグだった。



 □ □ □



 運営長は後ろでパラパラを踊りながら、演歌を歌っていた。これはうざい。古いくせにうまいのも微妙に腹が立つ。

 辰己は構わずサクサクとインストールを終了し、ベイマックス――もとい運営長に確認を求める。


「終わった? んじゃあ、同期っと」


 ざっと流しで確認して、同期確認にOKボタンを押す運営長。

 カリカリとCPUが唸りをあげ、やがて同期が終了した。

 これで、【study buddy】の再インストールが完了したことになる。


「はい終わりー、お疲れ。もう戻ってい……」


『ぎゃぁあぁあああああああああ』


 運営長が言い終わらないうちに、部屋の外から阿鼻叫喚の叫び声が響いてきた!

 運営長も辰巳も驚いて飛び上がる。


「な、なんだ!? 嵐でも来たの? それともSMAP?」

「んなわけないでしょ! ベイマックス!」

「え、それ俺のこと?」

「あ、しまった」


 動揺して、ついうっかり、陰のあだ名で呼んでしまった。

 運営長のチワワのようなつぶらな目が悲しげだ。ど、どうする俺!? 

 辰己が非常事態中にさらに地雷を踏み抜いていると、今度はひかるが慌てた声を出した。


「辰己さん、たつみさん! どうしよう!」


 混乱しながら、口を開きかけた辰巳。

 しかし、ひかるの声に猛烈な違和感を覚えた。


「なんだよ、ひかる。今それどころじゃ……あれ、お前そんなに声低かったっけ」


 タブレットを取り出して、辰巳は仰天した。

 そこには、端正な顔をした男性が半泣きで画面に映っていた。イケメンだ!


「私、男性になってます! あるものがなくて、ないものがくぇrちゅうおp」


 そういって自分の胸板をペタペタ触るひかる(?)。

 ないものが胸なら、あるモノって……そうかブツか。え、なんで? 


「お、おちつけ。とりあえず『びっくりユートチピア』と唱えるんだ……」


 ネットで仕入れた落ち着く方法を勧める辰巳。まず、お前が試せ。


「おにーちゃん、ぼく男の子になっちゃったよー!」


 運営長のタブレットから、甲高い子供の声が聞こえてきた。

 こんなショタボイスは【study buddy】になかったはず!

 慌てて運営長が開いた画面には、涙目のショタっ子が短いワンピースを一生懸命下に引っ張っる姿が映っていた!


「みかん! 何でショタっ子にーー!?」


 運営長の魂の叫び! なんか俺も叫びたい!

 あぁ、もう何がどうなって!? 


「運営長?! どうします!?」


 運営長は、普段の鷹揚さをかなぐり捨て叫んだ。


「アメリカの先輩に連絡! これはただのトラブルじゃない、非常事態だよ!」

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