第3話 若葉荘

 築40年はたっているであろうボロアパートの前に、大介、隼人と翔太が歩いてくる。

(若葉荘?ただのアパートじゃないの?)

 翔太は、アパートの入り口にかかっている「若葉荘」と書かれた札を見て思った。大介は、若葉荘のドアを開け、翔太の方を振り向いた。

「ここが、俺と隼人が練習しているジムだ」

 若葉荘の中に入った翔太は「おお」と言って驚いた。若葉荘の1階は、10メートル四方位の広さで、床には薄いマットがしかれており、壁の一面は鏡張りになっている。壁際にサンドバックが二つ吊るされている。

 ジムの中に一人の男-早見幸雄-が立っている。大介は「ちーす」、隼人は「こんにちは」と早見に挨拶した。

「はい、こんにちは。今日は一人多いね」

 早見が微笑みながら言った。

「今日は見学者を一人連れてきました」

 大介が翔太の肩に手を置きながら言った。

「こ、こんにちは。大介くん、隼人くんと同級生の南翔太といいます」

 緊張しながら翔太は言った。早見は微笑む。

「はい、こんにちは。ぼくは早見幸雄といいます。このジムでキックボクシングを教えています。といっても、ジムを開いたばかりなので、生徒はまだ大介くんと隼人くんの二人だけなんだけどね」

「二人だけ?」

 翔太が意外そうに聞き返した。

「隼人と俺は、早見さんが以前トレーナーをしていたジムに通っていたんだけどな。早見さんが独立するっつーんで、くっついてきたのよ」

 Tシャツと短パンに着替えながら、大介が言った。隼人も着替えをしている。

「さて、今日もいつものメニューで進めるけと、翔太くんは壁の方で座って見学してて」

「はい」

 翔太は壁際で正座して言った。

「いやいや、正座しなくていいから。普通に座ってて」

 微笑みながら早見は言った。


『練習メニュー

・ストレッチ 5分

・シャドーボクシング 5ラウンド(1ラウンド3分・ラウンド間の休憩30秒)

・ミット打ち 一人5ラウンド(二人一組で、交代でミットを持つ)

・サンドバック打ち 3ラウンド

・受け返し 3ラウンド(相手の技を受けて、攻め技を返すパターンの練習)

・マス・スパーリング 2ラウンド(早見を相手に行う、軽く当てるスパーリング)

・ストレッチ 5分

 ※タイマー付きブザーが、ラウンドの開始と終了のときにピーッと音を出す』


 大介と隼人がパンチとキックをサンドバックに打ち込んでいる。その横で早見が、二人のフォームをチェックしている。

 大介のパンチとハイキック(上段回し蹴り)は、翔太には見えないくらい速い。隼人のローキック(下段回し蹴り)は重く、ズシンとサンドバックにめり込む。二人の技量は高い。

 タイマー付きブザーがピーッと鳴った。

大介「あーしんど」

 大介と隼人は休憩に入り、タオルで汗をふいた。

 翔太は、大介と隼人の練習を見ながら、思った。

(いいなあ。かっこいいなあ。強くなれたら、毎日が楽しいんだろうなあ。寄生虫なんて言われないよね)

 翔太は流也の言葉を思い出した。

(「いいかげんうんざりなんだよ。甘ったれやろう」)

 ブザーが鳴り、大介と隼人がサンドバックを打ち蹴り始めた。

 翔太はふらりと立ち上がり、おずおずと早見に歩み寄って言った。

「あの、ぼくもキックボクシングを習っていいですか?」

 早見、大介と隼人が動きを止め、翔太を見た。

(見学だけかと思ったんだけどな。この子、体が細すぎる)

 早見は思い、翔太に言った。

「うーん、いじわるで言うんじゃないんだよ。大介くんと隼人くんのパンチとキックを見たでしょ。この二人のレベルは高いんだ。君がここに入るのは、君自身がちょっとつらいんじゃないかなあ」

 ムカッとした大介が早見の方へ一歩踏み出したが、隼人が大介の肩をつかんで言った。

「よせ、早見さんの言うとおりだ」

 翔太は、早見に言われたことを気にもせず、ヘラッと笑いながら言った。

「落ちこぼれるのが心配なら大丈夫です。もう十分落ちこぼれてますから」

 早見は翔太の言葉を聞き、真顔になった。

(なぜそんなことを笑って言える?プライドがないのか?)

 早見は、ヘラヘラと笑っている翔太を見て思った。

(まあ体験するのが一番か)

「大介くんと隼人くんは練習を続けて。翔太くんは、体験レッスンということで、基本を少しやってみようか」

 早見は、練習を止めていた大介と隼人に指示を出し、翔太に言った。

「え、今からですか」

 翔太は驚くが、早見は微笑みながら、翔太に歩み寄った。

「大丈夫。軽くだから。まずは立ち方。翔太くんは右利きかな?」

「はい」

「では立ち方は、肩幅くらいに足を開き、右足を一歩後ろに引く。左足のつま先は正面に向けて、右足のつま先は45度右側へ向ける。ひざは軽くゆるめる。両足の踵は少し浮かせる」

 早見が手本を見せる。翔太は真似をして立つ。

「上体はまっすぐ。前傾姿勢にならないように。ヘソを45度右側へ向ける」

 これも早見が手本を見せ、翔太が真似する。

「次は拳をにぎる。人差指から小指を折り曲げて、その上を親指で軽く押さえる。その両拳をこめかみのあたりに上げる。これが基本の構えだ。鏡に映っているぼくと君の構えを見てごらん」

 翔太が鏡を見る。早見の構えは力みがなくバランスがいい。翔太は、肩が上がり、両腕に力が入り過ぎ、両膝が伸びている。

「翔太くん。もう少し体の力を抜こう」

 早見は翔太に言った。

「はい!」

 翔太は返事はいいが、さらに肩に力が入る。

(初心者とはいえ、体がカチンカチンだ。この子、運動センスないわー)

 早見は心の中でため息をついた。

「えーと、キックボクシングはパンチとキックを使うスポーツです。ヒジはアマチュアでは禁止。では第一の基本から」

 早見が構えから、左足を踏み出し、左パンチを見えない速さで打った。

「ま、まるで見えない」

 翔太は驚いた。

「これがジャブです。左拳をまっすぐ突き出すだけの、シンプルだけれど奥の深い技」

 早見は構えて、翔太にゆっくりと説明する。

「実はパンチは足から起動する技です。ステップイン、つまり左足を半歩前に踏み出し、体重を左足にかける。その前進力を使って、左肩をまわし、左拳をまっすぐ突く。押し出すんじゃなく、肩からはじき出す感覚です」

 早見がゆっくりと左拳を突き出した。

「左腕が伸びきった瞬間、つまり当たった週間だけ左腕に力を入れ、左腕を一本の棒のように固定する。このとき拳の甲が上を向いていること。そして力を抜いて、左拳を元の構えの位置に早く戻す。その間、右拳は構えの位置のまま。絶対に下げないこと。さあ、やってみよう!」

 翔太が鏡に向かって、ジャブを打った。しかし、左足に体重が乗っていない。左肩が回っていない。左腕はまっすぐでなく、弧を描いた。

「うわ、早見さんとまるで違う。難しい」

 翔太は情けない顔で言った。

(まいった。だめなところが多すぎて言えない)

 また早見は心の中でため息をついた。

「今日は、ジャブを練習するとして。基礎体力も必要なので、筋力トレーニングも少しやってみよう」

 早見は翔太に言った。

「鏡で自分のフォームを見ながらジャブ50発、腕立て伏せ10回、上体起こしの腹筋10回、スクワット20回を1セットとして、何セットできるかやってみよう。ただムリはしないでね。途中で何度休んでもいいから、マイペースでやってみて」

 早見の言葉に翔太はうなずき、鏡に向かってジャブを打ち始めた。

 早見は、受け返しの練習をしている大介と隼人の方に歩み寄った。

 大介と隼人が受け返しから、マス・スパーリングの練習をする間、翔太は早見に言われたことを黙々と続けるが、ペースは遅い。大介がちらっと翔太を見た。

(マイペースってのが、実はきついんだ)

 大介は翔太を見ながら思った。

(最初のうちはがんばれるけど、疲れてくると休み時間が少しづつ長くなる)

 隼人も翔太を見て思った。

(基本の反復ばっかしていると、なんのために、こんなことしてるんだっつー気持ちになるんだよな)

「1、2、3、よ~ん」

 翔太は数を数えながら、腕立て伏せをするが、4回でつぶれた。

「マジか。腕立て5回もできないのか。なんで連れてきたんだ。かわいそうだろ」

 休憩のとき、隼人は大介に言った。

「見学だけだと思ったんだ。まさか自分からやると言い出すなんて思わなかったんだよ」

 大介は隼人に言い返した。

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