タブーに触れるとき

ユウは区役所でもらった婚姻届の用紙を眺めながら、ぼんやりと考えていた。


ユウにとっては実物を見るのもさわるのも初めてだった婚姻届だが、レナはかつて須藤と婚約していた時に、婚姻届に署名したのだろうか?


ユウと再会する前のこととは言え、レナはどんな思いで須藤と婚約したのだろう?


(今更過ぎて聞けないけど…気になる…。)


考えてみたら、今更過ぎて聞けないようなことは、たくさんあるような気がした。


あの時レナはどう思っていたのか、とか…。


そしてユウは、離れていた10年間のレナのことを、何も知らない。


逆に、レナにとっても、今更過ぎて聞けないようなことがあるのではないか?


(今更なんだけどさぁ…とか言ってさりげなく話してみるか?いや、でも…。)


そんな話をしても、二人の関係は今と変わらずにいられるのだろうか?


自分の知らないレナを知るのは、正直言って、少し怖い気もするし、知りたい気もする。


逆に、レナの知らない自分を知っても、レナは嫌わずにいてくれるだろうか?


(ああ…オレ、気が小せぇ…。)


知らなければ一生知らないで済むことかも知れない。


でも、知りたい。


(こういうのパンドラの箱って言うんだっけ?オレにとってはタブーのような気もする…。)


ユウは婚姻届の用紙を、クリスマスプレゼントを隠した引き出しに一緒にしまった。


(聞いてみるか…。でもどうやって?)


ユウは答えのない迷路をさまようように、ぐるぐると思いを巡らせた。




その時レナは、リサのマンションの部屋で段ボール箱をごそごそと漁っていた。


ニューヨークに行く前にかなりの私物を片付けたが、アルバムや思い出の詰まった物だけは、いくつかの段ボール箱にまとめて、リサに預かってもらっていたのだ。


「何が入ってるの?」


リサが箱の中を覗き込む。


「アルバムとか…。昔の思い出の物とか…。あっ、あった。」


レナは高校の卒業アルバムを取り出した。


「あら、懐かしいわね。」


1年、2年、3年…。


進級時にはユウもクラスメイトと一緒に並んで写っているけれど、3年の1学期の途中で退学したユウは、その後の写真には写っていない。


「高校時代の思い出でも語り合うの?」


リサは制服姿のレナを懐かしそうに見ている。


「ユウ、途中で学校辞めちゃったから、1度も見てないんじゃないかと思って。一緒に見てみようかなーって。」


「いいんじゃない?」


箱の中には、幼い頃のアルバムも入っている。


「なんか懐かしい物がいろいろ入ってるから、持って帰るね。」


「そうね。たまには二人で思い出話に花を咲かせるのもいいんじゃない?」


「うん。」


「ああ、そうだわ。これ、少し前に須藤さんから、会社の方に届いたの。持って帰ったのはいいけど、ずっと忙しくて帰ったら疲れてすぐ寝る生活だったから、ずっと開けそびれてたのよね。」


レナは厚みのある梱包材の感触のする封筒を受け取りながら、不思議に思う。


「なんでリサの所に?私に送るなら、事務所の私宛に送ればいいのに。」


リサはキッチンで紅茶を淹れながら、軽く振り返ってレナに言う。


「レナじゃなくて私宛に届いたの。レナ、開けてみてよ。」


「うん。じゃあ…。」


レナは封筒の端をハサミで切り取り、梱包材に包まれたそれを取り出した。


「これ…。」


「なあに?写真集?」


トレイに紅茶を乗せて戻ってきたリサが、その表紙を珍しそうに眺める。


「これ、私がニューヨークに行った時にモデルをしたの。」


「どれどれ、見せて。」


「うん…。」


レナが写真集を手渡すと、リサはゆっくりと表紙を開き、そっとページをめくる。


しばらく黙って写真集を見ていたリサが、ポツリと呟いた。


「なるほどね…。だから、私宛なんだ。」


それを聞いたレナが不思議そうに首を傾げた。


「どういうこと?」


リサは黙って写真集をレナに手渡す。


レナは静かにページをめくり、そこに写る自分の姿を見た。


自分でも知らなかった顔。


寂しげに遠くを見つめる顔。


物憂げにうつむく顔。


そして、泣きながら微笑む顔。


「………。」


「レナのこういう顔は、やっぱり須藤さんじゃないと撮れないわね。」


「…うん。」


「これを私宛に送ったのは、須藤さんなりのケジメじゃないの?」


「え?」


「理由はどうあれ、1度は結婚しようって、レナをニューヨークに連れて行ったでしょ?」


「うん。」


「母親である私に、レナをお返ししますって意味じゃないかなって。婚約解消したのはレナの気持ちを理解した上でのことだったと思うけど、須藤さんなりに申し訳なく思ってたんじゃないの?」


「須藤さんとの間には何もなかったし、須藤さんにはなんの非もないよ?むしろ謝らないといけないのは私の方なのに…。」


「それでもね…。結婚の話をしたのは、須藤さんにもそれなりの覚悟があってのことだと思う。ユウくんと一緒になるのとは、また訳が違うでしょ。」


「そうだね…。」


「須藤さんはレナのことをほっとけなかったでしょ。一人にさせられないって、レナの心配ばっかりしてたもんね。」


「うん。」


「レナを守るつもりで結婚まで考えて、ニューヨークに連れて行ったのに…その時にはレナはユウくんと再会した後だったんでしょ?」


「うん。須藤さんとの結婚決めて、2週間後くらいに、病気になった須藤さんの代わりに行った撮影でユウと再会したの。その後、須藤さんは先にニューヨークに行ったんだけど、私は仕事の区切りがつくまでは日本にいることになって…。私は須藤さんと結婚するって決めたんだから、ユウのことはもう考えないって…あきらめようって…ずっと待ってたのに今更遅すぎるって、思ってたんだけど…。」


「レナには、ユウくんじゃなきゃ、ダメだったんだよね。」


「うん…。」


「それが須藤さんにもわかったから、レナを日本に帰してくれたんでしょ。本当に人がいいって言うか、不器用って言うか。」


「えっ?!」


「レナが子供の頃からずっと、父親とか兄みたいに見守ってくれたから、レナは須藤さんを保護者みたいに思ってると思うけど…。」


リサは写真集に写る、泣きながら微笑むレナを見つめて静かに微笑んだ。


「須藤さんは…レナのことを、すごく愛してたと思う。」


「え…。」


「父親のようでも兄のようでもあったけど…カメラマンとモデルとか、仕事の上での先輩と後輩とか…そういう関係でもあったと思うけど、だんだん大人になっていくレナをずっと、そばで見ていてくれたのは須藤さんだものね。レナが結婚を考えたり、一緒に生きていこうって思える人が見つからなかった時に、将来一人になることを心配してくれたんだと思うのね。もしそうなったら、自分が一生レナを守ろうって思ってくれたんだと思う。」


「うん…。」


「本当は、保護者じゃなくて、結婚してちゃんと夫婦になりたかったんだと思うわ…。」


「須藤さんは、私にはそんなこと…好きとか…一言も言わなかったよ…。ただ、結婚するからって、無理に自分を好きにならなくてもいいって…。一緒に暮らしているうちに、お互いが自然とそんな気持ちになれば、それはそれでいいって…。」


「それが、須藤さんの優しさでしょ。レナの気持ちが自然と自分に向くまで待とうって…気が長い話ね。」


レナは何も言えず黙り込んだ。


今まで、そんなふうに考えたことはなかった。


「まあ、これはあくまで私の憶測よ。須藤さんには深い意味はなかったのかも知れないし。」


「うん…。」


「須藤さんにも見てもらわないとね。」


「えっ?!」


「レナの花嫁姿よ。レナが大切な人と誰よりも幸せに笑ってる姿を見せて、そろそろ須藤さんを安心させて…解放してあげなくちゃね。」


「そうだね…。」




「ただいま。」


「おかえり。どうしたの、これ?」


段ボール箱をかかえたレナを見たユウは、驚いて立ち上がると、レナの手から段ボール箱を受け取る。


「うん。リサに預かってもらってた荷物。アルバムとか…いろいろ入ってるの。まだもうひとつ車にあるから、取ってくるね。」


「重いだろ。オレ行くよ。車のキー貸して。」


「いいの?じゃあお願い。」


ユウは駐車場に行くと、自分の車のトランクを開けて段ボール箱を持ち上げかけて、ふたが少し開いて見えていた写真集に目を留めた。


「これ…。」


表紙に須藤透と言う名前を見つけて、ユウは少し複雑な気分になる。


(特に深い意味はないんだと思うけど…なんか複雑…。でもこんなことで嫉妬すんのもどうかと思うし…。)


ユウは段ボール箱を手に部屋へ帰ると、なに食わぬ顔でリビングのソファーの横へそれを置いた。


「ありがと、ユウ。ハイ、これ。」


レナが差し出したアルバムを受け取ると、ユウはその表紙を開いて嬉しそうに笑った。


「高校の卒業アルバムかぁ…。懐かしいな。」


進級時のクラス写真や学校行事の時の写真には、懐かしい顔が並んでいる。


「あっ、レナ見っけ。」


まだあどけなさの残るレナの、懐かしい制服姿を目にしたユウの胸に、甘酸っぱい切なかった日々の記憶が蘇る。


(この頃のレナもかわいい…。)


高校2年の文化祭でシンヤと一緒にライブをした時の写真を見つけると、ユウは少し気恥ずかしくなり、頬をかいた。



(若いな…。あの時、初めてレナを想って作った曲を演奏して…サトシが歌ったけど、なんか代理公開告白みたいで恥ずかしかったな…。)


“祭りの後”とタイトルをつけられた後夜祭の写真の中に、長く伸びる2つの影の写真を見つけると、これはあの日レナが撮っていた写真だとユウは気付いた。


(レナと一緒に、踊ったな…。あの時、レナの手を握って、体を寄せ合って…すごくドキドキした…。)


日々起こるなんでもないことも、レナと一緒にいると楽しくてドキドキして、ちょっとした事件だった。


修学旅行の写真には、沖縄でレナ、マユ、シンヤと一緒に笑っている自分の写真を見つけた。


(楽しかったな、修学旅行。レナと一緒にビーチでふざけて写真を撮ったり…4人で国際通りに行った時、シンちゃんが佐伯を…。あれにはビックリしたけど、その後、レナと手を繋いで歩いて…。お土産に琉球ガラスのグラスをおそろいで買ったな…。ロンドン行く前に処分しちゃったけど…。あの時はレナのこと、全部忘れるつもりだったからな…。)


そう言えば、レナはあの琉球ガラスのグラスをどうしたのだろう?


(今、ここで見掛けないってことは、割れちゃったのか…それか、レナもニューヨークに行く前に、捨てたのかな…。)


キッチンで夕食の準備をしているレナの後ろ姿を、ユウはなにげなく見つめる。


(またひとつ、聞きにくいけど聞いてみたいことが増えちゃったよ…。)


3年の写真には、進級時のクラス写真にしかユウは写っていない。


(そっか…。高校中退したんだった…。)


学校行事や日常の風景など、そこに写っているレナは、どれも昔の幼い頃のような、寂しげな表情をしていた。


(レナ…2年の時と全然違う…。)


部活動のページには、軽音部の写真に楽しげにギターを弾くユウの姿があった。


(これ…なんとなくだけど、文化祭と軽音部のオレが写ってる写真って、なんか他のと違う気がするんだよな…。)


ユウはアルバムの最後に掲載された、3年のクラスの寄せ書きの中に、懐かしい友人の名前とそこに綴られた言葉を見て笑う。


(シンちゃん…“絶対マユと結婚する!!誰にも渡さん!!”って書いてるよ…有言実行だな。)


それに対しマユは完全スルーかと思ったのだが“初志貫徹、有言実行”と書いているあたり、もしかするとマユはマユで、この頃からシンヤを好きだったのかも…とユウは思う。


(佐伯も素直じゃないからな…。シンちゃんは佐伯のこと、鈍感だって言ってたし。)


ユウは、寄せ書きの端の方にレナの文字を見つけた。


小さな文字で一言“いつかまた笑って会えますように。”と書いてある。


(これ…友達に?それとも、オレのこと…?)




夕食と入浴を済ませた後、次の日が二人とも休みと言うこともあり、ゆっくりお酒を飲みながらアルバムを見ることにした。


こたつに入って、二人はウイスキーを水割りで飲む。


「レナ、ウイスキー飲めるんだ。」


「だって私、成人だよ?お酒は二十歳になったら、何を飲んでもいいんだよ。」


(そういう問題?もしかしてレナ、天然…?)


確か、リサのベンツを運転するのも、免許は持ってるからと当たり前のように言っていた。


「小さい頃のアルバムも持ってきたよ。」


アルバムの中では、幼い頃の二人が手を繋いで歩いたり、一緒に遊んだり、おやつを食べたり、仲良く昼寝をしたりしている。


「ちびレナ、かーわいーい…。」


小さなレナを見て、ユウは思わず目を細めた。


いつか二人の間に女の子が生まれたら、こんな感じなんだろうな…と、まだ見ぬ未来の娘を想像したりもする。


「ちびユウもか-わい-い。」


レナもまた、ユウと同じように、いつか二人の間に男の子が生まれたら、こんな感じなんだろうな…と、まだ見ぬ未来の息子を想像した。


「レナ、何考えてんの?」


「ん?ユウと同じこと。」


「えっ?!」


思わずユウは焦って声を上げる。


(レナ…読心術でも体得してる…?)


幼い頃の二人はどこに行くのも、何をするのも一緒だった。


「ずっと、一緒にいたね。」


「うん。」


ユウと二人で写る写真のレナは、どれも穏やかに笑っている。


(レナは小さい時から、オレと一緒の時は笑ってたんだ。なんか嬉しいな…。)


レナが感情をあまり表に出さなくなったのは、父親が亡くなってからだったと思う。


一緒にいても、いつも悲しそうで、寂しそうで…。


幼心にユウは、レナにいつもみたいに笑って欲しくて必死だった。


(笑わなかった代わりに、泣きも怒りもしなかったけどな。あれって今思えば、自己防衛本能だったのかな…。これ以上、悲しいこととか寂しいことに傷付かないように、って…。)


レナは、隣で水割りを飲みながら、分厚いカタログのような物をめくっている。


「それ、何?」


「ん、これ?`アナスタシア´がね、25周年だから、メモリアルブックみたいなもの作ったんだって。完成品、お客さんより一足先にもらったの。非売品で、申し込んだ人にだけ無料でプレゼントするんだって。」


「太っ腹…。オレも見たいな。見せて。」


「`アナスタシア´のカタログ総集編みたいなものだよ?見てもつまんないと思うけど…。」


「レナがモデルやってる写真、載ってるんだよね?それが見たいんだよ。」


「うん…。載ってるけど…。」


レナはユウにその本を手渡すと、落ち着かない様子でソワソワしている。


「目の前で自分がモデルやってる写真を見られるのって…なんか恥ずかしい…。」


「そう?かわいいよ?レナがこの服着てたの、すごい覚えてる。」


「うん。お気に入りだったんだよね。」


少しずつ成長していくレナの姿を見ていると、ユウにはこの本がまるで、レナの成長記録のようにも思えた。


「あ…。」


そのページから先の写真は、ユウがロンドンに行った後の物だった。


カメラからそらしたその瞳が、どこか寂しげで物憂げに見えるのは気のせいだろうか?


あどけない少女だったレナが、少しずつだが確実に大人になっていく。


それはユウの見たことのないレナだった。


(オレの知らないレナを、あの人は…須藤さんは…ずっとそばで見守って、撮り続けたんだな…。オレがレナを忘れようとしている間もずっと…。)


ユウの胸に、なんとも言えない複雑な気持ちが湧き起こる。


(こんなレナの表情を撮る人が…本当に、レナに恋愛感情を持っていなかったのか…?)


ユウは水割りを飲みながら、考える。


(こんな顔を見せられるってことは…レナも、須藤さんに対して特別な感情があったのかも…。なんか信頼関係はすごい強そうだし…。)


アルバムを見ているレナの横顔を見つめて、ユウは不安を打ち消そうと、その体を少し強引に抱き寄せてキスをした。


(ユウ…?)


強引な突然のキスに、ユウは明らかに何かをごまかそうとしている、とレナは気付く。


ユウの腕と唇は、レナを捕らえてなかなか離そうとはしない。


(ユウ…一体、何が不安なの…?)


ユウの腕の中で、ユウの不安が少しでも和らげばと、レナはその背中に腕を回して抱きしめ、激しいキスに応えた。


(レナ…。)


自分のことを抱きしめてくれるレナを、ユウは

キスをしたままその場に押し倒す。


(レナがオレだけのレナだってことを…もっと…もっと感じたい…。)


ユウはそっと唇を離すと、レナの耳元で切なげに呟いた。


「レナは…オレだけの、レナだよな?」


「そうだよ…。どうしたの?」


「レナが、オレだけのレナだって…もっと、感じさせて。」


レナの頭を両手で引き寄せるようにしながら、ユウはもう一度レナの唇を自分の唇で塞いだ。


「んっ…。」


いつもより強引で激しいキスに、レナが小さな声を上げると、ユウはキスをしながら、レナのパジャマのボタンを外す。


ユウは、レナの唇から首筋へと唇を這わせながら、吐息混じりに囁いた。


「レナ…愛してる…。」


「ユウ…、待って…。」


「いやだ…。今じゃなきゃ、いやだ…。」


「ユウ…何がそんなに不安なの…?」


「え…。」


ユウが驚いてレナの肩口から、うずめていた顔を上げると、レナは少し体を起こし、優しくユウの頬を両手で包んで、唇にキスをした。


「そんな不安そうな顔しないでよ…。私は、ユウのこと愛してるから、ユウと結婚するんだよ?そんなに私のこと…信じられない?」


「…そうじゃないよ…。レナを信じられない訳じゃないんだ…。ただ…。」


「何?ちゃんと話して。」


ユウはレナを強く抱きしめる。


「ユウ…。」


レナがユウの背中に腕を回して優しく抱きしめると、ユウは静かに口を開いた。


「レナ…オレのこと愛してるから結婚するって言ったよな…。」


「…うん、言ったよ。」


「じゃあ……前にあの人と結婚しようって決めたのも、愛してたから?」


「えっ…?!」


ユウからの思いがけない言葉にレナは驚いてユウの顔を見上げた。


「あの人も…須藤さんも、レナを愛してたから?」


「……。」


ユウの言葉に、レナはそっと目をそらす。


「レナ…。何か、言って…。」


レナはうつむいたまま、静かに口を開いた。


「私が須藤さんと結婚しようと思ったのは…ユウを、忘れようと思ったから…。」


「えっ…。」


レナはそらしていた目を、まっすぐユウに向ける。


「何も言わずにいなくなって…10年もそのまま帰って来なくて…もうこれ以上待っても、2度と会えないんじゃないかと思ったの…。」


レナは起き上がってパジャマのボタンを留めると、少し乱れた髪を手櫛で整えた。


「ずっと、またユウに会えるの信じて待ってたけど…もう、待ちくたびれたから、待つのはやめようって…。須藤さんに結婚しようって言われてずっと悩んでたけど…、私を一人にしないって言われてね。もうこれ以上一人でいるのは寂しくて嫌だったから、だったらもう、ユウのことは忘れちゃおうって。」


レナはグラスに氷を入れ、ウイスキーとミネラルウォーターを注ぎ足して、マドラーでくるくると混ぜた。


「ユウのことが好きだったけど…それがどういう“好き”なのかもわかんなくて…。ユウとまた会おうとか、将来を約束していたとか、そんな訳でもないし、ユウがいなくなっちゃう前も、私を避けたり他の子と付き合ったり噂になったりしていたし…もしまた会えたとしても、私のことなんかどうでもいいのかも知れないなって思ったり…これ以上待っても、もうどうにもならないって。だから、ズルイかも知れないけど…あの時私、須藤さんに、甘えようとしてたの…。」


レナは苦しげに言葉を絞り出すと、水割りをぐいっと飲み込む。


「須藤さんは、結婚するからって無理に好きにならなくていいって言ってくれたけど…私は、結婚する以上は、時間をかけてもちゃんと須藤さんを好きになろうって思ってた…。」


ユウは黙ってレナの話を聞きながら、グラスに残っていた水割りを飲み干した。


「婚姻届を書くのも何日も先延ばしにして、須藤さんが私より先にニューヨークに行く前日ギリギリまで書けなくて…。でも、私は須藤さんと結婚するって決めたんだからって覚悟を決めて、なんとか書いて…。」


レナはユウのグラスにも新しい水割りを作って差し出した。


「須藤さんと結婚するって決めて2週間後くらいに、ユウと再会して…。ユウは知らない女の子とキスしてたり、迫られたりしてたし…。私のことなんか、なんとも思ってないんだろうなって…。だから、ユウが誰と何をしてても私には関係ないって何度も言い聞かせて…なのにユウは急に昔みたいに優しくなったり、突然私と会いたいって言ったかと思えば、また他の子とベタベタしてたり…。そのくせ、自分の気持ちも何も言わずに、私の気持ちも聞かないで無理やりキスしたりするから…どうしていいのかわからなくなって…。もう、取材が終わればユウには会わないでニューヨークに行くつもりだったのに…打ち上げに行ったら、ユウはまた自分の気持ちもちゃんと言わずに、オレが行くなって言ったらどうする?って…ユウはズルイって思った。」


「…うん…。」


ユウは水割りを一口飲んで、レナを見つめた。


「あの時、オレがちゃんと、好きだから行くなって言ったら、レナはどうしてた?」


レナは静かに首を横に振る。


「わからないよ…。でも、多分…やっぱり私は、ニューヨークに行ったと思う。」


「どうして?」


「ユウを好きだって…信じたいって思ったけど…やっぱりまたどこかに…私の知らない他の誰かのところに行っちゃうんじゃないかと思うと怖かった…。」


「そっか…。」


「もうユウには会わないって…全部忘れようって思ってニューヨークに行ったのに、ユウのことが全然頭から離れなくて…。こんなにつらい思いするなら、会わなければ良かったのかもって思ってたけど…。」


レナは段ボール箱の中から須藤の写真集を取り出すと、あるページを開いてユウに手渡した。


「これ…。」


そこには、泣きながら微笑むレナの姿が写っていた。


「撮影中に、日本人スタッフの男の子がかけた音楽が`ALISON´の曲だったのね。もう聴くこともないと思ってたのに…ユウのギターの音を聴いたら…ユウのこといろいろ思い出しちゃって…気付いたら涙が流れて…もう一緒にはいられないけど、ユウに会えて本当に幸せだったと思って、笑ってた…。」


ユウはレナの写真を静かに見つめる。


(あんなに傷付けたのに、レナはそんなふうに思ってくれてたんだ…。)


「須藤さんがね、私の写真を使うために画像のデータを見てる時に、私とユウが海辺で二人でふざけて撮った写真を見たんだって…。写真に写ってる私の顔が、すごく幸せそうに笑ってたって…。こんなに幸せそうに笑ったレナを見たことがないって、驚いたって。ユウの写真もあったから、“レナはずっと想って待ち続けた人に会えたんだなって思ったんだ”って言ってた…。だから、ユウのところに…自分のいるべき場所に帰れって、婚約の話もなかったことにして、私を送り出してくれたの…。」


「そうか…。」


ユウは不安でいっぱいだった胸の中が、温かくなるのを感じた。


「あの時、須藤さんが背中を押してくれなかったら、私は一生ユウを想いながら、自分にも須藤さんにも、ユウにも…嘘をついて生きてたと思う…。」


「うん…。」


「日本へ帰って空港でタクミくんに会って…強引にここに…ユウのところに連れて来られて、正直言うと、ホントはすごく怖かった…。」


「どうして?」


「ユウの気持ちもわからないのに…もう2度と来るなって言われてたのに、また来ちゃったし…私もユウに、大嫌いなんて言っちゃったし…だから、ユウに…もう嫌われたんじゃないかと思うと怖かった…。でも…これ以上嘘はつけないと思って…一緒にいたいって言ったら、ユウが好きだって…レナと一緒にいたいって言ってくれて、本当に嬉しかった…。」


ユウはレナの手をそっと握りしめた。


「オレもレナにはもう2度と会えないって思ってたけど、オレのところに戻って来てくれて、本当に嬉しかったよ。」


二人は指を絡めて手を握り合うと、少し照れ臭そうに顔を見合わた。


手を握り合ったまま、静かに水割りを飲む。


「ユウの不安…少しは消えた?」


「うん…。」


ユウはレナをギュッと抱きしめた。


「オレ、バカだな…。レナのこととなると、ちょっとしたことが不安でどうしようもなくなる…。あの人はオレの知らないレナをずっと見てきたんだなって思うと、オレにはわからない絆みたいなものがあるのかなって…複雑な気持ちになったりして…。」


「私は…須藤さんを恋愛感情で好きだと思ったことは、1度もない。本当に好きになったのは…ユウだけだよ。前に話したでしょ?」


「うん…お風呂の中で聞いた。」


レナはユウの言葉に、顔を真っ赤にする。


「すごく、恥ずかしかったんだよ…。一緒にお風呂に入ったのも、あんな話するのも…。」


「うん。かわいかった。それに、好きになったのも、付き合うのも…キスしたのも、全部オレが初めてだって言ってくれて…めちゃくちゃ嬉しかった。」


「もう…!」


レナはまた恥ずかしそうに頬を染める。


「ユウは、私が知らないうちにどんどん大人になってたんだもんね。」


少し膨れっ面で、レナはユウを見る。


「私も聞いていい?」


「えっ…何?」


(何聞くつもりだ?言えることかな…?)


「ユウ…すごく慣れてたよね…。私は何もかもユウが初めてだったから、年齢的にもそれが当たり前なのかなとも思いながら…他の子といろいろしてきたんだろうなって、少し複雑な気持ちだったんだけど…。」


ユウはギクッとして、顔が強ばるのを感じた。


「ユウ…初めては、いつだったの?」


「え-っと…それは、黙秘権ありますか?」


「ありません。」


「…キスは、あの時…レナが、初めてです。」


「そうなの?」


「うん…。」


想いを伝えることもできないまま、無理やり自分のものにしてしまおうとレナにキスした苦い思い出が、ユウの心に蘇る。


「あの時…なんで急にキスしたの?ユウ、急にキスなんかしたと思ったら、冷たくなるし…次の週に学校行ったら、サエと付き合ってるし…ユウ、ずっと私のこと避けてたでしょ?ずっとユウのことがわからなくて、私、すごく悩んでたのに…。」


「ごめん…。ずっと謝らなきゃと思ってたけどタイミングがわからなくて…。」


ユウはバツの悪そうな顔で頭をかく。


「黙秘権は…。」


「ありません。」


ユウは観念して、ずっと謝らなきゃと思いながら謝れなかった、高3の春の苦い思い出を話し始めた。


「あの日の部活終わったら一緒に帰ろうって、レナと約束してただろ?」


「うん。待ってたのに、ユウ、来なかった。」


「うん…実は…レナと村井が話してるの、聞いちゃったんだよね…。」


「えっ?」


「レナが、オレのことをただの…普通の幼なじみだって言ったじゃん…。村井がオレのことを好きだから協力しろとか言って…レナは、誰がオレを好きでも、オレが誰を好きでも、何も言えないって、言っただろ。」


「そうだったね…。」


「村井からオレへの手紙まで預かるし…。それで、オレってレナにとって、ただの幼なじみでしかないんだってめちゃくちゃ落ち込んで…すごく腹が立ってさ…。悔しくて、レナのこと、置いて帰っちゃった。」


「そうなの?」


「それなのにレナはわざわざ家まで手紙なんか渡しに来るし…。腹が立って、もうこんな関係壊しちまえって思って…レナを、無理やりにでもオレのものにしようって…。気が付いたら、レナを押し倒して無理やりキスしてた…。でも…レナに、泣きながら“こんなの私の知ってるユウじゃない”って言われたのがショックだった…。オレ、レナに男としても見られてないんだって…。レナは、ただの優しい幼なじみのオレだから、一緒にいたんだなって…。」


「うん…。」


「次の日、レナは学校に来なくて、オレのせいだとか、もう嫌われたかなとか、もうレナのことあきらめた方がらくになれるのかなとか、一人で考えてたら、村井が来て、レナより自分の方がオレのこと好きだって…ちゃんと男として見てるって言われて、キスされて…オレになら何されてもいいとか言われてさ…。もうわけがわからなくなって…。ちゃんとオレを好きだって言ってくれるなら…レナがそれを望んでるなら、もう誰でもいいやって…。」


「いいやって…?」


「…そのまま…成り行きで…。」


「……学校で?!」


「うん…。それがオレの、最低な初体験の記憶…。」


まさかレナにこんな話をすることになるとは、思ってもみなかった。


レナは呆然としている。


「信じられない…。」


「最低って思った?」


「ちょっと…。」


「まだこの話、続けなきゃダメ?」


「その後…サエと付き合ってるのに、他の子とたちとも噂になってたでしょ?」


「…ハイ…。」


(レナ、厳しい…。)


「オレの隣にレナがいなくなって…村井と付き合ってるって知ったら、他の子から…。」


「お誘い?」


「うん…。どうせレナには嫌われたんだし、もうどうにでもなれと思って…何人かと…。」


「…したんだ…。」


「うん…。相手が誰とか何人とか、全然覚えてないけど…。でも、レナと一緒にいたり手を繋いだりした時みたいにドキドキも全然しなかったし、何も感じなかった…。心が、そこにはなかったから…。」


「ふうん…。」


レナは膨れっ面で勢いよく水割りを飲む。


「なんで、何も言わずにいなくなったの?」


「耐えられなくなって…。」


「何に?」


「全部だよ。レナを傷付けたことも、謝れなかったことも…そんなめちゃくちゃなことしてる自分をレナに見られることも…すぐ近くにいるのに、レナのそばにいられないことも…つらくて、苦しくて、息をするのもしんどくなって…それならもう2度とレナに会えないくらいに遠くへ行ってしまおうって…。ちょうど、ヒロさんから、ロンドンへ行かないかって誘われてたから…ついて行こうと思って…。」


「全部処分したのに、なんであの指輪だけは、私の元に残したの…?」


ユウは、タバコに火をつけて、苦い思い出をかみしめるように、ゆっくりと煙を吐き出した。


「好きだとも、ごめんとも、サヨナラも…何も言えなかった代わりにと思って…。レナにもらった大事なものだったけど、持ってたら忘れられないから捨てようかと思ったのに…やっぱり、レナが好きだったから捨てられなくて…。本当はオレのこと、レナに忘れて欲しくなかったのかも…。」


「ユウのこと、私が忘れるわけないのに…。」


「うん…。」


しばらく、二人で黙って水割りを飲んだ。


レナはユウの目をじっと覗き込む。


「まだ何か…?」


次は何を聞かれるのかと、ユウは内心ビクビクしながらレナを見る。


「10年ぶりに再会した時…ユウ、女の子とキスしてた。」


「うん…。」


(レナ…もう勘弁して…。)


「あの時…ショックだった。誰とでもするんだって…。私があんなに悩んだのはなんだったんだろうって…。」


「ごめん…。」


「本当にユウなのか信じられなくて…。その後ユウ、私のこと、避けてたでしょ?」


「10年ぶりに会ったのに、よりによってあんなところ見られたって思ったら…つい…。」


「だよね…。私もまともにユウの顔、見られなかったもん。まさかあんなところに居合わせちゃうなんてって…。」


レナはグラスの水割りを飲み干すと、少し赤い顔でユウを睨みつける。


「もう、あんなユウは…見たくないよ…。」


「うん…もう絶対しない。」


「ホントに?」


「うん、ホントに、絶対しない。」


レナはユウにもたれかかりながら、静かに笑みを浮かべた。


「これからは…私だけの、ユウでいてね…。」


「うん…。」


ユウはレナの肩を抱いて、優しく髪を撫でる。


「今のオレがどれくらいレナを好きか、知りたい?」


「うん…。」


「オレも、レナが好きなのはオレだけだって、もっと知りたいな…。」


ユウはレナの頬を両手で包むと、親指でレナの唇を優しくなぞる。


「うん…。いいよ…。」


ユウはレナの唇に、優しく唇を重ねた。


「ユウ…もっと…して…。」


ほろ酔い加減のレナが、ユウにキスをねだる。


「レナ…かわいい…。」


ユウの唇がレナを求めると、レナはそれに応えるように腕をユウの首に回した。


「ユウ…大好き…。」


「オレも、レナが大好きだよ…。」


そして二人は夜が更けるまで、何度も互いを求め合った。


それは、胸に秘めていた不安や、聞きたくても聞けなかった過去のことも忘れるくらい、甘くて幸せなひとときだった。

















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