心の扉を開くとき

家電売場でどのこたつにしようかと二人で選びながら、さっきのレナの反応が気になったユウは、レナの横顔をじっと見つめていた。


(この間まで結婚なんて考えたこともなかったのに、もしレナにそう言われたらヘコむと思うとか…。オレ、一体どうしたんだろう?!)


レナはユウの不安も知らず、こたつ布団の柄を選んでいる。


(レナがどう思ってるのか、気になる…。)


じっと見ているユウの視線に気付いたレナは、少し照れ臭そうに笑う。


「そんなにじっと見ないで…。」


「あ…。ごめん…。」


ほんの少しぎこちない空気が流れる。


(レナにヘンだと思われるな。気を付けないと…。あまり気にしないようにしよう。)


「レナはどれがいい?」


「これかな。」


「うん。部屋の雰囲気にも合いそう。」


「じゃあこれでいい?」


「うん。これにしよう。」


商品カードを取り、レジに向かおうとした時。


「あれっ?ユウと高梨じゃん!」


名前を呼ばれて振り返ると、高校時代にユウと一緒にバンドをやっていた岡田聡がいた。


「おおっ、サトシじゃん!久し振りだな!!」


「ホントにな!!オマエなんにも言わずに消えたから心配したんだぞ!!」


二人は久し振りの再会を喜び合う。


「高梨も、高校卒業以来だな。元気だった?」


「うん。」


レナとユウは、サトシの後ろにいる女性と子供に気付いて、会釈をする。


「うちの嫁さんと子供。」


「初めまして…。」


小さな赤ちゃんを乗せたベビーカーを押す女性はペコリと頭を下げた。


「ほら、オマエも挨拶しな。」


サトシが促すと、小さな女の子が頭を下げた。


「岡田結衣です。6才です。」


「ユイちゃんって言うんだ。こんにちは。ちゃんとご挨拶できてえらいね。」


レナは優しくその子の頭を撫でた。


ユイは、レナの顔をじーっと見つめる。


「お姉ちゃん、あのドレス着てたアリシアちゃん?」


こんな小さな子まで自分を知っていることにレナは驚いて目を丸くした。


「うん。そうだよ。」


「じゃあ、アリシアちゃんはこのお兄ちゃんのお嫁さんなの?」


「えっ…。」


思いがけない言葉にレナは絶句した。


「こら、ユイ。スミマセン、この子ったら…。」


奥さんが慌ててユイを止める。


「あ、いえ…。」


レナがしどろもどろになるのを見て、ユウはまた少し不安になる。


「あの…私、ちょっとレジ済ませて来るね。」


「あ、うん。」


ユウは慌ててその場を離れるレナの後ろ姿を見送りながら、小さくため息をついた。


「オマエら、やっとくっついたんだな。」


「えっ?!」


「オマエら、高校の時すげー仲良しだったじゃん?付き合ってないのが不思議だったんだよな。」


「そうかな…。」


「ユウは高梨のことめちゃくちゃ好きだったじゃん。言わなくても見てたらわかったし。」


「まぁ…。」


ユウはサトシの言葉に照れて真っ赤になる。


「この間の熱愛やらの騒動には驚いた。」


「もう、そのことは言わないでくれ…。」


「で、いつ結婚すんだ?」


「ええっ?!」


ユウは頭をかきながら、視線をさまよわせた。


「まだ…そういう話はしてない…。」


「なんで?」


サトシはこともなげにそう言うと、ユウの背中をバシンと叩く。


「結婚なんて、勢いとタイミングが大事だぞ?オレ、大学出てすぐ結婚したんだ。」


「そうなのか?!」


「その時を逃したらもう、次はいつになるかわからないと思ったから。」


「オマエ、すげーな…。」


ユウがサトシと話していると、レナがレジを済ませて戻って来た。


ベビーカーに乗せられていた赤ちゃんがぐずり始め、奥さんが優しく抱き上げる。


「ユイの妹。亜衣ちゃん。かわいいでしょ?」


ユイが自慢げにユウとレナに言う。


「かわいいね。アイちゃんって言うんだ。」


レナは奥さんに抱かれるアイの顔を覗き込む。


「何ヵ月ですか?」


「3ヶ月です。」


レナがそっと頭を撫でると、アイはニッコリと笑う。


「アリシアちゃん、アイちゃんだっこしてあげて。すごく柔らかくてあったかいよ。」


「えっ…。」


レナは窺うように奥さんの方を見る。


「良かったらだっこしてやって下さい。」


「いいんですか?」


「ええ、どうぞ。」


レナは奥さんの手からアイを渡されると、おそるおそるだっこする。


「ホントだね…すごく柔らかくてあったかい。かわいいね。」


小さな赤ちゃんを優しく抱くレナを見て、ユウの胸がキュッと音を立てる。


(なんだ…?!この感じ…。)


「何見とれてんだよ。」


「えっ…。」


サトシに脇腹をつつかれ、ユウは照れて咳払いをした。


「ホントにユウは変わんねぇな。高梨にベタ惚れ。高梨にだけは超甘いし、どんなに遠くにいてもすぐ気付くし。」


「オイ…!!」


ユウは真っ赤になりながらサトシを睨む。


レナもアイを抱きながら、サトシの言葉に真っ赤になった。


「あなたったら…。」


奥さんが優しくサトシをたしなめる。


「お兄ちゃん。」


ユイがユウの服の裾をツンツンと引っ張る。


「ん?何、ユイちゃん。」


ユウが身をかがめると、ユイはユウの耳元で内緒話をするように小さな声で言う。


「お兄ちゃんとアリシアちゃんの結婚式には、ユイもよんでね。ユイ、もう一度真っ白いドレス着たアリシアちゃんが見たいの。」


「あ…うん…。」


ユウが返事をするとユイは満足げに笑った。


「あなた、そろそろ…。」


「あ、そうだな。この後、嫁さんの両親と約束してんだ。またゆっくり会おうぜ。高校の同級生、上京組が何人かいるんだ。みんなで同窓会でもしないか?」


「そうだな。」


ユウとサトシはスマホを出して連絡先を交換し

、レナはアイを奥さんの手にそっと返した。


「ありがとうございました。良かったねぇ、だっこしてもらって。」


奥さんの幸せそうな笑顔を見て、レナも穏やかに微笑んだ。


ユイが嬉しそうに笑ってレナの手を握る。


「アリシアちゃん。ユイ、アリシアちゃん大好きなの。」


「ホント?嬉しいな。」


「今度、うちに遊びに来てね。ユイ、来年1年生になるの。これから、じーじとばーばと一緒に、ランドセル買いに行くんだ。今度、見せてあげるね。」


「ありがとう。それじゃあ、カメラ持って遊びに行くね。お姉ちゃん、カメラマンなの。ユイちゃんの写真、撮ってあげるね。」


「約束だよ!!」


「うん。約束ね。」


ユイが小さな小指を差し出すと、レナはそっと小指を絡め、指切りをした。


「良かったな、ユイ。高梨、ありがとな。ホントに今度、ユウと二人で遊びに来てやって。」


「うん。」


ユウとレナは、サトシたちと手を振って別れると、その姿が見えなくなった途端に顔を見合わせた。


「かわいかったね。」


「そうだな。しかしサトシのヤツ、あんな大きな子がいるとはビックリしたな…。」


小さな子達に優しく微笑むレナは、とてもキレイだった。


(いつかオレたちにも、あんなふうに家族ができるのかな…。)


ユウは不意に自分の考えたことに、また照れて咳払いをした。


「さ、行こうか。次はどこ行く?」


「夕食の材料買って帰ろ。何食べたい?」


「そうだなぁ…。」


二人はまた手を繋ぎ、指を絡めて歩き出した。




買い物を終え帰宅すると、ユウはキッチンに立つレナの後ろ姿を見ながら考える。


(結婚式にはよんでね、かぁ…。サトシ、結婚なんて勢いとタイミングとか言ってたな…。)


自分とレナに、そのタイミングはいつ来るのだろう?


(サトシ、幸せそうだったな…。アイツはあの背中に、奥さんと子供二人の人生を背負って生きてんだな…。)


幸せそうなサトシたちを見て、自分たちにもいつか家族ができるのかな、と思った。


(これって…。)


ユウの胸がまた、キュッと音を立てる。


いつの間にか、今とは違うレナとの未来を想像している自分がいることに、ユウは気付いた。


(オレ…いつの間にか、レナとの結婚考えてる…。でも、レナはなんて言うだろう?)




夕食が終わり入浴を済ませると、ユウはリビングのソファーでビールを飲んでいた。


レナとの結婚に傾きかけた自分の気持ちに戸惑うばかりで、レナの気持ちを聞くのも怖い気がした。


夕食の後片付けを終えたレナが、ビールを持ってユウの隣に座ると、ユウはレナの体を抱き寄せた。


「ユウ?」


不思議そうにユウの顔を覗き込むレナの唇を、少し強引に自分の唇で塞いだ。


ユウは何度も何度も、キスを繰り返す。


いつもより少し強引で長いユウのキスに、レナはユウが何か不安に思っているのかと考える。


長い長いキスが終わると、レナはユウの肩に寄りかかり、静かに呟いた。


「ユウ…何か悩んでる?」


「えっ?」


突然のレナの言葉に、ユウは驚いた。


「何か、不安なことでもあるの?」


(なんでわかるんだろ…。)


驚きを隠せないユウの顔を見て、レナは柔らかく微笑んだ。


「今、なんでわかるんだ、って思ったでしょ?」


「…うん…。」


レナはふふっと小さく笑った。


「わかるよ…。ユウのことなら…。」


「うん…。」


ユウがうなずくと、レナはそっとユウの顔を見上げた。


「一人で悩むくらいなら、ちゃんと私に話してね。」


「うん…。」


ユウはレナの肩をギュッと抱きしめる。


(聞いても、いいのかな…。)


「ん?」


レナは尋ねるような目でユウを見る。


ユウはもう一度レナに軽くキスをすると、静かに呟いた。


「レナは…どう思ってんのかな、って…。」


「何が?」


ユウは思いきって言葉を絞り出す。


「オレとの……結婚……。」


「え……。」


突然のユウの結婚と言う言葉に、レナは驚いて言葉をなくした。


「最近、いろいろ考えてた…。レナと一緒にいられたらいいやって、結婚なんて考えたこともなかったけど…いろんな人に、いつ結婚するんだとか、結婚してレナを早く幸せにしてやれって言われたりして…。結婚の定義ってなんだろうとか…。」


レナはユウの言葉をただ黙って聞いている。


(何も言ってくれないと、余計に不安になるんだけど…。)


ユウがレナの言葉を待っていると、レナはユウの体をギュッと抱きしめた。


「ユウ、無理してない?」


「えっ?!」


思いがけないレナの言葉に、ユウは驚いてレナの目を見る。


「周りの人にどう言われも…答えを出すのは、私たちだよ。焦らなくても大丈夫…。ユウが周りの人たちからいろいろ言われて不安になってるのに…私は何も言えないよ…。」


「でも…オレは、レナとだったらその答えを…結婚ってなんなのかって答えを、一緒に見つけられる気がするんだ…。」


「うん…。」


「オレとじゃ不安?」


「そんなわけないよ…。」


「オレは…この先もずっとレナと一緒に生きて行きたい。レナを一生守って幸せにするのは絶対にオレでありたいし…結婚するなら相手はレナしか考えられない。オレにはレナしかいない。絶対、レナを誰にも渡したくない。だから…。」


ユウはレナの目をじっと見つめた。


頭で考えるより先に、ユウの口から自然とその言葉がこぼれた。


「レナ…オレの、お嫁さんになって下さい。」


思いがけないユウのプロポーズにレナは驚き、やがてポロポロと大粒の涙をこぼした。


「ハイ…。」


ユウは両手でレナの頬をそっと包む。


「そんなに泣くなよ…。」


「だって…嬉しくて…。」


ユウは親指でレナの涙を拭い、涙で濡れた頬に口付けた。


「オレの隣で、ウエディングドレス着て歩いてくれる?」


「うん…。」


「レナ…愛してる…。大切にするから…ずっと一緒に生きて行こう。絶対、レナを幸せにする。」


「うん…。私も、ユウを幸せにする。」


そして二人はそっと唇を重ねた。


(そっか…。言葉にして伝えるって、こんなに簡単なことだったんだ…。オレは一生かけてレナを愛して幸せにする。それが、オレの結婚の定義なんだ…。)


ユウは閉ざしていた心の扉を開いて、新たな一歩を踏み出した気がした。


「オレ、レナとならなんでも乗り越えられそうな気がする。」


「うん。二人一緒なら大丈夫だよ。」


「思いきって踏み出したら、ひとつ答えが見つかった。」


「何?」


「オレの、結婚の定義…。オレの一生かけて、レナを愛して幸せにすること。」


「私も…一生ユウを愛して幸せにする。どんな時も、ずっとそばで、ユウを支えていく。」


「うん…。ずっと一緒にいような。」





数日後、レナはマユの家に遊びに来ていた。


珍しく仕事が早く終わったマユが、会わないかとレナに連絡してきたのだ。


レナもまた、その日の仕事は事務所での簡単な作業だけだったので、早めに事務所を出ることができた。


マユの家に着くと二人は帰り際に買ったケーキと紅茶で、お茶の時間を楽しむ。


「レナと会うの、久し振りだよね。それで、その後どう?」


「うん。お陰さまで。」


「うまくいってるなら良かった。」


レナは紅茶を一口飲むと、マユに尋ねる。


「週刊誌のあの記事…マユだよね?」


「なんのこと?」


「しらばっくれてもダメ。あんな昔の、しかもかなり突っ込んだ内容の話、知ってる人なんてマユしかいないもん。」


「バレた?」


「バレるよ。なんかすごく恥ずかしかった…けど、ありがとね。」


マユはニコリと笑ってケーキを口に運ぶ。


「あのアヤって子の記事もマユが調べたの?」


「いや、私はネタを提供しただけ。同僚があの週刊誌の編集部にいてね。調べあげるのはプロに任せたんだけど…私が思っていた以上の情報が出てきて驚いた。」


「あのアヤって子…ユウのこと、好きだったのかな?」


「そんな純粋な気持ちじゃないって。」


レナは紅茶を一口飲むと少し複雑そうな顔をする。


「どうしたの?」


「うん…。あの子…この先どうなるのかなって。あれだけバッシングされたら、もう表に出てくるのは難しいんじゃないかと思って。」


「アンタどんだけお人好しなの。」


マユはおかしそうに笑う。


「でも、それがレナのいいところね。」


「そんなことないよ。確かにあの子の出した記事のせいで、ユウが苦しんだのは事実だし…私もいろいろ書かれて嫌な思いはしたけど、マスコミの怖さも、マスコミの流した情報で変わる世間の目の怖さも、わかったからね。ちょっと気になったの。」


「そうね。いろいろあったもんね。」


「うん。でも今は、それも無駄なことじゃなかったのかなって思ってるよ。つらかったけど、私もユウも、今までは勝ち目がないからって思い込んで、見て見ぬフリして立ち向かわないようにしてきた大きな壁を、乗り越えることができた気がする。」


マユはカップの紅茶を飲みながら、レナに視線を向ける。


「ん?」


「なんかあった?」


「えっ?!」


鋭いマユの指摘に、レナは慌てふためいた。


「私は幸せですって、顔に書いてある。」


レナは真っ赤になって、思わず両手で頬を押さえた。


「うん…。ユウがね…だんだん、自分の気持ちを私に話してくれるようになったし、私もユウが何か悩んでる時、少しわかるようになってきた…。それに…。」


「それに?」


マユに促され、レナは恥ずかしそうに、ゆっくりと口を開く。


「ユウに…プロポーズされた…。」


「ホント?!」


「うん…。」


「良かったじゃない!!」


「うん…。嬉しかったよ…。」


マユは自分のことのように喜んでいる。


「プロポーズの言葉とか教えてよー。」


「普通だと思うけど…内緒。」


「えーっ、なんでー?!」


「人に教えるのもったいないから。誰にも内緒。私とユウだけの大事な思い出にするの。」


幸せそうに笑うレナを見て、マユはため息をついた。


「幸せそうな顔しちゃって…。レナも片桐にだけは超甘いもんね。」


「そうかな?」


「二人とも無自覚だもんねぇ…。」


マユがやれやれと言うように肩をすくめた。


「で、いつなの?挙式とか入籍とか。」


「それはまだ、何も決まってない。」


「なーんだ。決まったら早めに教えてよ。」


「うん。」


マユは残りの紅茶を飲み干すと、ポットからカップに紅茶のおかわりを注ぐ。


「ねぇマユ、せっかく仕事が早く終わったのに三浦くんと一緒にいなくていいの?」


レナがなにげなく尋ねるとマユは少し複雑そうな表情で小さくため息をつく。


「うん…。いいの。」


「どうかした?」


「うん…私ね、シンヤと…離婚、するんだ。」


「えっ?!どういうこと?何があったの?!」


レナはマユの肩を掴んで揺する。


しかしマユはなかなか話そうとしない。


「ねぇ、マユ。私がつらかった時、マユ、いつも話を聞いてくれたよね。この間だって、泣きたい時は泣いてもいいって言ってくれたよね。

マユが悩んだりつらい思いをしてるときには、私は何もできないの?」


「レナ…。」


「確かに私には話を聞く以外、何もできないかも知れないけど…私はマユのつらさを少しでもわかりたいと思う。」


マユはレナの手を握りうつむいた。


「ありがとう…。私、レナにも、他の誰にもずっと黙ってたことがある…。」


「うん。話して。」


マユは唇をギュッと結ぶと、少しの間、目を閉じた。


そしてゆっくりと目を開けて話し出す。


「私、2年ほど前…結婚して1年半経った頃に…1度、妊娠したの。」


「そうなの?」


「うん…。初めての妊娠だから、何もわからなくてね。つわりもなくて体調が悪いわけじゃないから、職場の人たちにも何も言わずにいつも通りに仕事して…。無理してるつもりなくても、自分だけの体じゃないってこと、わかってなくて…。妊娠がわかってから4週間後、初めての妊婦健診だったんだけど…そのときにはもう……。」


マユは涙声でそう言って小さく肩を震わせた。


「結局…流産して、その2日後に流産の処置手術をして…麻酔が切れた時には、私のお腹にはあの子はもういないんだなって…。全然大事にしてあげなかったのに…涙が止まらなくて…。私がもっと気を付けてればきっと無事に産んであげられたのにって…この手に1度も抱いてあげられなかったこと、ずっと後悔してる…。」


「うん…。」


「私が妊娠したの知った時、シンヤはすごく喜んでた。無理するなよって、いつも心配してくれたのに、平気だからって、私は全然気にもしてなくて…。そんな私の不注意のせいで流産したのに、シンヤは私を責めなかった…。仕方ないよって…マユが無事ならいいって…。あんなに楽しみにしてたのに、一度も…。」


「うん…。」


レナは震えるマユの背中を優しく撫でる。


「それから私、また流産したらとか、もし2度と子供ができなかったらとか、またシンヤを悲しませたりガッカリさせたりするんじゃないかと思うと怖くなって……できないの…。夫婦なのに、あれから一度も…。でもシンヤは何も言わない。シンヤが私に気を遣ってるのがわかって申し訳なくて…一緒にいるのがつらくて、家事もロクにできなくなるほど、それまで以上に仕事に没頭して…。そんな私に気付いたのか、シンヤの方から別々に暮らそうかって…。表向きは、仕事が忙しい私に余計な負担を掛けさせないようにって理由で…。」


「うん…。」


「思えばその時に、シンヤを解放してあげれば良かった…。そうすれば、私に気を遣って不自由な生活する必要もなかったし…別の人を見つけることだってできたはずなのに…。でもね、もうそろそろシンヤの優しさに甘えるのはやめようかなって…。シンヤは何も言わないけど、私といたって…私と別居婚なんかしてたって、シンヤは幸せになれないでしょ…。もっと家庭を大事にしてくれる人と結婚して、その人に子供を産んでもらって、支えてもらって、幸せな家庭を築いた方が、シンヤにとってはきっと幸せだと思うの…。」


それまで黙ってマユの話を聞いていたレナが、マユの目をじっと見つめ、両手をギュッと握りしめた。


「マユ、それは三浦くんがそう言ったの?違うでしょ?」


マユはいつになく強いレナの口調に驚いた後、小さくうなずいた。


「人の幸せを勝手に決めちゃダメ。三浦くんには三浦くんの思う幸せがあるんだよ。マユ、言ったよね?ユウのこと、一人で悩んで自分の中でどうにもならなくなるって。マユも一緒だよ。そんな大事なこと、どうして三浦くんと話さないで一人で決めちゃうの?」


「レナ…。」


「夫婦なんでしょ?ちゃんと向き合ってよ。二人でちゃんと納得いくまで話して、答えを出すのはそれからでしょ?お互い気を遣ってるだけで何も言わないなんて、そんなのおかしい、優しさなんかじゃないよ。ケンカしたってカッコ悪くたっていいから、もうちょっとあがいてみてよ。二人で乗り越えて笑ってる姿を見せてよ。それで私に、結婚っていいなって、夫婦っていいなって思わせてよ。マユと三浦くんがそのまま別れちゃったら、私、不安で、怖くて、結婚なんてできないよ。」


「うん…。」


マユの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。


「ねぇマユ。ちゃんと、三浦くんに話してみよう?三浦くんはちゃんとマユの気持ちをわかってくれると思う。マユが三浦くんのこと、すごく大切に想ってることも、本当はそばにいて三浦くんを支えたいって思ってることも、ちゃんと伝えようよ。」


「えっ…なんでレナ…。」


「わかるよ、それくらい。私、ずっとマユといたんだよ?」


「レナ…なんか、変わったね。高校生の時は、恋の定義がわからないって言ってたのに…。」


マユは涙を指で拭うと小さく笑みを浮かべる。


「そうかな。マユ、人のことはなんでもよく見えてるのに、自分のことになると全然見えないんだね。」


「そうかな?」


「無自覚なんだ。」


レナとマユは顔を見合わせて小さく声をあげて笑った。


「レナにも話せないくらい、ずっと後悔して苦しんできたこと、やっと話せて少しホッとしてる。ありがとね、レナ。」


「うん…。ねえマユ、三浦くんとこ行こう?」


「えっ?!今から?」


「うん、手遅れになる前に。」




その頃、ユウはシンヤの部屋で、無言でコーヒーを飲んでいた。



ユウは午前中に病院へ行き、お昼前にリハビリを終えて病院を出た。


病院を出てすぐにシンヤから電話があり、遊びに来いとよばれて部屋に行った。


ユウがシンヤの部屋に行くと、シンヤは近所のイタリアンレストランでランチのデリバリーを注文してご馳走してくれた。


食事をしながら、先日サトシにあったことや同級生が何人か上京しているから同窓会しようと言われたことなど、他愛のない話をした。


食事を終えてコーヒーを飲みながら二人でタバコに火をつけると、シンヤが煙を吐きながら静かに呟いた。


「オレとマユ、離婚することになった。」


「えっ?!」


唐突なシンヤの言葉に、ユウは驚き、慌てふためいて煙でむせそうになる。


「それ、どういうことだよ?!」


シンヤは苦笑いを浮かべる。


「マユがさ…離婚しようって。別居して随分経つし、無理して夫婦でいなくても、もういいんじゃないかってさ…。」


「えっ…。」


ユウにはシンヤの言葉が信じられなかった。


再会して間もない頃にバーで話した時、マユは愛しげにシンヤの話をしていた。


シンヤのことを必要な人だと言っていた。


でも、別々に暮らしている理由を話した時のマユは、とても寂しげだった。


シンヤは高校生の頃から、誰よりもマユを大事にしていた。


シンヤとマユがお互いを大切に想い合っているのは端から見ていてもわかるのに、なぜ離婚の話になるんだろう?



それからシンヤは静かに話し出した。


「結婚してしばらくは、当たり前のように一緒に暮らしてた。お互いに忙しくても二人の生活は楽しかったよ。結婚して1年半経った頃にマユが妊娠してさ…でも、ダメだったんだ…。それからマユは自分を責めてばかりで、オレといるとつらそうで…。それでもオレはマユを手離したくなくて、少しでもマユのつらさが和らげばと思って、別々に暮らそうかって言った…。たまに会うと夫婦って言うよりは学生の頃の、オレが一方的にマユを想ってた時みたいで…。あれからマユはオレに触られんのも嫌みたいでさ…。今のオレたちは、夫婦って言いながら全然、夫婦じゃないんだよ。オレのマユへの気持ちは変わらないけど、もうこれ以上…オレのわがままで、マユを縛り付けるのは可哀想だからさ…。マユには幸せになって欲しいし、笑っていて欲しい…。たとえそれがオレの隣でなくても…。」


ユウは唇を噛み締めた。


「シンちゃん、このまま別れて本当に後悔しないのか?!この前シンちゃん、オレに言ってくれたじゃん!!伝えたいことはちゃんと言葉にしろって!!シンちゃんは1度でも佐伯に本音を言ったのか?!」


「ユウ…。」


「離したくないって、一緒にいたいって、ちゃんと言えよ!!」


しばらく黙ってうつむいていたシンヤが、ポツリと呟く。


「そうだな…。ユウの言う通り、オレはマユを失うのが怖くて、思ってること何も言えなかった…。本当はマユさえいてくれたら、オレはそれだけでいい…。」


ユウは静かに笑みを浮かべる。


「ちゃんと言えんじゃん。その言葉、ちゃんと佐伯に言ってやってよ。佐伯はシンちゃんのこと、すごく大切に想ってるよ。」


「そうかな…?」


「もう一度、ちゃんと本音で話してさ…どうするかは、それから二人で決めなよ。」


「ああ…。」


シンヤはユウの顔を見て、ふっと笑う。


「なんかオレ、高校生の頃のユウみたいだ。」


「えっ?!」


「あん時、オレはユウを見ててさ、いつも思ってたんだよ。好きなら好きって言えばいいのにって…。」


「そんなこと思ってたのか?!」


「うん。でも、今ならあの頃のユウの気持ち、ちょっとわかるよ。」


「好きすぎて、つらいだろ?」


「かなりな…。」




その時、シンヤの部屋のチャイムが鳴った。


インターホンの画面に映るマユとレナの姿を見て、シンヤは驚いた様子でオートロックを解除した。


「お客さん?」


「マユとレナちゃん…。」


「えっ?!」


程なくして、マユがレナに付き添われるようにして部屋を訪れた。


「ユウ、来てたんだ。」


「うん。」


マユは、落ち着かない様子で視線をさまよわせている。


「三浦くん。マユが、三浦くんに話したいことがあるって。」


「えっ…。」


ユウは立ち上がるとシンヤの肩をポンと叩く。


「ちょうど、シンちゃんも佐伯に言いたいことがあったんだよな。」


「じゃあ、私たちは帰ろうか。」


「そうだな。ちゃんと腹割って話しなよ。シンちゃんも、佐伯も。」




ユウとレナは、マユとシンヤを残し、部屋を後にした。



二人っきりになった部屋で、マユとシンヤの間に沈黙が流れる。


シンヤはマユの手を引いてソファーに座ると、マユの手を握りしめた。


「マユは、オレといるの、もう嫌?」


マユは静かに首を横に振る。


「オレは、マユと一緒にいられたら…それだけでいいんだ。」


「シンヤ…。」


「マユが自分を責めるのを見てるのがつらかった…。どんなにマユが悪いんじゃないって言っても、マユの耳には届かなくて…。オレはなんて無力なんだろうって…。本当は離れたくなんてなかったのに、一緒にいるのにマユに避けられてるのがつらくて、別々に暮らそうなんて言ったけど…。本当は苦しんでるマユをすぐ隣で支えたかったのに…オレにはマユを抱きしめてやることもできなかった…。ごめん…。」


マユはうつむきながら涙を流している。


「私といても、シンヤは幸せになれないでしょ…。もっと家庭を大事にしてくれる人を探して、シンヤの子供を産んでもらって、その人と一緒に温かい家庭を築いた方が、シンヤにとっては幸せでしょ…。」


うつむき涙を流しながら絞り出すように話すマユを、シンヤは強く抱きしめた。


「マユは、いつになったらオレの気持ちに気付くの?」


「えっ?!」


シンヤは愛しげにマユを見つめ、頬に流れる涙を指で拭う。


「オレにとって…マユがそばにいて笑ってくれる以上の幸せなんてないよ…。マユの他に欲しいものなんて、ひとつもないんだ…。」


「シンヤ…。」


マユはシンヤの背中に腕を回し、ギュッと抱きしめた。


「私も、シンヤと一緒にいたい…。」


「じゃあ…もう一度、ちゃんと夫婦になろう。一緒に寝て起きて、なんにもなくていいから、マユと一緒の時間を過ごしたい。」


「うん…。」


「マユがつらい時にはオレがそばにいて支えるから、もっとオレを頼ってよ。忙しくて家事ができない時はオレも一緒にするし、疲れてイライラしてるマユだって、オレは全然嫌じゃないんだ。」


「ホントに…?」


おそるおそるシンヤの顔を見上げるマユを見て、シンヤは優しく微笑んだ。


「だってオレは、マユの夫だから。どんなマユでも、オレにとっては世界一の奥さんだから。」


「シンヤ…。ありがとう…。」


「もう一度、オレの奥さん、やってみる?」


「うん…。」


そうして二人は、互いの温もりを確かめ合うように抱きしめ合った。


「マユ、愛してる。」


「私も…。」


「言ってくれないの?」


マユは顔を真っ赤にしながら、いたずらっぽく笑うシンヤの耳元で囁いた。


「シンヤ、愛してる…。」





レナはユウの運転する車の助手席に座り、静かに窓の外を流れる景色を眺めていた。


「あの二人、ちゃんとお互いの気持ち、伝えられたかな…。」


「大丈夫だよ。二人とも、お互いすっごく好きなんだから。好きすぎて、相手の気持ちを聞くのも、自分の気持ちを伝えるのも、怖かっただけなんだよ。」


ユウの言葉に、レナはふふっと笑う。


「ユウ、自分のことみたいに言うんだね。」


「ん?」


ユウは、レナを想うあまりに失うことをおそれ、レナに想いを伝えることも、レナの気持ちを聞くこともできなかった、遠い日の自分に思いを馳せる。


「好きすぎてつらいことって、あるんだ。昔のオレがそうだったから、わかるよ。」


「そうなの…?」


レナは柔らかく微笑む。


「ねぇ、ユウ。」


「ん?」


「呼べば返事のある場所に大切な人がいてくれるって、幸せだね…。」


「うん…。好きな人に好きだって言えるのと同じくらい幸せかも。」


「じゃあ、好きな人に好きだよって言ってもらえることって…すごく幸せだね。」


「うん。レナ、好きだよ。」


「私も、ユウが好きだよ。」


「幸せだな…。」


「うん、幸せだね…。





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