(6)「フザけてないじゃん」

 

 『純愛ファイターみつるのテーマ』

 

  チビだからって バカにするな

  女みたいって 笑うんじゃない

  胸に秘めてる情熱は

  どこの誰より おっきいんだ

 

  純愛! 純愛! 純愛だー!

 

  正義のために 平和のために

  戦う僕を 見守ってTさん

 

  そうさ 僕は 純愛ファイターみつる!

 

     ◇

 

「どうだ、これ?」

「どうっていわれても……」

 うれしそうにハルヒコが見せてきたノートには、ロクでもない歌詞が書かれてあった。

「いうまでもなく、これ、映画の主題歌だよね?」

「ああ、もちろん、歌うのはみつるだぞ」

「……でも、こんな歌詞に曲をつける人っているの?」

「だいじょうぶだ、曲も一緒につけた」

「マジで?」

 このセンスは、私が中学二年のときに作詞作曲した「連れションのテーマ」に似ている。当時、親友と信じていたクラスメイトと、よく一緒にトイレに行ったものだが、その廊下で作った曲だ。

 そんな友情あふれる歌を、私は彼女に誇らしげに唄ったものだが、何の感想も言ってくれなかった。

 中三になり、クラスが別れると、とたんに彼女とは疎遠になった。それどころか、人づてに、彼女が私のことを「変わった子」だと宣伝していることを知り、私は枕を涙でぬらしたものである。

 私にだって、このような辛い過去があるのだ。

「あんた、楽器とか弾けるの?」

「そう見えるか?」

「じつは、ピアノ習ってたりとか」

「なんで知ってるんだよ」

「へ? ホントなの?」

「ああ、女子ばっかりでつまんなかったから、長続きしなかったけどな」

 知られざるハルヒコの過去に驚きながらも、ピアノが弾けたところで解決できる問題ではないと思った。なにしろ「純愛! 純愛! 純愛だー!」という歌詞である。ピアノ伴奏だけだと、より悲惨さがきわだつだけだ。

 と、私とハルヒコがムダ話をしているのには理由がある。なんと、映画撮影が、ラストシーンを残すのみになったからだ。

 打ち合わせをロクに聞いていない私からすれば、まだまだ撮っていない場面があると思う。例えば、初期の脚本にあった、みつる先輩がイツキに魅了されたところを、つるやさんが助けるシーン。これを撮らないかぎり、話が始まらないはずだが、武道場ロケ以降、つるやさんが撮影に来ることはなかった。

 どうやら、映画のシナリオは、私が知らない間に大きく変わってしまったらしい。しかし、このままでは、みつる先輩が女装するに至った理由が説明できない。スタッフの私ですら疑問をいだくぐらいなのだから、観客はあっけにとられるのではないだろうか。

 だが、ラストシーンである証拠に、みつる先輩は制服姿である。みつる先輩だけではない。私たち全員制服を着ている。

 それというのは、撮影場所が我が北高の屋上だからだ。立ち入り禁止のはずだが、長門くんが交渉すると、あっさりと許してくれたのだ。撮影した映画が、DVD販売目的のために作られたことを先生たちが知ったら、どうするんだろう。謹慎処分とか受けるのだろうか、この私も。

 そして「ラストシーンは夕方でないと」というイツキの提案により、しばらく待ち時間ができたのだ。ここ数日映画漬けだったハルヒコと軽口をたたいているのは、このような事情による。

「こういう感じなんだ。たーたらたー、たーたらたー。ちびだからってー、ばかにするーなー」

 たずねてもいないのに、ハルヒコは自作の歌を口ずさみはじめてきた。どうやら、映画撮影に終わりが見えたせいか、ハイテンションになっているようだ。私はその拷問から逃れるべく、主演二人に視点を動かす。

 イツキとみつる先輩は、今も微妙な距離を保っている。みつる先輩は話しかけるタイミングをうかがおうとチラチラ視線を送っているが、イツキはまったく相手にしていない。でも、私はその態度をひどいとは思わなくなった。撮影を通じて、イツキがみつる先輩を無視するのも、なんとなくわかってきたからだ。

 セリフを言いまちがえて、ごめんごめんと舌を出すみつる先輩は愛らしかったが、それを許してしまっては、映画撮影は進まない。照れ笑いは場の雰囲気をなごませるが、撮影の進行を滞らせてしまう。

 かといって、その愛らしさを捨ててしまえば、みつる先輩の魅力がうばわれてしまうのだ。みつる先輩の頼りなさこそが、この映画最大の見どころなのである。

 だから、イツキはみつる先輩に助け舟を出さないのだ。みつる先輩をとことん困らせることが、映画をより良いものにできると確信しているからだ。まあ、イツキのことだから、みつる先輩の困った姿を本気で楽しんでいるだけかもしれないけど。

「……それにしても、おまえらって、似ないよな?」

 ハルヒコの声がする。いつの間にか、主題歌を歌い終わっていたらしい。私の視線を追うように、ハルヒコはイツキを見ながら話しかける。

「どういうこと?」

「ほら、女子って、友達同士で同じような服を買ったりとかするだろ?」

「まさか、私に、イツキみたいなカッコをしてほしいの?」

 この屋上で私は制服に黒のカーディガンを羽織っている。我ながら地味な格好だ。いっぽうのイツキは、ただの制服姿とはいえ、メイクしているし、ピアスしているし、髪だって黒くない。屋上の柵にもたれてたたずんでいる姿は、とても同級生とは見えない貫禄がある。

「ちがうちがう、ちがうって」

「そんなに否定しなくてもいいわよ、どうせ、私がイツキの真似をしても、バカにされるだけだし」

「かたくなにポニーテールだしな」

「どうでもいいでしょ、そういうの」

 私がポニーテールを続けているのには理由があるのだが、わざわざ口にするまでもあるまい。

「あんた、私がどういうカッコしても、あまり興味ないくせに」

「いや、最近、おまえ、いろいろ服かえてるじゃん。だから、古泉と買い物行ったりしてるのかなって」

 気づいていたのかよ。だったら、そのときに言ってほしい。なんで、制服着ているときに、そういう話を始めるんだ、こいつは。

「まあ、服買ったりしてるけど、どこかの店に行ってるわけじゃないよ。ネットのオークションで買ってるから」

「そうなのか。おまえ、そういうのにくわしくないと思ってたけど」

「いちおう女子高生だからね。買うのは古着ばっかだけど」

 実は、そのオークションサイトを教えてくれたのはイツキで、いい服があるのを教えてくれるのもイツキである。だから、イツキのオススメの古着を買っているのにすぎないのが事実だが、そこまでハルヒコに言うつもりはなかった。だって、イツキのセンスが良いって知られるのは、なんとなく癪にさわるじゃないか。

「イツキちゃんは目立ちがり屋だからね。私は、地味なぐらいでちょうどいいんだよ。張り合ったところで勝ち目ないし」

「いや、おまえにはおまえなりの――」

「涼宮、そろそろじゃないか」

「お、そうだな」

 長門くんの声に、ハルヒコはすぐさま監督モードに戻る。

「じゃあ、みつるも古泉も、こっちに来てくれ」

 そして、ラストシーンの打ち合わせを始める。私と話していたことなど、すっかり忘れてしまったように。

 私とて、そんな移り気なハルヒコの態度には慣れている。それに、私もスチールカメラマンとして、このラストシーンを撮影する任務があるのだ。さて、あの二人をどこから撮影すればいいだろうかと、頭を切り替える。

 なにしろ、この場面、映画の最大の見せ所なのだ。

 

     ◇

 

【ラストシーン台本】

 

夕暮れ。学校の屋上。制服姿の古泉とみつるが向き合う。


古泉「(ぞんざいな様子で)それで、改めて話ってなに?」

みつる「(うつむきながら)そ、それは」

古泉「なんで、いつもの女装じゃないのぉ?」

みつる「だ、だって」

古泉「もしかして、あたし倒すのあきらめた、とかぁ?」

みつる「そ、そうじゃない!」

古泉「じゃあ、あたしのドレイになるのぉ?」

みつる「そうじゃない!」

古泉「だったら、話ってなんなのよ」

みつる「ぼ、僕は……」

(みつる、一歩前に踏み出す)

みつる「き、君のことを、好きになってしまったんだ!」

古泉「あ、そう」

みつる「え、おどろかないの?」

古泉「だって、あたしって、魅力的だしぃ」

みつる「ちがう! 君の魔術にかかったんじゃなくて、本気で、好きになったんだ!」

古泉「本気っていわれても、ねぇ」

みつる「最初、出会ったときは、君のことが憎かった。でも、戦っているうちに、どんどん、君の魅力に気づいてしまったんだ。そして、一人の女の子として、君のことを、僕は……」

古泉「でも、あたしは一人の男の子に満足できる体じゃないの? キミ、知ってるでしょ」

みつる「ああ、僕は純愛ファイターみつる。君に純愛の意味を教えたくて、だから、君を倒そうとした。でも、今はちがう!」

古泉「じゃあ、どうするの?」

みつる「君を倒さなくても、純愛を教えることはできる!」

古泉「……そんなことが、できると思う?」

みつる「ああ、君は純愛の力を知らず、迷子になっていた。だから、こんなふうに、みんなを苦しめてきたんだ」

古泉「それは、あたしが望んできたことなのよ」

みつる「ちがう! 君は本当はそうじゃない。そして、その運命のクサリを、僕なら断ち切れるはずだ!」

古泉「ほ、本気なの?」

みつる「ああ。だから……」

(みつる、古泉に近づいていく。古泉、おもわず、それに目を閉じながら、唇をつきだそうとする)

みつる「……油断したな、吸血姫!」

古泉「えっ!」

(みつる、古泉を押し倒し、寝技をきめる)

みつる「最初に言ったはずだ、僕は黒髪ロングの子が好きだって!」

古泉「ちょ、ちょっと……」

みつる「この体勢じゃ、いつもの能力を使うこともできないはずだっ!」

古泉「くっ!」

みつる「このまま締め上げたら、さすがの君もどうなるかな?」

古泉「お、おねがい、やめて!」

みつる「純愛に憧れる人々を苦しめた過去の悪行、僕は許すことはできない!」

古泉「く、きゅ~~」

(古泉、失神する。それを確認して、みつる立ち上がる)

みつる「Tさん、見てくれましたか。正義は勝つ! 純愛は勝つ!」

(ガッツポーズをしたあと、みつる意味なく走り出す。そして、適当なところでカット。エンディングに突入)

 

     ◇

 

 私たちの映画撮影には、常識では考えられないことが二つある。まず、一つはカメラが一台しかないことであり、もう一つは、台本が一冊しかないことだ。

 なぜ、台本が一つしかないのかというと、ハルヒコがしょっちゅう書き直すからで、パシリ役と化した私がコンビニでコピーをとってる間にも、脚本が変わっていたりするのである。

 では、どのように撮影するか。このラストシーンで具体的に説明しよう。

 まず、設定位置に、演じる二人が立つ。ハルヒコ監督は、100円ショップで買った小型の黒板に、こう書きこむ。

「SCENE ラスト  PART A

 CAMERA 全体  TAKE 1」

 それをカメラに映して、叫ぶのだ。

「ラストシーン、Aパート、全体カメラ、テイク1、スタート!」

 この黒板はカチンコの代用品である。カチンコとは、プロの撮影で使われる「パシーン!」と鳴るやつのことだ。実は、あれには黒板がついていて、どのシーンを撮っているかが書かれているらしい。あとの映像編集のための目印になるのだそうだ。私はすっかり、音を鳴らすのが目的だと思っていたが、フィルムを管理するラベルとしての役割のほうが大きいという。これまた、長門くんのアドバイスをもとに、ハルヒコなりに自己改良した撮影手法のひとつだ。

 今回の全体カメラというのは、向き合う二人をとらえた構図である。

 しばらくの沈黙のあと、ハルヒコ監督が声をかける。

「古泉!」

 すると、イツキは視線を変えないまま言う。

「なまむぎ、なまごめ、なまたまごっ!」

「みつる!」とハルヒコ。

「となりのきゃくは、よくかきくう、きゃくだっ!」とみつる先輩。

 これは早口大会をしているわけではない。その証拠に、二人の発音はずいぶんとゆっくりしたものである。カメラが一台しかないので、後の編集で使うための映像素材を撮っているのだ。

「みつる、一歩前へ!」というハルヒコの声を合図に、みつる先輩は、イツキに歩みよる。

 それから「古泉!」とハルヒコが言うと、「あかまきがみ、あおまきがみ、きまきがみっ!」とイツキ。「みつる!」とハルヒコが言うと、「ももも、すももも、もものうちっ!」とみつる先輩。

 そのあとも、二人は沈黙したまま向き合っている。十秒以上たったあと、ハルヒコ監督は声をかける。

「カット! 長門、どうだ?」

 長門くんは両手でマル印をする。オッケーということだ。これで、全体カメラの撮影は終わりである。

「次、古泉視点カメラ!」

 ハルヒコ監督の号令のもと、カメラの移動が始まる。今度は、イツキの隣にカメラが置かれる。みつる先輩とイツキは先ほどの場所から動かないままだ。

 それから、ハルヒコはイツキに台本を渡す。たった一冊しかない台本である。イツキはそれを読みながら演じるのだ。カメラは隣にあるので、イツキは映らない。直前まで変更される台本の内容を記憶できるはずはなく、演じる二人とも、台本を見ながら演じているのである。

「ラストシーン、Bパート、古泉視点、テイク1、スタート!」

 カメラにカチンコがわりの黒板をかぶせて、ハルヒコが叫んだあと、数テンポおいて、イツキが台本を見ながら、セリフを言う。

『それで、あらたまって、はなしって、なぁに?』

 そのあと、台本を裏返して、みつる先輩の方向につきだす。それを確認しながら、みつる先輩は演じる。

『そ、それは』

 このケースでは、同じ場面を二回、撮影する。イツキ視点と、みつる先輩視点である。先攻はイツキ視点と決まっていた。それは、台本を読みながらセリフを言うイツキが、話のテンポをコントロールできるからだ。普段の会話からすれば、まどろっこしいぐらい、イツキはゆっくりとしゃべっているのだが、聞き取りやすさを考えれば、これぐらいのほうが良いのだろう。それに、この映画に時間制限はない。むしろ、長ければ長いほど良いのだ。

 二人同時にカメラに映って演じている場面だってある。そのときは、ハルヒコ監督が、カメラの見えない位置かつ演者の視点の方向に、台本を見せるのだ。私はスチールカメラマンとして、そういうハルヒコの奮闘ぶりを写真にしてきたのである。

 きわめて原始的なやり方であったが、おかげでNGシーンが出ることは少なかった。二回撮影しているのだから、ちょっとした言いまちがいも、あとの編集で何とかなるというし。

『ちがう! きみのまじゅつにかかったんじゃなくて、……ほんきで、すきになってしまったんだ!』

 ラストシーンも佳境に入ってきた。みつる先輩は素なのか演技なのか、顔を赤らめながら、告白を演じている。いっぽうのイツキは無表情なままだ。

『ほんきって、いわれてもねえ』

 それぞれの視点で、二回撮影しなければならないので、緊張感を保つことは難しいだろう。実際、これまでの撮影では、二回目のみつる先輩視点のときは早口になってしまうことが多かった。

『ちがう! きみは、ほんとうはそうじゃない! そして、そのうんめいの、くさりを、ぼくなら、たちきれるはずだっ!』

『ほ、ほんきなの?』

『ああ、だから……』

「カット!」

 一番盛り上がるシーンの直前で、ハルヒコ監督のカットが入る。

「じゃ、次、みつる視点だな」

 こうして、長門くんはカメラを移動させる。もう一度、このシーンをくりかえさなければならないのだ。映画撮影って本当に大変だな、と思う。プロの俳優がどう演じているのかわからないけど、断片的に撮っているものでも、観客にはそのシーンが連続するように思わせなければならないのだ。撮影現場の雰囲気に流されてしまってはいけないのだ。

 今度は、みつる先輩視点の撮影だ。みつる先輩の位置にカメラが移動して、イツキだけを映す。みつる先輩はカメラの隣で台本を読みながら演じている。

『ぼ、ぼくは……きみのことが、すきになってしまったんだ!』

『あら、そう?』

 なんだか、さっきのイツキ視点の撮影と言葉遣いがちがっている気がする。しかし、台本は一冊しかないので、監督のハルヒコにも確認のしようがない。セリフのテンポを同じくすることは、初めからあきらめているらしく、よほどの言いまちがいがないかぎり、撮りなおしになることはなかった。まあ、長門くんがマル印をしているということは、だいじょうぶなのだろう。編集作業は部室のパソコンでできるから、カメラの延滞料金は最小限ですむだろうし。

「つぎ、Cパート!」

 無事、Bパートは両方とも1テイクで終わったが、ここからが問題である。ラストシーンおきまりのキス未遂シーンだからだ。

 みつる先輩はイツキに「僕が純愛を教えてあげよう」と言ってキスをせまり、イツキは本気になってしまうが、それはみつる先輩の罠だった。このCパートでは『油断したな、吸血姫』とみつる先輩が言って、イツキを押し倒すところまでを撮影する。寝技のシーンはカメラ位置を変えたDパートとなる。制服が汚れるといけないので、長門くんが持参したレジャーシートが敷かれている。

 結局、純愛とは何なのか、とあきれるシナリオだが、本当にキスをしてしまってはこの映画が成り立たない。また、男子が女子を寝技で締め上げるというのは、映像的には問題がありそうだが、みつる先輩が手加減しないことで、観客(特に、みつるファンクラブの皆さん)に「イツキを女子扱いしていない」と納得させることができる。

 ただ、みつる先輩は割りきって演じるまでには至ってないようだ。なにしろ、キス未遂シーンと寝技である。

 しかし、ハルヒコ監督がリハーサルをしようと言っても、イツキはにべもなく断った。こういうのは一発勝負だからこそ面白いのだと。

 この二つのシーンは台本を見ずに演技する。ほとんどセリフはないし、台本を気にしていたら良い映像が撮れないからだ。

 長門くんのカメラは、イツキの後ろに設置されている。『かかったな、吸血姫!』と表情を一変するみつる先輩を映すためだが、私はあえて二人の横にカメラを構えた。長門くんカメラでは、二人が本当にキスしたのかと錯覚する人がいるかもしれない。その誤解をとくためにも、私はキス未遂シーンの真実を撮らなければならないと思ったのだ。

「ラストシーン、Cパート、古泉後方カメラ、テイク1、スタート!」

 ハルヒコ監督の号令があっても、みつる先輩はしばらく動かない。台本では、みつる先輩がイツキに歩み寄らなければならないはずなのに、なかなか近づこうとしないのだ。なにしろ、イツキは目を閉じて、みつる先輩が何をしてもかまわない無防備な態度をとっているのだ。

 私のコンデジを持つ手も汗ばんでくる。キスを待つイツキの表情は、女子の私から見てもいじらしく、みつる先輩が過ちを犯しかねないものだった。

 やがて、みつる先輩は意を決して、一歩踏み寄る。それは、キスをするにはちょっと離れた距離だったけど、吐息がかかるぐらいの近さだ。映画撮影が始まってから、いや、部室で二人が仲良く話しているときでも、近づくことのなかった距離まで、二人は接近しているのだ。

 そのときだ。瞳を閉じていたイツキが動いたのだ。

 コツン、と何かがあたったような音がした。

 いや、気のせいではない。私はうっかりコンデジを落としそうになった。

 唇あたってるのだ。キスしてるのだ。この二人。

 それは数秒だったかもしれないけど、私がシャッターを切るぐらいの余裕があった。

 それから、イツキはくるんと振り返って言う。

「あたしをだまそうとしたって、そうはいかないよ。ばいばい、純情くん」

 そして、カメラに向かって歩き出す。あれ? これ、撮影の続き?

 そのまま、カメラを抜けると、イツキはすぐに私にかけよってきた。

「キョン子ちゃん、撮れた?」

「へ?」

「撮れたよね!」

「……あ、うん」

 私がその受け答えで正気を戻すと同時に、ハルヒコも声を出した。

「ちょっと待てよ! 台本どおりやれよ、古泉」

「えー。こんなふうに書いてなかったっけ」

 特に、あせった様子もなく、イツキはそう言いのける。

「おい、古泉、撮り直すぞ」

「なんで?」

「だ、だって、あ、あんな……フザけたことしても、映画で使えないじゃないか」

「使えるじゃん。ね? メガネ君?」

 長門くんは、無表情でマル印を作る。

「な……」

「だいたい、映画撮影にはハプニングがつきものなんだから、それをいかさないと。ねえ、団長」

「ハプニングじゃなくて、明らかにわざとだよね、イツキちゃん」

 だんだん冷静になった私の言葉を、イツキは聞こえないふりをした。

「とにかく、これで、あたしの演技は終了ってことで」

「おい、それだと映画が」

「問題ない、涼宮。これからDパートにつなげればいい」

「な、長門、……おまえ」

 あまりにクールな長門くんの答えに、私もハルヒコも気づいた。これは、イツキと長門くんの間で打ち合わせしていた計画通りの展開であることを。キス未遂シーンを撮るふりをして、本当のキスをする。その後の内容も、すでに長門くんとイツキは決めていたのだ。みつる先輩ばかりでなく、監督のハルヒコやスチールカメラマンの私にも知らせないまま。

「……まあ、たしかに、このほうが面白いかもな」

 ハルヒコはそう言って、みつる先輩を見る。この騒動の中、みつる先輩は顔を真っ赤にして、硬直したままだった。いつもは、ミスター受身として活躍しているみつる先輩だが、この事態にはどうすればいいのかわからないみたいだった。

「ねえねえ、さっきの写真、見せてよ」

「あ、いいけど」

 いっぽうのイツキは、やたらと上機嫌で私からコンデジを取り上げる。そして、ボタン操作をして、さきほどの映像を見る。

「バッチリじゃん! キョン子ちゃん、よくがんばりました!」

「あ、うん」

「みつる君。あたしたちのキスシーン、ちゃんと写真になったからね」

「え? あ、ああ」

 もしかして、イツキのやつ、今後、みつる先輩を脅すために、こんな写真を撮ったのか。

 いや、イツキの調子は、とてもそんな裏があるようには感じられなかった。どう考えても、この浮かれっぷりは、恋する乙女と変わらないもので。

「おい、みつる! 最後のセリフ、行くぞ!」

「は、はい!」

 監督のハルヒコも、すっかり取り乱しているようだ。ただ、もうすぐ日が暮れるし、なんとか撮影を終わらせなければならない。

「長門、準備はいいか?」

「ああ」

「じゃあ、みつる。ここだけでいいからな」

 それから黒板に書きこむ。ラストシーン、Dパート。この映画撮影の、正真正銘の最後の場面である。

 みつる先輩は、まだ顔が赤いものの、ガッツポーズをして言う。

『そう、正義は勝つ! 純愛は勝つ! とぉーーっ!』

 それから走り出すみつる先輩だったが。

「みつる君、逆だよ、逆! あっちに行かないと」

 うれしそうにイツキが声をかける。台本では回れ右をして長門くんのカメラに背を向けて走り出すはずなのに、なぜかみつる先輩はカメラに向かって走ってきたのだ。

「カット、カット! しっかりしろよ、みつる」

「う、うん」

 それから、みつる先輩はためらいがちにイツキを見る。それに対して、イツキは満面の笑みでこたえてみせた。

「じゃ、キョン子ちゃん。あたし、帰るね」

「え?」

 イツキは屋上の扉に走り出す。ふふふーん、とステップを踏みながら。

「団長、あとはよろしく!」

 そう無責任に言い放って、イツキは屋上から出て行った。

 

     ◇

 

「ったく、古泉のやつも、みつるのやつも」

 撮影が終わって、ハルヒコ監督は苦々しくつぶやいた。

 結局、最後のみつる先輩のシーンは五回撮り直した。それでも、監督のハルヒコは納得していなかったが、日が暮れて映像が撮れそうにないという長門くんの助言で、中途半端に『純愛ファイターみつる』のロケは終わりをむかえたのだ。主演女優が早退したままで。

「長門も、一言ぐらい俺に言っといてくれよな」

「彼女は『こういう可能性もある』と言っただけだ。俺はカメラマンとして、映像として使えるものならば採用しようと考えた」

「それにしてもなあ」

 がっくりと肩を落とすハルヒコに、私は声をかけてやる。

「おつかれさま。この一週間、本当によくがんばったよ」

「でも、こんな終わり方になるとはな」

「まあ、イツキがヒロインという時点で、こういうことも起こりうるってことで」

「いくら古泉とはいえ、まさか、あんなフザけたことやるとはな」

「フザけてないじゃん」

「え?」

 私はハルヒコのグチに反論する。そう、イツキはいつも気まぐれで、私は何度も苦い思いをしたのだけれど、あの場面は決して冗談ではない。

「……つまり、純愛は負けるってことか」

「へ? なにいってるの」

「だってそうじゃないか。古泉は、その、ああいうことに慣れているから、俺たちをダマして、あんなハプニングを演出したわけだろ?」

 はぁ、と私は溜息をつく。あのあとのイツキの浮かれっぷりをハルヒコは見ていないのか。家に帰って、ベッドで枕抱きしめてゴロゴロしてるんじゃないか、今夜のイツキは。

「あんたがどう思ってるかもしれないけど、イツキは純情な子なんだから」

「ということは、あれ、本気だったのか」

「うん」

「じゃあ、俺たちを巻きこんで、映画撮影したのも、みつるにキスをすることが目的だったのか?」

「うーん、キスしない可能性もあったんじゃないかな」

「どういうことだ?」

 ハルヒコの問いを私は聞こえないふりをした。女子の揺れ動く恋心なんて、鈍感なハルヒコにわかるはずもない。

 あのとき、みつる先輩が自分からキスしようとしたら、イツキは引っぱたいたと思う。かつての私と同じように。でも、みつる先輩はためらった。そして、映画の脚本どおりに、イツキを押し倒すこともできなかった。そんな演技に徹しきれないみつる先輩だからこそ、イツキはああいう行動に出たんだと思う。

 でも、それは私の推測にすぎないし、ハルヒコに話したところで「女心と秋の空……」みたいなことを言われるのがオチだろう。だから、私は何も説明しないことにした。

 こうして、私たちの映画ロケは終了した。あとは、撮った映像をつなぎ合わせるだけだろう。私はこの日を境に映画制作から解放されると思っていた。

 しかし、映画とはそんなに簡単に作れるものではない。そのことを、私たちはロケが終わった翌日から思い知らされるのだった。

 

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