(4)「いえ、彼女は古泉イツキではありません」
「バスケのボールが足りないって言われたんだけど、知らない?」
まさか、この言葉が罠だったとは誰が思うだろうか。
イツキちゃん報告から数日たった放課後、私にそう声をかけたのは、体育の授業で一緒に片付けをした、名字しか知らない子だった。特に仲が良いわけではない、隣のクラスの女子。私はその言葉を信じ、体育館に向かう。
なんで、急にそんなこと言われたの? 私の問いに、彼女は、さあ、と首をかしげる。たしかに、先生というのは、よくわからない理由で怒ったりするものだ。高校生活というのは、時として、このような理不尽が生徒に降りそそぐものである。いちおう、探したふりはしておこうか。そんなことを話しながら、体育館の用具室に入った。
私は不注意だったかもしれない。しかし、名字しか知らない子が、次のような行動を取るとは、並の女子高生には予測できないはずだ。
私が奥に入って、どこにあるんだろうね、と声をかけようとしたとき、彼女は急にかけよったかと思うと、
「えいっ!」
私を力いっぱいに押したのだ。私は体勢を崩して、床を踏み外す。そこには何もなかった。あれれ~! そんな疑問とも悲鳴とも言えない声を上げながら、私は暗闇へとまっさかさまに落ちる。走馬燈が浮かんでくる余裕すらなかった。
どすん。
一秒かからなかったと思うが、私はどこかに落ちていた。下がマットだったのが助かった。わずかな痛みとともに、私は驚きと戸惑いを感じていた。どうして、私は突き落とされてしまったのか。ここはどこなのか。心当たりがまったくない。
「やあ」
男子の声で我に返る。聞き覚えのある声だ。まさかと思って身体を起こす。まちがいない。豆電球の明かりでも、はっきりと彼の顔が見えた。
「朝倉くん? なんであなたが?」
我がクラス委員の朝倉リョウ。彼が私を見下ろすように立っていた。
「我々の秘密基地にようこそ」
この場所の明るさに慣れてくる。目の前には朝倉リョウの後ろに、見知らぬ男子が一人。そのほかには、マットや台車などがある。体育の授業では見たことがない道具だ。おそらく、昔の用具室なのだろう。文芸部室よりも広い地下室。こんな場所があるとは今まで私は知らなかった。しかし、なぜ、私が?
「もしかすると、君は多くを知らないかもしれない。しかし、涼宮ハルヒコは、ここの存在に気づいている。だから、君には人質になってもらうことにした」
涼宮ハルヒコという名前がでたとき、私の中で何かがつながった。あの日、イツキは私にこう言った。あたしの予感が正しければ、キョン子ちゃんもそれに巻きこまれるんじゃないかなあ。
「せっかく、我々が警告を出したのに、君はどうやら、彼に伝えなかったらしいね。まあ、君たちのことはいろいろと聞いているけど。古泉イツキのこととか」
「私になにをする気?」
「おとなしくしてたら、ひどいことはしない」
やばい気配がしてきた。どうやら、朝倉リョウは本気らしい。彼の警告が何であるかはイマイチ思いだせないのだが、この場所の存在に涼宮ハルヒコが気づき、それが朝倉リョウにとって好ましくない事態を招いていることはわかる。私はとっさに考える。叫ぶべきか。逃げるべきか。
「おっと、動くんじゃない。下手なことをすると、顔に傷がつくことになる」
私は横を見る。いつの間にか、ナイフを両手に持った女子の姿があった。それを持つ女子の顔は知っていたが、名前は思いだせない。彼女の持つ刃の先はかすかに震えていた。朝倉リョウの冷静な声に比べると、ひどく脅えている彼女の両手。それが、ますます、私の危機感をあおる。
「おい、朝倉。こいつはバニーちゃんじゃないのか」
そんな私のあせりを無視するかのように、悠長な男子の声がする。
「いえ、彼女は古泉イツキではありません」
朝倉リョウはそれにふりむいて、敬語で答える。上級生なのだろう。ということは、この男がボスで、朝倉リョウは手下というわけか。
「なんだ、面白くない」
「でも、涼宮ハルヒコさえ引きこめば、何とでもなりますよ」
「お楽しみは後にとっておけ、ということだな」
「ええ、古泉イツキは気が強そうですからね。その分、やりがいはあると思いますよ」
「お楽しみ」に「やりがい」ときた。まちがいない。こいつら本物の悪党だ。まさか我が北高でそんなことが行われているとは信じたくないのだが、私の貞操の危機であることは確かなようだ。
しかし、目の前の私よりも、イツキの話ばかりするのが癪にさわる。胸がないとはいえ、ちょっと私の扱いって悪すぎるんじゃないか。どいつもこいつも。
「それより、あんたたち、こんなことやって許されると思ってるの?」
私の言葉に、朝倉リョウはわざとらしく笑って見せる。
「心配しなくてもいい。我々は良き理解者に囲まれているからね」
この暗室、おそらく旧用具室の中には、私以外に六人の生徒がいるようだ。朝倉リョウと親玉の上級生、私の隣にいてナイフを持っている女子、そして、ただ見ているだけの男子が三人。私をつき落とした子を加えると、男子五人で女子二人だ。男子だけならともかく、女子が朝倉リョウに協力していることが私を戸惑わせる。
朝倉リョウは私の隣の子に目くばせをしたあと、親玉の上級生と何か打ち合わせをしているみたいだ。逃げるチャンスかもしれないが、あいにく私には武道のたしなみがない。小学生のときに剣道をすぐに辞めてしまったことが、つくづく悔やまれる。やはり、女の子は自分の身を守るぐらいのことはしておくべきだ。私が子供を産んだら、娘には必ず武道を習わせよう。合気道とかいいかも。って、そんなこと考えている場合じゃないよな。私の隣にはナイフ様がひかえているのだ。これほど、死に近づいた瞬間は、私の十五年の人生の中で、そうはない。
それよりも、涼宮ハルヒコのことだ。おそらく、私は「スズミヤホイホイ」のエサなのだろう。もし、あいつが「キョン子は団員じゃないから無関係だ」と言ってしまえば、私が助かる見こみはゼロになるが、そこまでひどいヤツではあるまい。涼宮ハルヒコに人助けは似合わないが、私のことを多少なりとも思っているならば、何とかしてくれるはずだ。
でも、何とかするって、どうするんだ?
そう思いをめぐらせたとき、聞き覚えのある音がしていることに気づく。ほんのかすかな音。すでに頭上の体育館で始まっている部活の足音よりも、目の前の朝倉リョウと親玉のひそひそ話よりも、ずっと小さいはずなのに、それは私にとって、確かなものとして響いている。何の音だったっけ? どこかでずっとこの音を聞いていたような気がする。でも、思いだせない。まちがいなく、この旧用具室の中から聞こえてくるのだけれど。
怪しまれないように、私は首を動かして部屋の様子をそっと探ってみる。
すると、飛び箱の頭が開いたと思ったら、にょきっと顔がでてきた。私は思わず叫びそうになった。
長門ユウキ! なんで、あんたがここにいる?
そうか。私は声をださないように慎重に、姿勢を戻す。聞き覚えのある音って、彼がSF小説をめくっているときの音か。いわば、それは、文芸部室のBGMみたいなものだ。
つまり、彼はこの旧用具室の飛び箱の中で、SF小説を読んでいたということだ。さすがに、長門ユウキとはいえ、わざわざそんなところで本を読む趣味はないだろう。彼は涼宮ハルヒコに頼まれて、見張っていたはずなのだ。こういう事態になることを見こして。
朝倉リョウ一味は、彼の存在に気づいていない。私がおとなしくすれば、この危機を脱するチャンスはある。
思わず、頬がゆるみそうになったが、まだ油断はならない。もしも、彼らが本気で私を襲ったら、長門ユウキはあてにならない。相手は六人で、味方はメガネ君一人だ。ここは「スズミヤホイホイ」のエサとして、私はおとなしくするべきなのだ。
「おい、聞いているのか」
朝倉リョウのいらだった声がする。私はきわめて厳粛な表情でそれを聞くことにする。
「ひとまず、我々は外に出るが、あいつは残ってるし、出口には見張りがいる。下手な真似をすると、身の安全は保証できない」
そして、彼は指を鳴らす。キザなヤツだ。その合図を聞いて、見ていただけの男子三人が、ロープ片手に近づいてくる。
「暴れるなよ」
そして、その男子の一人が私の手にふれる。思わず、私はその手を払いのける。
「さわらないでよ、変態」
「おいコラ。この状況がわかってないのか」
私につめよろうとする男子を朝倉リョウはさえぎる。
「あせるなよ。人質に傷がついたら面倒なことになる。今、我慢すればするほど、あとでたっぷり楽しむことができるんだからな」
彼は悪党らしいセリフを吐いて、私の隣の女子を指さす。
「おい、おまえ」
彼女は朝倉リョウの言葉にびくっとなる。おそらく彼女は弱みをにぎられているのだろう。だから、こんなバカなことをしているのだろう。しかし、いかなる事情があろうとも、無力な女子生徒にナイフを光らせるなんて行為は許すことができない。
私は彼女のなすがままに手を縛られながら思う。私は気を確かにしなければならない。ここには長門ユウキがいる。朝倉リョウさえいなくなれば、飛び箱から出て私を助けてくれるのだろう。あとは、涼宮ハルヒコが何とかしてくれるはずだ。たぶん。
私は飛び箱のほうを見る。朝倉リョウ一味に気づかれないようにそっと。豆電球の明かりでは、飛び箱の中まではのぞけない。まさか、手持ちのSF小説に夢中になっていたりはしていないよな。長門くん、私は君を信じるからな! そう祈りながら、私は捕縛の身になった。
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