第三十一話『Chain reaction』(1)

AD三二七五年七月二一日午前一〇時二五分


 一つ、煙草を吸った。

 巻き起こる紫煙のように、悩みも雲散しないだろうか。アリスは、喫煙所で煙草を吹かしながら、そんなことを考える。


 近年、煙草を吸うメンバーが減ったことや、邪魔だという理由で、叢雲の中に設置された喫煙室は、今やスペースが一畳少しの密閉された部屋しかない。その中に設置された長椅子に足を投げ出しながら煙草を吸っていると、もうほとんど先が残っていないことに気付いた。

 灰皿に煙草を押しつけた後、自分の左手を見た。傷が、少し痛む。


 整備する内容の報告書を出しに行こうと廊下を歩いている最中に、ルナが壁を泣きながら殴り続けている様を見つけた。

 その時、既にルナの手は血だらけだった。それを、必死になって押さえ込んでいる間に、自分も破片で腕を少し切ってしまった。

 絆創膏を貼る程度で済んだが、体の痛みと心の痛みは、また別の物だ。


 ルナもレムも、自分にとって親戚である以上に、妹のようなものだ。それが双方とも満身創痍の状態になり、レムに至っては自分のことも、今までの経験も、何もかも忘れていた。

 レムが


「思い出せなくて、すみません」


とうつむき加減に言ったときは、胸がずきりと痛くなった。


 これだけへこんだのは、いつ以来だっただろう。家族から勘当されたときか、賞金稼ぎで生計を立てていたときにミスをして肺を人工物に変えたときか、それとも、ここに入ってから味方が死んだ時以来か。

 思えば、そういうことに対して、あまりにも自分はドライすぎたのかもしれない。その結果がレムの記憶喪失に繋がったのだとすれば、悔やむに悔やみきれなかった。


「おい、呼び出しがあったぞ」


 思わず、ハッとして体を起こした。

 横に視線を移すと、ブラッド・ノーホーリーが呆れたような表情をしながら、喫煙室の扉の前に立っていた。

 心臓の音が聞こえている。それほどにまで驚いていたことに、アリスは真剣に驚くと同時に、酷く情けない気分になった。


 しかし、上から下まで真っ黒なこの男をいつも見慣れているはずなのに、付き合って三年目で、初めて怖いと思った。何処か、殺気が漲っている。

 いや、殺気と言うよりは、怒りと言うべきか。静かな、ブラッド自身の自分に対する怒りのように、アリスには感じられた。


「え、呼び出し?」

「あぁ、ちょっと医務室に来い、だそうだ」

「そう。悪いわね、ボッとしてた」

「そうか」


 苦笑するように言った後、ブラッドは対岸の長椅子に座り、いつものように濃い煙草を吸い出した。


「お前でも、堪えるんだな」


 また、心臓が一度高鳴った。

 じっと、こちらをブラッドが見つめている。底のまったく見えない黒の瞳。このような目のブラッドを、言われてみれば見たことがなかった。

 そして、この男は相変わらず勘が鋭いと、少し呆れる自分もいた。


「まぁ、ね。正直、あたしは堪えてる。こんなに堪えたの、本気でいつ以来か思い出せないほどにね」

「俺もだ。あいつを、護ってやれなかった。あの時、あの十二使徒をメッタ刺しにしたときのレムは、明らかに普通じゃないところまで突き進んでやがった」

「そこなんだけど、なんていうか、レムらしくない気がするの、あたしだけ?」

「俺もそれは感じてる。あのユルグとか言うアイオーン、最初っからそれが狙いだったんじゃねぇかと今になって思うくらいだ。それに、ここに来てアイオーンの連中、急に十二使徒を導入してきた。それも俺達がいる場所にだけこの二ヶ月間に二体だ。どう考えてもうちらを標的にしてるとしか思えねぇだろ」


 六月にエルルで遭遇した十二使徒『マタイ』は、紅神のファーストイーグだった。そして昨日遭遇した十二使徒『フィリポ』は、レムの母親だった。

 だが、そもそも十二使徒自体、聖戦以降まったく出てこなかった。聖戦の記録は何度か軍の講義で聴いたこともあったが、十二使徒を仕留めるまでにプロトタイプエイジスが数十体破壊されていることを考えると、十二使徒はそう簡単には導入出来ない決戦兵器であるはずだ。

 だというのに、十年前にアイオーンが出現したときですら、出てくる気配がなかった。にもかかわらず、この導入の早さは、なんだ。


 そもそも狙いはなんだ。ルナなら、こういうときあっさりと言い当てたりするのだろう。しかし、ルナは自分より相当へこんでいる。あの状態では、まともな判断は無理だと、自分ですら思うほどだ。


「まさか、これ、レムかルナを最初から狙ってたんじゃないでしょうね。レムを崩せば、それでルナも崩れることを狙ってたんじゃ」

「可能性はなきにしもあらず、だろうな。もっとも、アイオーンの考えなんざ、俺達人間には分からんが」


 イーグになろうが、所詮人間だ。考えが突飛になるわけでもないし、肉体は強化されても、頭脳までは強化されない。

 自分の考えることなど凡人の域を脱しない。ただ、親族を護りたい。その感情だけで、自分は今この部隊にいる。

 その親族すら護れないなど、凡人以下ではないか。


 拳を力強く握っていた。そのまま、急いで席を立って、足早に喫煙室を出た。

 いつの間にか、泣いていたことに気付いた。涙を流したのも、いつ以来だったか。

 それを察したのかどうなのかは分からないが、ブラッドが何も言ってくれなかったのが、素直にありがたかった。

 泣いている姿を見られたらなんて言われるか、わかったものではない。


 少し廊下を走り、大して人も通らない場所で、少し涙をぬぐった。

 手に巻いていた包帯が、少し涙でにじんでいる。


「情けないなぁ……」


 ただ、その手を見ても、そういう感想しか抱けなかった。

 ため息を一度吐いた後、医務室に呼ばれているのを思い出し、少し走る。走っているうちに、泣き止むことも出来るかと思ったが、特にそういうこともなかったのが、少し悔しくもあった。


 病室の前に立ち、もう一度涙をぬぐう。眼が赤くなってないかだけが気になったが、一度深呼吸をすると、病室の自動ドアが急に開き、入れ違いに小さな人影が病室から出てきた。


「あら、アナスタシア、だっけ? なんでまたこんなとこに?」


 む、と、アナスタシア・クールレインが、アリスを見上げるように見つめた。


「あんた、確か、アリス・アルフォンスだったっけか?」


 数時間前にアナスタシアの所属するPMSCsの『ヘヴンズゲート』に許可を取り、ルーン・ブレイドと長期契約を結んだ傭兵だが、なんというか、偶然というべきなのか、よりにもよってブラスカの命の恩人らしい。

 それに、浅黒い肌に金色の瞳、そして何より自分より頭一.五個分は小さい身長と、この部隊に雇われた傭兵の中でもひときわ目立ったこともあり、よく印象に残っている。


「なんつーか、その、ブラスカの傷、治せねぇかなって、思ってさ」


 少し頬を染めながら、アナスタシアが言った。

 思わず、あっけにとられた自分がいた。

 こんな時期に何を言ってるんだと、下手したら殴りかかりかねないほど、怒りに震えている自分がいた。


「あんたねぇ……」

「傷って言うのは、割と厄介なものだよ」


 ため息を吐きながら、アナスタシアはアリスを見つめ返した。

 金色の瞳は、一歩も引いていない。その小さな体に、どれだけ強い意志を持っているのだろうと、興味に駆られた自分がいたことに、アリスはひどく驚いていた。

 同時に、この女はもの凄く頑固だとも思い、少し苦笑しそうになっている自分がいることもまた、アリスは驚いていた。


「傷は、放っておくと、いつの間にか広がっちまう。転んだところで放っておきゃぁ治るって言ってる奴もいるが、体内の組織が治してるんであって、放っておいて治るもんじゃないし、体内にそれがない奴は、延々と血を流し、やがて死んじまう」

「何が、言いたいわけ?」

「あたしも、あのスケベな医者に呼ばれた口さ。元々あたしゃジャーナリストだから、何か画期的な心身ケアのやり方知らないか、って言われたよ。あの子の記憶喪失は精神的な物が原因だから、それでどうにかならないか、だそうだ」


 戦場では、自然と心が荒む。それもそうだ、殺し合いをしているのだ。いずれ心が暴発する。

 だから今はどの企業国家でも、軍課所属の軍人は最低でも三ヶ月に一回は心療内科の受診が義務となっている。

 自分もたまに行くが、これといって問題はないらしい。


「だが、あたしゃそんなもんは知らんし、第一、あの子が記憶を失ったのは、相当にショックだった出来事を遮断するために引き起こした防衛反応みたいなもんだろ。記憶を戻した後に、そのトラウマが蘇らない保証はない。つまりだ、あのレムって子が、今まで通りに生きてて欲しいと願うなら、そのトラウマを治してやる必要がある。最終的に治すのは己自身の力だとしても、それを支えてやることは出来る。いくらだって、出来るんだ。それが出来るのは、多分新参者のあたしじゃなくて、結びつきが強い、あんたらだろ?」


 急に、すっと心の影が消えた。そんな気がした。

 外部からの人間だからか、自分の想像以上に冷静で、それでいて、恐ろしいほどに核心を突いてくる。


 思わず、手を握り替えしていた。

 小さい手だ。自分なんかより、遙か小さい。だが、不思議なぬくもりがある。口は悪いが、それでもアナスタシアは人のことを思ってやることの出来る人間なのだと、アリスは心底思った。


「ありがとう」

「ちょっと、青いかもしれねぇけど、ま、そんなもんだよ。そんじゃ、あたしゃ機体の整備してくらぁ」


 にっと、アナスタシアが笑って、そのまま医務室から出て行った。

 そのまま入れ違いに、自分が医務室の最奥にある、医院長室に足を入れる。


「遅いぞ、アリス」


 相変わらず、不機嫌な玲の声がした。医院長室は、相変わらずエロ本にエロポスターに煙草のコレクションばかりだ。それに、玲は振り向きもせず、淡々と机の上で何かを書いている。


「女同士で会話してたのよ。心療方法について聞いたんですって?」

「ルナもレムも双方あの状態だ。ルナは部屋に籠もってるし、レムは今こそ寝ているが、記憶の方は綺麗さっぱりだ。まったく、こういうときに心療の専門家がいるのがよりにもよって首都まで行かないとダメっつーのがやばすぎる」

「ドクターも、結構堪えてる物なの?」

「俺は、あくまでも怪我専門の医者でしかねぇ、っつーことがよくわかっただけでも十分だ」


 玲が、頭を掻きながら、不機嫌そうに言った。筆を走らせる音が、また少しうるさくなった。


「傷を治すのは、あくまでも己自身だけど、その傷の治りを支えることは出来る」


 玲が、筆の動きを止め、こちらを振り向いた。少し、驚いたような、意外な表情をしていた。


「アナスタシアの受け売りだけどね。あいつがそう言ったら、急に気分が楽になったわ」

「そうか。あいつ、あの小さいなりで、想像以上に色々と考えてるんだな」

「あたしも少し驚いたわよ。割といい収穫かもしれないとも思うわ。ゼロの穴埋めには、ある程度は十分でしょう」

「戦略としても申し分ないってのは、艦長のお墨付きだしな」


 それから二、三点話をしてから、医院長室を後にした。


「あ、アリスさん、いらっしゃってたんですね」


 聞き慣れた、それでいて、他人行儀な声がする。

 レムが、ベッドに上半身をもたれながら、起き上がっていた。

 記憶がない。レム自身のことも、ルナのことも、自分のことも、何もかもを、レムは忘れてしまっている。


「アリスでいいわよ」

「はい。その、お時間があれば、少し、お話ししませんか? ちょっとばかり退屈で」


 レムが、にこりと笑った。

 傷を治すことの支えは出来ると、アナスタシアが言ったのだ。


 よし、なら、支えるためにいっちょ体張ってみますか。


 そう思い、レムのベッドの横に椅子を出して座った。

 他愛のない話でも、それが支えになる。

 アリスは、そう信じたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る