第二十九話『心を持つ者達』(1)-1
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AD三二七五年七月二一日午前二時三一分
また、同じ景色が広がっていた。
血の池。その中に、ただ一人だけでたたずんでいる。
だが、今回は何の血かと思えば、自分の血だった。
胸から血を池に垂れ流しながら、ゼロ・ストレイは立ち尽くしていた。そして、何故か、自分の右腕がない。
「俺の腕は、何処に行った?」
痛みも、何故か無い。そして、こんな状況なのに、想像以上に自分が冷静でいられることの方が驚きだった。
周囲を、見渡してみる。
誰かがいた。金髪に、怒髪天の如き髪の毛をした、よく知っている男。
知っているはずの、男。
誰だったのか。思い出せない。
「なぁ、あんた、俺の腕、知らねぇか?」
「腕? ちゃんとあるだろ? ゼロ」
もう一度、眺めた。
確かに、腕がある。しかし、自分の腕ではない。
甲にある刻印が変わっていた。今まで自分の刻印は『666β』だった。だが、βではなくαになっている。
αの腕を持つ人間を、俺はよく知っていると、改めてゼロは思い出す。
村正・オークランド。自分の能力を最大限に使ってでも、ケリを付けたい、いや、付けなければならないはずの相手、そして、自分の双子の兄だ。
そうだ、目の前の相手は、村正ではないか。
だが、何故奴の腕がなくて、俺の腕はあるのだ。
「悪いな、ゼロ」
「あん?」
「決着、付けるのは当分先になりそうだ。お前とはもう少し違う形で会いたかったが、ま、いいだろ。こんなもんだ、人生なんてのは」
呵々と、村正が笑う。
「あぁ? 何言ってンだ? まだ引き分け三回しただけじゃねぇか。まだまだ、勝負はやらなきゃならねぇだろ」
村正が、今度は真剣な目で、自分を見た。
刃の如き、鋭い目だった。
「いいか、ゼロ。これからどんだけ這いつくばってでも生きろ。兄貴である俺が言ってやれるのは、それだけだ」
村正が、踵を返して、遠ざかっていく。
「あ、おい、何処に行くんだ?」
追いかけようとしたが、何故か、歩けば歩くだけ、村正が遠くなっていく。
じゃぁな。
不敵に、村正が笑った。
何故、笑うんだよ、兄貴。
思ったが、口に出来なかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
暗い景色だった。ただ、天井には見覚えがある。何回ここに足を運んだか、分かったものではない。
叢雲の医務室だった。
しかし、違うことが三つある。
部屋が真っ暗なこと、自分に点滴の管があること、そして、腕に包帯が巻かれていること。
自分はいったいどうしたのか。思い出そうとする。確か村正と斬り合った。引き分けて、そしてハイドラと戦った。そこまでは覚えている。
しかしその後の記憶が、何故か抜け落ちている。そもそも自分がどうやってここに帰ってきたのか、それすらも思い出せないのだ。
だが、いやに奇妙な夢を見たと、ゼロは思う。何故、村正が遠くに行ったのだろう。
そして、何故自分の腕がなかったのだろう。確かに、今ここに、自分の腕は包帯に巻かれているが、あるではないか。
「あんまし動かさねぇ方がいいぞ」
不機嫌そうな声が聞こえる。相も変わらず、玲の声だった。
「よぅ、藪医者。何がどうなってやがんだ?」
「簡単な話だ。お前が生き延びた、それだけだ」
「他はどうなってる?」
「攻防戦自体は負けだ。信じがたい話だろうが、イーギスの野郎がフェンリルのスパイだった。今の俺達は敗残兵だ」
「負け、か。なら、俺もこれだけ斬られたってことは、ハイドラに負けた、ってことか」
「そういうことだ。お前ハイドラに滅多切りにされたんだよ。それはもうボロクソに負けた」
なんとなく、思い出してきた。
ハイドラが、突然暴走したのだ。十年前と同じように、突然豹変した。
何故か、村正に自分を逃がせと命令した直後、自分は、斬られたのだ。
そして、腕が無くなった。
では、今くっついているこの腕はなんだ。
まさかと思った。
必死に、腕の包帯をむしり取った。
めくれた先には、確かに、生身の腕があった。
ただ、何か違う。違うのだ。腕の甲の刻印が違っている。
自分の刻印は『666β』だったはずだ。何故か、その刻印が村正の付けていた『α』に変わっている。
そして、自分の腕には明らかに移植手術の跡があった。
「まさか……村正は……」
「死んだよ」
あっさりと、玲が言った。
直後に、点滴を引きはがして、医務室を出た。玲は、止めもしない。
確か、何処かに霊安室があったはずだ。奴のことだ。そんな簡単に死ぬわけがないし、だいたい腕一本程度ならば、生死の境はさまようかも知れないが、あの男なら死ぬはずもないではないか。
だというのに、何故、自分はこの傷だらけの体で走っている。何故そこに向かおうとしている。
何か、焦りがある。いや、焦りとは違う、何か。
思い出した。恐怖、という感情だった。
十年前、味わって以来忘れていた、いや、忘れようとしていた感情だ。
霊安室に駆け込むと、中はかなり冷え込んでいた。死体を保存するには確かに多少冷えた環境の方がいいのだろう。
あれだけの戦闘があったのに、霊安室はひっそりとしていた。棺桶もまったくといっていいほどない。
いや、一個だけ、棺桶があった。
まさかと、思った。
そっと、ふたを開ける。
間違いであって欲しかった。
確かに棺桶の中には、村正が、いや、村正だった抜け殻がいる。
「ちょっと考えりゃ、分かるだろ。あんだけの血ぃ失ったんだ。お前の血に適合する人間、そんな奴、お前の兄弟以外誰がいる。腕も同様だ。そこまで合致する人間、お前の兄貴以外いねぇだろ」
「まさかおめぇ、殺したのか、村正を」
「いや、奴がお前を運んできた。ついでに、腕と血は奴の遺言だよ。くれてやれ、だそうだ」
視界が、急ににじんだ。
手で、目をこする。まだ、にじんだままだ。
泣いているのだと、自分で気付いた。
よく、他人を泣かせた。泣く奴の面も見た。
だが、自分が泣いたのは、いつ以来か。思い出そうとしても、思い出せなかった。
悔しくて、仕方がなかった。
散々に斬り合って、引き分けたと思いきや、結局余裕をかまして寝ていた挙げ句、自分を運んで最後は血と腕をくれてやると来た。
完全に、自分は勝ち逃げされたのだ。
決着を付けることも出来ず、かといって皮肉も礼も言うことも出来ない。
こんな屈辱的なことがあるのか。
それとも、自分がそれにまみれないようにしていただけか。
叫ぶ気力も、沸いてこなかった。
人は死に、大地に変える。誰もが、当たり前にそれをやる。そして、実験体だろうとなんだろうと、死は全て平等に訪れる。
分かっているはずなのに、何故か、このときだけは、分かりたくないと思った。
どうすりゃいいんだよ、兄貴。
答えは、帰ってこなかった。
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