第六話『始まりと終わりの名を持つ者』(前編)-2

 ブラッドは一人、酒を飲んでいた。

 叢雲飲食街の一角に小さなバーがあるのだ。

 ブラッドは目の前に注がれたウォッカを少し口に含む。

 先ほどまでブラスカがいたのだが


「ちっと酒きつくなってもうた」


と言って寝に帰ってしまった。仕方なく彼は一人で酒を飲む。

 彼はこうして酒を眺めていると、一人の女性を頻繁に思い出す。

 アサシン時代に、ただ一人だけ、愛した女性、だけど、守ってやれなかった女性。

 そんな彼女のことを思うたびに、ブラッドの心は揺れる。

 血みどろになったこの手で抱きしめられるはずなどないのに、ただひたすら、そのことが心を縛る。

 その後、彼はそれを振り切るかのようにグラスに残っていたウォッカを一気に飲み干した。

 そして、ポケットの中に入れていたスーパー16を出して一本吸う。

 少し濃いこの味がブラッドのお気に入りだった。

 それを銜えながら、今日の酒代を払ってブラッドは酒場を後にする。

 外の展望を直接映し出すバーチャルリアリティの天井へ向け、少し朝焼けの広がる空の元、副流煙をはいて、ブラッドはただ一言呟く。


「おまえの魂はいつ癒されるんだろうな……」


 その表情は、哀しみと複雑な自分への怒りに満ちていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


『ブラスカ、貴様どういう了見でそこにいる? 粛正のこと忘れたとは言わさんぞ』


 ブラスカの耳に入ってきた狭霧からの通信は、殺気の色が色濃く見えた。

 エミリオは、何故ここまで変わってしまったのだろう。そう思うには時間が空きすぎた。


「ワイは信じたいンですねん、わけわからへん力よりワイ自身を」


 こうとしか言えないし、実際そうだった。


『そうか、ならば貴様は我々の完全な敵だ』


 狭霧はワイヤードシステムを展開し始めた。

 不知火も負けじとオーラハルバードを展開する。

 狭霧は一度腕を振り上げる。

 だが、その後、糸の大群は発せられず、狭霧は静かに、その巨大な腕を下ろした。


 ここで勝負を付けるべきではない。まだ、殺せるチャンスはいくらでもある。裏切りの代償を払わせるまで、俺は死なない。


 そうエミリオは思ったのだろう。この男はそう言う男だ。

 ブラスカもまた、不知火の構えを解いた。

 その後、エミリオからブラスカへと寄せられる、ただ一つの言葉。


『いいな、ブラスカ、俺が貴様を殺す。それまで生き残れ』


 狭霧は後ろを向き、その名の通り、立ち上がり始めた霧の中へと消えていった。

 不知火は崩壊した大地に哀しげに、ただ佇む。


「隊長、すんまへんな、ホンマ。ワイはワイの道を進むことに決めたんですねん。もうワイは戻れませんねや。さよならっちゅー奴ですわ、ホンマ」


 ブラスカはあまりにも重いため息を付いて不知火を叢雲へと帰還させた。

二時間前のそんな情景を、ブラスカは自室のベッドの中で思い返していた。

 自分の腕を天井へ向けてあげた後、強く握る。まるで、力を掴もうとせんばかりに。


「ワイは……自分の信じる道を行ってみよう思いますねん」


 そういう誓いを立てて、彼は眠りについた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 殺風景な部屋だな。

 ゼロがルナに連れてこられた部屋で、彼が最初に思い浮かんだ感想はそれだった。

 広さはおおよそ十畳ほど、白い壁と一個のデスク、そして二つのいすというまるで職業面接場のような部屋だ。

 というより本当に職業面接場だった。

 ゼロはそこにいたアリスにぎょっとする。

 彼女は少し厚めのメガネを掛け、どういったわけかグレーのスーツに身を包んでいる。

 何がどうして彼女がこんな格好をしているのか、非常に理解に苦しんだ。


「やっと来たわね。新人、そこに座って」


 ゼロは言われるがままに椅子に座る。

 アリスの横には膨大な数の書類が載っている。高さはおおよそ五センチメートルぐらい。

 それにゼロは少しため息をする。


「何でてめぇはんな格好してんだ? つーよりも何だ、ここは? そしてンだ、この紙は? ついでにてめぇは近眼か? それと俺はゼロっつー名前がある、それ忘れンな」


 ゼロは口々に質問するついでに自己紹介も済ますが、アリスは大して聞いていない。あっさり


「ふーん」


と受け流された。


「とりあえず一つ一つ答えさせてもらうわ。とりあえず近眼よ、あたし。普段はコンタクトなの。実は右〇.〇二、左〇.〇三でしかも乱視とすこぶる悪くてね」

「そんなんでなんでスナイパーとか砲撃手やってんだよ」

「射撃の腕が一番いいからに決まってるじゃない。コンタクトしてりゃ、こちとらスコープなしで三〇〇先の目標にも当てる自信があるわ。もっとも、昔はこんなに悪くなかったんだけどねぇ……」


 アリスが溜め息を吐く。その後は延々彼女の自己紹介が始まった。

 なんでも彼女、かなりのゲーム好きらしい。ある格ゲー大会では全国ベスト四にまで上り詰めた実績があると言う話 も聞いた。そのため周囲のゲーセンでは彼女の存在を知らない者は『モグリ』扱いされるほどの有名人なのだという。

 そしてそれが原因で視力が悪くなったとも聞いた。実際、酷いときは三日連続でプレーしていたこともあるらしい。


「で、あたしのこの格好はあくまでもあたしがこの部隊の公認会計士兼面接官だから。それにこうした方が雰囲気出るじゃん? なんかマジ物の職業面接場みたいな雰囲気あるっしょ?」


 アリスは自信満々に言うがゼロはそれに対し徐々に頭痛を覚えてくる。


 いや、そりゃ違う、あらゆる意味で間違ってんぞ、おい……。


 そう突っ込みたくなったゼロだが、そんなことすれば何されるかわからないという野生の勘が作用しそう言うのをやめた。

 とりあえず理解したことは、実は彼女が『電波系』であるという事だ。


 アリスは表向き『クールな女スナイパー』だが、実際は『かなり電波な性格の超絶ゲームヲタク』というなんというかどうしようもない二面性を持っているということを知るまでには、大した時間が掛からなかった。

 かなりボディバランスに優れているのに男が寄りつかないのはそう言う性格的な面がかなり大きいとうことも、同時に分かった。


 しかも今になって気づいたが、アリスの頭頂部からなんか変な髪の毛が一本ピンと伸びている。癖毛なのかと思ったが、今まであんなもの生えていなかったし、ピクンピクン動いているのがすごく気になる。

 冗談みたいな話だが、アリスのみが持つ『毒電波レーダー』らしい。なんでも髪の立つ本数によって毒電波の受信具合が変わってくるらしい。

 携帯電話のアンテナのようだと、鋼は感じた。

 しかもそれに比例して目つきがどんどんやばくなっていくという、ルナ曰く『素敵ギミック』が付いているという。

 この女もまた、微妙に現実を超越している気がする。

 そしてアリスはさらに言葉を続ける。


「後ここはうちらの部隊で使っている面接場、そしてこの紙はあなたがこの部隊並びにベクトーアに入るための契約証、並びに書類。他に質問は?」


 こういうのって本社行ってきちんとやるべきじゃねぇのかと思った。


「ついでにこの紙媒体は何だ?」

「就職手続き用の書類。あたしだってこれ全部やったんだから我慢しなさい」


 意外にドライな女だな……。


 ゼロは一度ため息をはいた。


「ま、あんたはこの書類全部読んでサインすりゃいいんだから、楽なもんよ」


 アリスはさっそく一番上にあった紙をとる。


「それじゃあまずはこの紙を見てもらおうかしら? まずは会社契約に関する諸注意の紙よ。じっくり読むようにね」


 アリスが渡したその紙には会社の規約などが細かい文字でぎっしりと紙面を覆い隠すように書かれていた。しかも白黒の活版印刷で。

 いくらパソコンを使って書いてもこれほどぎっしり書かれていると読みにくい。というよりも読む気すら失せてくる。


「今時こんなにびっしりと書いてある注意規約なんてねーよ、ぜってー。あー、ったく、うぜぇな、おい」


 ゼロは少し血の気が引いていた。だがそれでもぶつぶつと文句を言いながらその紙を読んでいっている自分がいたことにも気付いた。

 何やってるんだ、俺はと、イヤに冷めた目線で自分を見つめている自分がいた。


「まさかとは思うけどよ、ここにある書類って全部こンくれぇの字で書いてあンのか?」

「そうよ。これくらい細かい文字でぎっしりとね。あたしもあの時は腱鞘炎になるしゲームで悪くなった視力は余計に悪くなるし、目の前には変な文字が浮かんで見えるしで大変だったわ」


 アリスはため息をつきながら答えた。


「読み終えたんだったら次はこの書類。超長期雇用保証書。職業選択の自由なんざぁ無視しなさい、無視。とりあえずボールペン渡すからサインして。それと血判証明も必要だからね」


 彼女は一枚一枚ゼロに紙を渡していくが彼にとってかなり重要な問題がここで発生する。


「あのな、本名がない場合ってどうなんだよ?」


 ゼロはもっともな質問をする。

 というよりも戸籍すらないこの男が就職できるという地点で世の中も変わったものだと感じざるを得ない。


「別に自分の通称でいいんだけど」

「名字も俺ねぇんだけどよ」

「あー、ないのか……。どーすっかな……」


 アリスは少し頭を抱える。さすがに名字がないのは、今後いささかまずい。

 そこで彼女は机に置いてあった携帯電話をテレビ電話モードにして、ルナに連絡を入れた。

 すぐさまルナは応答して、携帯電話のモニターにルナの顔が写される。

 聞いてみると、さすがにルナも困惑した。

 確かにゼロが一カ所に定住した試しなど十年前まで暮らしていたゲリラの村が最後だ。それ以降は各地を転々としており、一カ所に定住した最大期間などせいぜい三ヶ月。戸籍自体いらなかったのである。

 だが、これからは結構な割合での定住生活を強いられるわけだ。戸籍がないと言うことは基本的人権の存在はおろか、給料すら払われない危険性も秘められている。

 さすがにこれはまずい。

 しかも悩む彼女たちに対してゼロは更に悩ませる言葉を言い放つ。


「別におめぇらの好きでいいぜ?」


 もうトドメだ。二人とも完璧に頭を抱えてしまった。

 見るからに二人とも困っているというのに、この男はまるでそれに気付かない。鈍感にもほどがある。

 そんな時に、ルナの頭の中にある英単語が思い浮かんだという。

 その英単語は『Stray』-はぐれ者。

『素性の知れない男』、そんな意味合いを込めた考え方だった。

 ただ、これ自体最初は冗談のつもりだった。


『……っていうのもいいかな~、な~んて思ってみた……んだけど……』


 ルナの語尾がどんどん消えていく。

 それもそうだろう、ゼロが本気で悩んでいる。冗談のつもりだったのにかなり本気だ。


「……ストレイ、か。そいつに決まりだな」


 二人とも目が飛び出そうになった。


『え?! ちょ、それでいいの?!』


 ルナはさすがに相当焦ってゼロに確認を促すが、彼は満足していた。


「俺にゃあちょうどいい。ゼロ・ストレイ、か。悪ぃ名前じゃねぇな」

『は、はあ……』


 ルナとアリスは思いっきり頭を抱えていた。

 こんな大して物事考えない人入れちゃって大丈夫だったのかしら?

 ルナはそう思ったというが、もう遅い。

 冗談は言われてもいい人とまずい人がいるということがよくわかっただろう、読者諸兄?

 そう、こうして、こんないい加減極まりない理由で『ゼロ・ストレイ』という名前が決定したのである。

 しかし、ゼロからしてみれば小気味いい響きだった。自分の存在そのものが人間にとって『はぐれ者』なのだから。

そして、自分自身の定義が『迷い人』なのだから。


「どした、頭でも痛いのか?」


 しかも彼はこの期に及んで雰囲気が飲み込めていない。この辺りは微妙におつむが弱い。


「うん、あらゆる意味でね……」


 アリスはがくりと項垂れながら言った。

 

 先の思いやられる新人が来た……。


 そう思った。

 その後、彼女は胸ポケットから自分愛用の大型ナイフを取り出す。


「殺す気か?!」


 ゼロの表情が引きつった。


「嘘嘘、冗談よ。マジになってどーすんの?」


 アリスは少しにやりと笑った。

 結局アリスはスーツの胸ポケットから小型ナイフを出すと、ゼロは書類を適当に読んだ後、左腕にボールペンを持ちサインする。

 その手先は義手とは思えないほど滑らかだった。その様子にアリスは感心する。


「へぇ、上手いわね。本当に義手なの?」

「十年間も義手と過ごしゃあ、自然と慣れるもんだ」


 ゼロは淡々と一言言った後、書類にサインした。

 その後右手の親指を差し出し、そこに先ほど出た小型ナイフでアリスが指先をつついた。

 斬ったところから血がじわりと出てくる。

 その血が出た時、不意に声が聞こえた。


 この血は最早人間のものじゃないんだな、カイン。


 子供の頃の言葉だった。

 カイン、村正の幼名。それと対を成す兄弟の名前としてアベルの名がゼロには与えられていた。

 聖書に出てくるアダムとイヴの息子である兄弟、そしてその兄弟はカインの嫉妬により殺し合った。

 実験場で与えられたその名の通り、神話上のストーリーに沿うかのように、彼等は殺し合った。

 捨てたはずの名前が、未だに心を縛り続ける。何とも滑稽だと、何故か思えた。


「どした? 痛かった?」


 アリスの言葉でようやく彼は白昼夢から醒めた。


「いや、なんでもね」


 ゼロはアリスの言葉も、先程の白昼夢も、軽く受け流すこととした。

 血が指紋を伝わって指を血塗れにしている。

 名前を書いた横にゼロはその指を押した。

 これで正式に彼はルーン・ブレイドのメンバーになったことになる……はずだった。


「あ、言い忘れてたけど血判証明する奴はこれ以降何十個もあるからね。戸籍とか定住地域申告書とか色々あるから注意するように」


 ゼロは大きくため息をついた。

 確かにたったこれだけで社員になれたり戸籍が貰えたりするほど世の中甘くはないということだ。

 結局彼がこの書類を完全に書き終えるのは四時間半も先のことになる。

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