第2章:麗
メランコリー
朝。
日差しにはまだどことなく夏の暑さが残ってるけど、風はすっかり秋だ。
あたし、
まるで儀式ね。あたしは供物。向かう先は、いけにえを待つ祭壇みたいなもので。
ポニーテールを揺らして歩くあたしと、どこかの学校の男子三人がすれ違う。聞こえよがしの声が耳に入ってくる。
「今の子、見たか? けっこうよくね?」
「見た見た。ガリ勉メーセーのわりに、レベル高ぇ」
「胸にボリュームあったらカンペキなのにな」
「わかってねぇな。手のひらすっぽりサイズのほうがかわいいじゃん」
雑音。
黙っててよ。
こっちを見ないで。神経をひっかき回さないで。
あたしが着ているのは、時代がかった制服だ。白いブラウス、ボルドーのリボンネクタイ、青がメインのギンガムチェックのスカート、黒い革靴。
明精女子学院高校の制服は、半世紀前と同じデザインだ。つまり、二〇〇〇年ごろに流行った形の制服らしい。
制服が物語るとおり、明精の体質は古くさい。「淑女を育てるための」っていうしらじらしい校訓のせいで、かえって、よその男子は明精の女子に興味を持ってる。
あたしがこれだけイライラしたオーラを出してても、寄ってきたバカから無遠慮に声をかけられることがある。
腹が立つ。傷付く。苦しくなる。
でも、面と向かったら、あたしはうまく声が出ない。足を速めながら、一人きりでつぶやくだけ。
「頭の悪いやつに用はないのよ」
つまり、世の中の九十五パーセントを占める「普通の」人間に、用はない。
あたしは、
今、あたしが望むなら、世界一流の研究機関の勤めることができる。そして、親の給料より、よっぽど稼ぐことができる。
でも、あたしは一般の高校に入学した。そうしてみたかっただけ。ただの気まぐれ。その選択を、今は後悔してる。
ここ、
学生の町でもある。世界屈指の研究機関、響告大学のメインキャンパスがあって、その近辺には響告大学の学生がたくさん下宿している。学生相手のお店も多い。
おにいちゃんも響告大学の出身だから、大学のまわりのおもしろいお店を、いっぱい知ってる。
あたしの実家は響告市の隣町にある。あたしは高校入学と同時に響告市に引っ越してきた。それ以来、一度も実家に帰ってない。実家から連絡が来ることもない。
一人暮らしではなくて、あたしはおにいちゃんと一緒に住んでる。おにいちゃんが全部間に立ってくれるから、何のトラブルもない。安心できる。この安心感がないと、生きていけない。
あたしはカバンを肩越しにして、四本の指に引っかけた。軽いカバンの中身は、おにいちゃんが作ってくれるお弁当だけ。あたしには教科書やノート用の端末も必要ないから。
明精女子の校舎も築数十年の古いもので、見た目だけなら、もっとずっと古く見える。中世ヨーロッパって言ってもいいくらいのゴシック様式。重苦しくて、堅苦しい、牢獄みたいな場所。
黒鋼の門柱を背にして、十人の教師が笑顔と挨拶を振りまいている。五十年の伝統を持つという、朝の挨拶運動だ。
国語教諭の
いかにも先生らしい格好と雰囲気の女。長い髪は一つに編み込まれてる。度の弱いメガネと、色白な顔。明精女子の卒業生らしい。二十五歳で、教師の中ではいちばん若い。
あたしは静世が嫌いだ。あの人には裏表がある。甘ったるい笑い方がやたら好かれてるらしいけど、信じられない。
「風坂さん、おはようございます」
あたしは応えない。
静世のそばをすり抜けるとき、花のような匂いがした。コロン? この女、そんなのつけてた?
ただでさえ、毎朝、校門をくぐるときには吐き気がする。そのうえ、この不自然な匂い。
気持ち悪い。本気で吐きそうになる。
ダメ。負けちゃ、ダメ。
逃げちゃいけない。毅然として、強がってなきゃ。
あたしは奥歯を噛みしめた。体のどこかが痛いような気がする。でも、どこが痛いのかわからない。
***
明精女子の校舎は、四つの建物が、十字架の形に配置されている。
南向きに長く伸びるのが紅玉館。四つの建物の中で、いちばん広くて大きい。南端に正面玄関があって、全学年の教室や特別教室、校長室や職員室、購買部は、この紅玉館に入っている。
中庭は正方形。それを挟んで左右対称に、東の瑠璃館と西の真珠館。瑠璃館は、まるごとひとつが図書館になっている。真珠館には、教職員の居室や教科ごとの資料室が置かれている。
北の黒曜館は、一般生徒は立ち入り禁止。「黒曜館の地下には核シェルターがある」「昔、黒曜館の北塔で自殺者が出たらしい」みたいな無責任な噂が、たくさんある。
ほとんどの生徒は、紅玉館が、学校生活の中心になる。でも、あたしのための教室は、黒曜館にある。
あたしは足早に紅玉館を抜けた。中庭を突っ切って黒曜館に入るのがあたしのルートだ。ときどき、人に
「中庭の出入りは許可されていないわよ」
余計なお世話よ。ほっといて。
あたしは特別なんだから。
中庭へ出るための扉は、電子キーで閉じられている。あたしは、普段どおり、手動でキーを解除した。この程度のパスワード、一分あったら解析できちゃう。何回設定し直しても同じこと。
出来静世の話によると、中庭の出入り禁止は、虫のせいなんだって。虫が出て、人を刺したり噛んだりして、危険だから。
バカじゃないの? 虫より人間のほうが危険だと、あたしは感じる。
ミツバチの羽音。アゲハチョウのダンス。セミの歌声。ハエのごますり。ほら、虫くらい、どうってことないのに。
中庭の小道は幾何学的なラインを描く。両脇は、あたしの背丈くらいの高さのバラの垣根。秋バラの香りが、中庭に満ちている。ヒメリンゴの青い実が、華奢な木に、たくさんぶら下がっている。
ガサリ。
風のない中庭で、音がした。
人がいるってこと? うんざりだわ。誰にも会わずにすむはずのこの場所に誰かがいる。あたしだけの場所のはずなのに。
「おはよう。ねえ、ちょっと待って」
背の高い美少女が、現れた。
いや、少女ってカラダじゃない。豊満なバスト。ブラウスのボタンが、今にも弾け飛びそう。首のリボンネクタイはボルドーだから、あたしと同じ二年生らしい。
その胸の大きな女が言った。
「きみが、風坂麗?」
気持ち悪い、と思った。
こっちは相手のことを知らない。なのに、向こうはこっちの名前と顔を知ってる。
晴れた朝の空気に、軽やかな笑い声があがった。
「あはは、そんなに尖った目をしないでよ。かわいいなあ!」
あたしは黙って相手をにらむ。
声が出ない。言葉を編んで、喉が温まるのを待つ。そうしないと、対面した相手の前で、あたしは声が出ない。
「わたしは
右手が差し出された。あたしはその手を、音をたてて払いのけた。
その瞬間、喉のつかえが取れたみたいに、あたしの口から声が出た。
「二年一組担任の出来静世が、あたしの監督教員だから、あたしも、二年一組といえなくはない。でも、あたしは普通の連中とは関わりがないの。挨拶、なんか必要、ない」
万知のあごにほくろがある。唇は赤くてぽってりしている。笑顔には、こっちを呑み込みそうなくらいの色気があって、ゾッとする。万知は、背中に流した長い髪を掻き上げた。
「つれないね。静世センセイが言ってたとおりだ」
「……あんたに、関係ない、でしょ」
「関係あるよ? 風坂の話し相手になってほしいって、静世センセイに頼まれてる」
いきなり、あたしは強い力で引き寄せられた。
「っ……!」
万知があたしの肩を抱いている。
「わたしは風坂の友達になりたいな。その孤独な目に惹き付けられる」
「ちょっ……」
キスされそうなほど顔が近い。花のような匂い。あたしの手からカバンが落ちる。
「スキンシップ、苦手?」
万知の吐息があたしのおでこに触れた。あたしの目の高さに、万知の微笑んだ口元がある。あごのほくろ、すんなりと長い首。
「や……やめ、なさいよ……」
抱かれたままの肩から、ぞわぞわと寒気が広がる。
万知の体は柔らかくて温かくて、だから、鳥肌が立った。人間の体って、ぐにゃっと簡単につぶれて壊れてしまいそう。
心臓が走っている。呼吸が上がっている。
「かわいいな。そんな顔しないでよ。わたしは、ただ、お見知りおき願いたいだけ」
「め、迷惑よ……」
喉に声が詰まって、うまくしゃべれない。
離してよ。そこ、どいて。あんたなんかに、かまわれたくない。
ああ、また声が出ない。
あたしは無理やり、もがいた。背の高い万知を力ずく手押しのける。
「あらら、逃げられちゃった」
万知が肩をすくめた。
あたしは万知を避けて、さっさと歩き出す。あたしの背中を、万知の声がなで回した。
「わたしはきみのことが気に入ったよ、風坂。わたしは必ずきみと仲よくなるよ」
あたしは、あんたみたいになれなれしいやつが嫌いよ。大嫌い。
ほてりと寒気を同時に感じている。万知の肉体の感触。熱くて弾力があって、あたしに吸いつくみたいで。
人の体温に触れたのは、いつ以来だろう? こんなに気味が悪いものだった?
変なんだろうか、あたし。
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